渇望
「お父様、お母様!」
「エル、とてもきれいよ! 今日の来客の中では一番の仕上がりね。わたくしも鼻が高いわぁ」
対峙する男性陣をきれいに無視して、母は上機嫌で扇子を揺らした。
にこにこと笑みを浮かべるシルヴィーヌと対照的に、アレクサンドルの表情はまるで氷のようだ。だが、レイドはその、『氷の宰相』とも呼ばれる、誰もを凍てつかせる視線にも揺らぎもせず、落ち着き払っている。
「お解かりいただけているならば、むしろ話は早いと思いますが。近々正式にご挨拶に伺うつもりです」
「君から挨拶されるような事態は一切存在しない。用もないのに来ていただかずとも結構だ」
お互いに一歩も引かず、ぶつかる視線には火花が散っている気さえする。
なにやら緊張感を孕む空気がいたたまれずに、はらはらしながら母に助けを求めて視線を送るが、シルヴィーヌはゆったりと構えたまま微笑を崩さない。だが、そこでレイドが矛先を変えた。
「そうですか。ではシルヴィーヌ様に代わりにご挨拶に伺います」
「わたくしはかまわなくてよ。できれば早くお話を進めていただけると助かるわ」
「シルヴィ!」
宰相の思惑とは裏腹に、にっこりと笑って母が答える。あわてて母をたしなめようとする父の声にも、耳も貸さない。
「お母様、一体何の話をしていらっしゃるんですか?」
「何の話もしていない! お前は気にしなくていい!」
「で、でも」
「お父様は放っておきなさい。セルフィの結婚のときもこうだったもの。あなたはグランツ殿にすべてお任せしておけばいいのよ」
戸惑いながら母に問うエルサーナに、珍しくあわてた様子で話をさえぎろうとする父を、妹・セルフィーユの結婚のときのことを引き合いに出して、冷ややかに母が切って捨てる。
だけれど、いきなりそんな話に振られて驚いたのはエルサーナだ。
「お任せするとか、そんな話を進められても困ります!」
「あら、グランツ殿では不満なの?」
さすが血縁と言うべきか、大叔父と同じことを言う母に、エルサーナは頭が痛くなる気がする。
不思議そうに顔を覗き込まれて、むしろなぜそんなに母が乗り気なのかが理解できない。
「不満とかそういう問題ではありません! 私はまだ何も…」
「そうだ、結婚なんてまだ早い!」
「何をおっしゃるの、エルはすでに立派な行き遅れですわ。グランツ殿がお引き受けくださらなければ、この強情な娘は一生独身のままですわよ」
ざっくりと切り捨てられたエルサーナには、返す言葉がない。こうなった母に、口で勝てたためしがない。
茶々を入れる父の言葉も、母は一切受け入れるつもりがなさそうで。
「しかしだな、シルヴィ」
「あなたは黙ってらして」
ついに氷のように冷ややかな一言で一国の宰相を黙らせたシルヴィーヌは、一点の曇りもない輝くような笑みでレイドに向き直った。
「あなたも。エルにこんなことを言わせているようでは先が思いやられるわ。早くまとめておしまいなさい?」
「私の力不足でした、申し訳ありません。すぐにでも、夫人のおっしゃるとおりにいたしましょう」
「ええ。期待しているわ」
エルサーナが口を挟むこともできずにおろおろしているうちに、母とレイドの間で話がついてしまった。うなだれる父を急きたてて、「ではまた後でね」と鮮やかに笑いながら、母が離れていく。
それを見送ったレイドが、ちらり、とエルサーナを見下ろした。
「よかったな、誰も反対していない。ルイズベルト公もウォーロック夫人も了解済みだ」
「ど、どうしてなの、どうなってるの!? いつからなの!」
うろたえて詰め寄るエルサーナに、レイドはのどの奥で低く笑ってタネを明かす。
「公には、前の夜会以降、すぐに。俺の師匠が公と将棋仲間だったらしくてな、会う算段をつけてもらって以来だ。もちろん最初は下心があってのことだったが、すぐに見抜かれて、ずいぶんと嫌味を言われたがな。だが、お前を嫁にどうだと向こうのほうから勧めてきてくれたぞ」
「そ、そんな前からですか!? 両親には!?」
「お前のご両親には、ライトの件が片付いてからすぐにお会いしに行った。だが、宰相殿ともめて、条件を出された。半年以内にお前をその気にさせることが出来なければ、この話はなしだ、とな。その約束までにあと3ヶ月しかない。だから、年単位では待てない、と言った」
楽しそうなレイドに反して、エルサーナのほうはそう簡単に納得できる話ではない。
「ひどいわ、私、まだお返事もしていないし、それに黙って話を進めるなんて!」
「宰相殿には、事後報告よりもいいかと思ってな。どこからかかぎつけて、余計な妨害でもされたらかなわない」
確かにそうかもしれない。妹の結婚のときも、いろいろ裏で画策しては母にたしなめられていたらしいと聞く。まったく、今まで知らなかっただけで、父がこんなに厄介な人だとは思わなかった。
こそこそ付き合って、話が決まってから報告するよりはマシなのだろう。それは理解できなくはない。
けれど、悔しいような、怒りたいような気持ちが消えない。こんなことになる前に一言言ってくれれば、と思うも、ライトの一件のあたりはまだレイドと歩み寄る前のこと。レイドからエルサーナに前もって一言断ったところで、拒絶して逃げにかかっただろうとは容易に想像できるし。
頭でわかっていても、納得出来ない。硬い表情に変わったエルサーナを、レイドが困ったように見つめている。
でも、そんなもやもやした気持ちも、次の言葉で霧散してしまう。
「お前に内緒で事を進めたのは悪かったと思っている。だが、どうも待ちきれなくてな…。情けないが、お前を手に入れたくて、気が逸る。気を使ってやれなくてすまなかった」
ああ。だから、どうしてそう私の心をかき乱すの?
エルサーナは、すまなさそうなレイドの言葉に、みるみる顔が熱くなるのを自覚する。好きな相手に待ちきれないのだと求められて、うれしくない女なんかいない。
レイドの指先が、すっと赤くなった頬を滑る。
「こうしてお前を捕まえる算段をするのに、俺は結構頑張ったと思うんだがな。あとは…お前の返事ひとつだ」
ふと艶のある視線で見下ろされた。頬に触れていた指が、そのごつごつした形とは裏腹に、やさしく頬を撫でる。身をかがめて覗き込まれ、熱のこもった瞳で見つめられた。
「返事は、今夜中にもらう。…いいな?」
「は、はい…」
その、溶けそうに甘い低音が、エルサーナの躊躇する気持ちをあっさりと吹き飛ばした。有無を言わさぬ響きに、エルサーナは抗えずにうなずいてしまっていた。
…なにか、返事以外のものも奪われそうな気が、とてもとてもするのだけれど。
にやり、と獰猛に笑うレイドに、エルサーナは途方にくれて眉を下げた。