お預け
反論する気も失せて、諦め混じりにエルサーナはレイドの腕の中に納まっていた。もちろん、嫌ではなく、むしろ嬉しいからこそ困る。
広場で劇団の剣劇や歌劇を鑑賞し、エルサーナのおすすめの菓子屋で手土産と自分用の菓子を選ぶ。ついでにレイドが来客用の菓子を選ぶのに付き合って、帰り際に門前の雑貨屋に立ち寄り、もうすぐ夕食という時刻になって、ようやく2人は帰城した。
楽しかったけれど、なにか余計に疲労困憊したような気がする。今も戒めるようにつないだ手を見ながら、エルサーナは小さくため息をついた。
劇を見ている間中、レイドはエルサーナの腰に手を回して自分のほうに引き寄せていたし、話しかけるときには耳元で、艶のある低音を聞かせた上に、時には耳に唇を押し付けられた。
歩くときには、片時も離すまいとでも言うように手をつながれ指を絡められ、エルサーナの歩幅に合わせながら、いつもより多い人ごみからエルサーナをかばいつつゆっくり歩く。
自分に向けられる視線は常に甘く、熱く、いとおしげに絡みついて離れない。
昔は、びくびくする自分を思いやってか、こんな風に外で必要以上に接触することなんかなかったのに。しかも、赤くなったりうろたえたりする姿を、満足そうに眺めてさえいる。
「趣味が悪いですわ…」
「そうか? あまりにもかわいかったんで、つい、な」
楽しそうな笑みを浮かべたままのレイドを真っ赤になって睨んだまま、2人は城内を進んでいく。
「もう本当にやめてください、恥ずかしくて死にそうです!」
「恥ずかしさで死ぬことはない。好きなだけ困っていろ」
「ひどいですわ! 意地悪ばかりおっしゃって!」
からかい、反論し、口説かれ、赤面し、前までなら城内で絶対にしなかったはずの、レイドにつながれっぱなしの手すら、放ったままで。
不意に、レイドが思い出したようにエルサーナを見た。
「すまない、これを団長室に置いてきたいんだが、いいか」
そうして軽く持ち上げて見せた包みは、来客用の菓子と帰り際に雑貨屋で購入したペンだ。
「明日団長室に持ち込むより、今のうちに置いていったほうがいい。華月宮に戻る前に少し寄り道すれば済むしな。いいか?」
「はい。かまいません」
エルサーナは笑顔でうなずいた。
すでに終業で、西棟に人が少なかったのもあるだろう。いつもよりも人目が少ないことで、気が緩んでもいたのだろう。
レイドは団長室の金のプレートがついたドアに手をかけたが、開かなかった。レイドが不在の今日は、ライトがこの部屋の責任者だ。施錠して、すでに部屋に戻っていると言うことだろう。鍵を開け、レイドに伴われて何の疑問も持たずに中に入る。
魔法光のランプをつけるのを見るエルサーナの背後で、ドアがぱたりとしまったのも、そのときはなんとも思わなかった。けれど。
レイドが、手にした包みを執務机に置いて振り返る。その視線が、エルサーナを射抜いた瞬間、気づいた。
人目のない閉鎖空間に、2人きり。
エルサーナが息を飲むと同時に、レイドが動いた。
熱のこもった瞳で彼女をひたりと見据えたまま、大またにエルサーナへ近づく。足が、動かない。
手首を掴まれ、ゆっくりと引き寄せられた。レイドの胸に到達したそのとき、こらえきれないとでもいうように両腕にかき抱かれる。
「エル…」
低く名を呼び、確かめるようにぎゅうっと力を込められて、息が止まりそうになった。
誘い込まれたのだと、やっと理解する。きっと、この時間ならライトがすでに部屋に帰っているとわかっていて、外で時間を合わせて、ここに来る口実を作ったのだ。
けれど、謀られた、と思うのに。
ライトが審判を受けるのをなんとかしたくてここを訪れ、レイドに抱きしめられた。その日以来の抱擁に、体が、歓喜する。
「レ、イド、様…!」
腕の力、男の香り、吐息。そして、頬に、耳に、髪に落ちるキスに、膝が崩れそうになって、思わずその広い背中に手を回してすがりついた。
「エル、愛している」
かすれたその声が鼓膜を震わせ、頭の芯をしびれさせる。
「だめ、だめです。私といると、レイド様までが悪く言われて…」
「そうだな、エル。俺への中傷で、俺がお前を嫌うかもしれないと、怖気づいたんだろう。だからそうなる前に、お前は逃げた」
核心を突かれて、腕の中の華奢な肩がびくりとこわばった。
そうだ、レイドが悪く言われることが怖かったんじゃない。それで自分が嫌われるのが怖かっただけ。自分のせいだと責められるのが嫌だっただけ。
「俺と一緒に立ち向かうという選択肢を選んでくれなかったことは、今となってはどうしようもないことだ。だが、俺は腹が立って仕方がなかった。そこまで配慮が出来なかった自分にな。急ぎすぎた、今後悔しているのはそのことだけだ」
レイドは、エルサーナの耳元に、静かに語りかける。
レイドには見透かされている。ごまかしはきかない。言える言葉が何もない。エルサーナはただ、唇を震わせるだけだ。
「時期が悪かったとも言えるな。あの頃俺は騎士団長になったばかりで、周りのやっかみもひどかったし、あることないこと噂されている時期でもあった。自分は大丈夫でも、それを耳に入れたお前がどう思うかまで頭が回っていなかった。色ボケといってしまえばそれまでだがな」
違う、レイドのせいではない。そう言いたくても、声が出ない。何を言っても、言い訳の言葉しか出ないような気がするから。
「つらかったら逃げてもいいといったのは、俺だ。お前はそのとおりにしただけだ。だから、何も気に病む必要はない」
言葉は淡々としているけれど、声にはエルサーナを気遣う色が混じっている。どうして、彼はこんなに優しいのか。勝手に怖くなって、勝手に逃げて、レイドを悩ませた。それなのに…。愛しているなんて、言われる資格がない。
「さすがにここ一年ぐらいは、お前が苦しむくらいならあきらめようかとも思ったんだがな」
レイドは少しだけ体を離した。真剣な目でエルサーナと視線を合わせ、彼女の左手を取る。
「こんな安物、後生大事につけていられたら、忘れてほかの女と付き合うなんて到底無理だろう?」
その、手首に光る銀の輪に触れられて、エルサーナはまるで肌をなぞられているような錯覚を覚えて、震える。
と、レイドが不意に、眉間に深いしわを刻んで、ため息をついた。
「ライトのことで俺のところに飛び込んできたお前が、前と変わらず、俺を頼りにしてくれているのだとわかった。それを知ったライトが、よりを戻せといちいち挑発してきやがる。目の前でアーシェとべたべたべたべたと飽きもせずにな」
「そ、それは私のせいでは…!」
ライトがレイドに、「俺と同じ髪色の金茶色の小型犬が、お前を一途に想い続けて華月宮で待っている」なんてご親切にも煽ってくれていたことなど、エルサーナは露ほども知らない。
いつもと違った乱雑な口調を珍しく止めようともせず、わずかに苛立ち混じりのその声で、ライトがアーシェと一緒の執務室でいったい何をしているのだろうと考えると、頭が痛くなる。
そして、そんな弟のために思いつめた挙句に、レイドの元に助けを求めた出来事は、レイドからしたら肉食獣の眼前に飛び出してきたウサギとでも言いたげな様子にうろたえるしかない。あのときには、それしか方法がないと思っただけなのに。
「それに、今思えば過保護に過ぎた。俺が甘やかせば甘やかすほど、お前はそこに立ち止まる。お前が立ち向かう勇気を、俺が奪っていた」
表情を改め、レイドはエルサーナの両手を自分の大きな手にすっぽりと包み込み、視線を合わせて諭すように言う。
…守られれば守られるだけ、そこから一歩も前に進まなかった。もう少しだけ、と言い訳しながら、その先の道から目をそむけていた。レイドの言うことは真実で、エルサーナは返す言葉もなく、唇をかむ。
「それに、お前がここまで頑固だとは思っていなかったしな。逃げてもいいと言ったのは確かだが、まさかここまで逃げ回られるとは思っていなかった」
「ご、ごめんなさい」
ため息交じりの声がいたたまれない。確かに、逃げ回っている自覚はあったから。
「だが、それでは逆効果なんだと、お前はわかっていないんだろう? そこまでむきになって逃げ回るのは、俺に会って決心が揺らぐからだ。つまり、そこまで俺を意識していると言うことだ」
まったくそのとおりだ。今まで、レイドに悟らせてはいけないと必死に抑えてきた努力は、いったいなんだったんだろう? 恥ずかしさで、顔から火が出そうだ。気持ちが筒抜けだったのも、そんな行動をすっかり見られていたことも。
「もし、今お前と俺が付き合っていると知れて、回りはどう反応すると思う?」
その言葉に、レイドの手に包まれている小さな手が、びくりと震えた。けれど、レイドはかまわず続ける。
「俺が騎士団長になってもう5年だ。ウォーロック家の後ろ盾で騎士団長になったなどと、誰が言うと思う? 誰にも文句は言わせん。それだけの実績はある」
自信に満ちた声に、エルサーナは顔を上げた。
確かに、あの時とは状況が違う。いまさら、自分達兄弟を抱きこんで騎士団長になったなどと、誰が言うだろう。
騎士団の名声が特に高くなったのは、レイドが騎士団長に就任してからだ。
これまでに多くの事件を解決し、警護では一度たりとも王族を危険にさらしたことがない。
はじめのうちは平民からの成り上がりと見られ、嘲笑されることもあったというが、レイドは実力で周囲を黙らせた。今では騎士団長として、国内外にその名を知られるまでになっている。
その上、ライトの問題児っぷりはいまや周知の事実だ。元々副団長に抜擢される前から、命令無視、独断専行、職務放棄など、起こした問題は枚挙に暇がない。ほかの人間の命令は納得できなければ絶対に聞かないし、トラブルも起こすが、レイドの元では文句を言いつつ従っている。しかも、公爵家の次男などという面倒な肩書きまで持つ彼は、レイドでなければ制御できないとすら言われている。だから、レイドが地位と引き換えにライトを引き立てたのではなく、面倒な人材を押し付けられたのだと、今では認識されているようだ。
エルサーナのほうは、すでに年齢も30を数えて、適齢期を大幅に過ぎ、いまや縁談すらもないような女だ。過去の問題もあり、いくら実家の名前があっても、結婚するには面倒な女だと烙印を押されている。それに、今では社交界も世代交代した。行き遅れの自分よりも、もっと若くて華やかな令嬢たちが、今では話題の中心だ。エルサーナは、すでに忘れられた存在になっている。
むしろ、こんな兄弟を引き受けたレイドのほうが、気の毒がられる状況かもしれない。レイドと自分がどうこうなろうと、いまさら誰の興味も引かないのではないだろうか。
思考に沈んだまま何も言わないエルサーナを、レイドは再び、腕の中に引き寄せた。
「今度は甘やかさない。ただ砂糖菓子のように甘く包むだけでは、いつまでたってもお前は臆病なままだ」
そういいながら、レイドの声は蜜のように甘く、エルサーナを誘惑する。
「だから、引っ張り出してやる。怖い思いも、嫌な思いもするかもしれない。だが、それでも俺はお前が欲しい」
かすれた声に、ぎゅっと目を閉じる。今まで閉じ込めてきたつもりの心の砦はすでに崩壊してしまった。このままさらわれてもいいとすら思えてくる。
「覚悟を決めろ。もしこの先そういう目にあっても、俺がそばにいる。忘れるまでいくらでも慰めよう。だから、逃げると言う選択肢だけは許さない」
その執着が、甘くて、痛くて、怖い。
気持ちはレイドに向いている。でも、急なことに、頭が働かない。
唇が震えて、ここで返事をしてもいいのか迷う気持ちを捨てられなくて、どうしても肯定の返事が出ない。
レイドはまた少し体を離して、不安げなエルサーナの小さな顔を両手で包み込む。
「返事は急がない。…が、年単位では俺でももう待てそうにない」
そう言って、レイドは幾分苦しそうなため息をついて、額にキスを落とす。
「この五年、ただの一度も女を抱かなかった。抱きしめたい女はお前しかいない。責任を持って俺に捕獲されておけ」
「あ…!」
あけすけなことを言われているのに、何度も顔に落ちる唇に、ごまかされてしまう。
鼻に、目元に、頬に、耳に、額に、あごに、こめかみに。
いくつもキスは降ってくるのに、唇にだけは下りてこない。こらえきれずに、ついうっすらと唇を開くと、苦笑された。
「そんな顔をするな。これでもぎりぎり踏みとどまっているんだ」
「何、を…?」
思わず返した声には、答えなかった。けれど、親指が、どこか愛撫にも似た動きで、ゆっくりとエルサーナの唇をなぞった。ぞくりと、背中があわ立つ。
レイドが、吐息が触れるほどに顔を寄せる。
「唇へのキスは…お前の返事が聞けるまで、お預けにしておく」
艶のある笑みとともにそう言って、レイドはエルサーナの唇の際に、小さくキスを落とした。
団長、焦らしプレイですかぁぁ!