途切れた糸 その後・後
思うところがありまして、本編とはレイドのスタンスが若干変わっています。
今回はあまり気にせず読んでいただけると嬉しいです、
西棟の廊下を足早に進みながら、目的のドアにたどり着く。行きかう騎士たちが、自分をちらちらと伺う視線がいたたまれない。
それでなくても、こんな時でもなければ、あまり近づきたくない場所だった。
胸の奥に残った想いが、疼くから。
だけれど、今のエルサーナには他に選択肢などない。
目の前にあるのは、騎士団団長室の重厚な扉だ。鋲で打たれた『団長室』の金のプレートが目に痛い。
このドアをノックするには、とても勇気が要る。偶然出会う以外にこうして、しかも自分から会いに行くなんて事は、この五年間、一度もなかったことだったから。でも、そうしなければ、ライトはこのまま姿を消してしまう。せめて、ライトが望んでいる結末だけは阻止したかった。
数度の深呼吸の後、控えめなノックに『どうぞ』と返る低い声に震える心を押さえつけて、エルサーナはドアを開けて中に滑り込んだ。
そうして現れた自分に、わずかに目を見開いたその人の姿に、エルサーナはそっと目を反らす。
レイド・グランツ。現騎士団団長。
見上げるほどの長身、がっしりした筋肉質の体つき、ざっと後ろに流された夜色の髪、恐ろしげな三白眼、けれど渋く整った精悍な顔立ち。
今も忘れられない、エルサーナの想い人。
一時期心を通わせた記憶は、今尚色あせずに心の奥に存在する。
姿を見れば目で追ってしまい、目が合えば心が高鳴り、声を聞けば体が震える。
走り寄ってしまいたい気持ちを懸命に抑えて、エルサーナはドアを閉めた。
レイドが椅子を立ち、執務机をぐるりと回ってやってくる。
相変わらず、書類や脱ぎっぱなしの服などがその辺に投げられていて、乱雑な部屋だ。こんなところは、5年前と変わらない。
ただ、ライトがいたはずの机だけが綺麗さっぱり何もなくなっていて、部屋の中でそこだけが妙に浮いている。
「随分と珍しい。どうした、エルサーナ殿」
「お忙しいところ申し訳ありません。お願いがあって、ライトのことで」
「なんなりと」
顔立ちは獰猛な鷹のようなのに、声は優しい。けれど、その優しい声は、はっきりした距離を保って、エルサーナに話しかける。
それが、どうしようもなく痛かった。
そうすることを望んだのは、そうさせたのは自分なのに。
「ライトのお話、あなたは知っていらっしゃるんでしょう?」
「ああ、部下の不始末だからな」
うつむきながらの問いかけに、レイドは表情を変えずに淡々と答える。
『部下の不始末』
その言葉に、エルサーナは奥歯を噛み締める。
確かにその通りだ。自分たち身内には大事でも、詳しい背景を知らない、レイドのような他人にとって、ライトの行動はただの不始末でしかない。
「ライトが罪を犯したことはわかっています。けれど、あの、何とか助けたくて」
「立場的に、魔術を操るものとして、騎士団副団長を拝命しているものとして、ライトが禁を犯したことは許されるべきではない」
きっぱりと言い切られて、思わずうつむく。
エルサーナも、それは十分わかっているつもりだった。けれど、レイドの言葉と自分の心情、正しいのは一目瞭然だ。
藁にもすがる気持ちでここにきたけれど、自分の愚かさと身内びいきをはっきりと自覚しただけだ。
ライトも、望んでいない。来るべきではなかったのかもしれない。
きっと、レイドだって不愉快だろう。こんなことで押しかけてこられて、さぞ迷惑な思いをしているに違いない。
一体どうして、自分が何とかできるなんて思ったんだろう。思い上がりもいいところだ。
いたたまれなさに涙がにじむ。
「だが、あれはなんと言うか、自傷行為みたいなものだな」
エルサーナが弾かれたように顔を上げると、レイドの顔には、わずかに呆れたような色が見て取れた。
それを、一縷の望みを持ってすがるように見上げる。
「勝手に自分を追い込んで、勝手に拗ねて、勝手に思いつめて、いじけて何もかも放り投げようとしている子供だ。悲劇の主人公にでもなったつもりなんだろう。なにか知らんが、自分一人がいなくなればとか、悲壮な決意でもしているんじゃないのか? まったく、未だにガキっぽいところが抜けきらなくて困る」
と、レイドにかかれば、ライトをまるで子ども扱いだ。
レイドは今36歳。ライトとは8歳の差がある。しかも、平民出のたたき上げで、12年前にあった隣国からの侵略戦争のただなかにいた男だ。くぐった修羅場の数など、ライトは到底かなわない。
その辺の余裕や人生経験が、あの癖のあるライトを部下として使える所以なのだろう。
その揺るぎない存在感に、エルサーナもすべてを預けきった。そのことは、まだ忘れていない。
「レイド様も、相談は受けておられないのですか?」
「あいつがそんなかわいいタマでないのは、あなたも知っての通りだろう。いつものように、出勤と同時に爆弾落としてさっさと帰りやがった…っと、失礼した」
ぞんざいな口調になりかかるのを、途中でやめるところは、今も昔も変わっていない。自分に対して、精一杯気を使ってくれているのがわかる。
どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。
その優しさが痛くて、泣きたくなる。
「あの、こんなことをお願いするのは筋違いだとわかっているんです。でも、どうかお願いします。ライトのこと、なんとかなりませんか?」
すがるように見上げる視線に、一瞬レイドの眉が険しくなるが、本当に一瞬で消し去り、鷹揚に腕を組む。
それに気づかず、エルサーナは尚も言い募る。
「罰を受けなければならないことは、理解しました。けれど、ライト一人がいなくなって丸く収まるとはどうしても思えないんです。その、猫にされていた子とも、何の決着もつけていないようでした。…もしかしてそれが、あの子を救う鍵になるかもしれない。ライトは絶対にダメだって言うんです。その子をこれ以上かかわらせたくないって。だけど、私は何とかしてあげたいんです」
必死なエルサーナに対し、レイドの表情は変わらない。
それが、余計にエルサーナに焦りを生む。
「あいつは、助けなど望んでいないようだが」
「それは確かにそうですけど…。でも、あのまま一人になっても、ライトの状況が好転すると思えない。きっと、もう二度と他人を寄せ付けずに、生きていても死人のようになるだけのような気がするんです。あの子にはもう、私たちの言葉は届かない。あの子は、消えたがっているの」
そうだ。自分たちの言葉など届かないほど、ライトはあの猫(だった少女)がすべてなのだ。
身内の心配など、捨ててしまえるほどに。
「言いたいことはわかった。何の相談もなしに勝手に居なくなられるとこちらも迷惑だし、出来るだけのことはするつもりだが、あいつは頑固だからな。あれを覆すのは、容易ではない」
「だけど、みんな心配しているんです! それなのに、誰にも何の相談もなく、罰を受けて、城からいなくなろうとしているなんて、どうして…!」
「だが、その選択自体は間違いではない。なにより取り締まる側の俺たちがそれを許したら、ほかに示しがつかん。被害者感情もある。それはわかっているだろう?」
レイドの正論に反論できずに、エルサーナは唇をかんだ。
幼子に噛んで含めるような口調に、悔しくて、涙がにじむ。
こうなる前に、何とかできたのではないか?
誰かに相談してくれれば、みんなで解決策を考えることもできたかもしれない。
けれど、ライトはその選択肢を選ばなかった。
家族であるはずの自分達すら、ライトは頼ろうとしない。
私達は、そんなに嫌われているのだろうか?
ただ心配することが、そんなに迷惑なんだろうか?
どうして、どうして、どうして。
ライトによく似た美貌が、苦悩にゆがむ。エルサーナの内心を察してか、レイドがそっとエルサーナの肩に右手を置く。
「あいつは人付き合いだけは壊滅的に不器用だからな。別に誰かを嫌ってとか、拒絶してこうなったわけではない」
「だって、じゃあどうして私達に一言の相談もなく…っ」
「相談しづらいことであることは確かだ。あいつも、迷って迷って、この選択肢しか選べなかったのかもしれない」
「それでも! 私たちまで無視することはないじゃない!」
声を荒げて、また自己嫌悪。まるで子供の駄々だ。
わかっている。ライトリークにも同じように八つ当たりして、後悔したばかりだ。でも止められない。
「エルサーナ殿」
なだめるような声に、かっと頭に血が上った。
「他人行儀にしないでっ!」
叫んで、肩に置かれていたレイドの手を振り払った後、はっと顔を上げる。
そして、次の瞬間血の気が引いた。
私、今、何を言ったの…!?
自分だって、ライトと同じだ。この人を傷つけたくなくて、守りたくて、自分も傷つきたくなくて、勝手に身を引いたのに。
それなのに、未練たらたらで、レイドが優しいのをいいことに、都合のいいときだけ甘えるなんて。
最低だ。
急に自分のしていることが恥ずかしくてたまらなくなった。
エルサーナが身を翻して、逃げ出そうとした体を、後ろからすばやく伸びた腕に抱きしめられる。
それ以上、そこから一歩も動けなくなる。
「エル…」
耳元に、吐息と共に落とされた声に、体が震えた。
そんな風に呼ばれるのは、いつ以来だろう?
こらえきれなくなった涙が、ほろりとあふれる。
「そんな目で見られたら、理性が持たん」
かすれた声に交じったため息が、エルサーナの肌を焼いて、体の芯がうずいた。
「まったく、かわいい格好で久々に俺のところに来たと思ったら、随分と色気のない話を持ってきたものだ」
耳に直接流し込まれる低い声は、頭の芯を溶かす。
だって…だって、そんな理由でもなきゃ、ここに来ることなんてできないのに。
「しかも、お前の望むとおりにわざわざ距離をとってやっているのに、それも気に入らない、か。…どうすればお前は満足なんだ?」
だけれどその言葉には、どこかからかいの色が混じっていて、レイドが怒っているわけではないことが知れる。
背中に感じる大きくて硬い男の体は、今も昔もエルサーナに安心感をくれるのだ。
エルサーナを抱きしめる太い腕に、きゅうっと力が入った。
「大丈夫だ。何とかなる。だからそんなに泣くな」
あやすように耳に落とされる低い声に、小さくうなずく。
レイドに何とかなると言われれば、なぜかどうにでもなるような気がするから、不思議だ。
と、その時。耳に落とされる柔らかい感触は、…唇!?
「やっ…」
反射的に身をよじると、思いのほかあっさりと開放される。
あとずさって、団長室のドアに阻まれると、一歩で間を詰めたレイドが、片手をドアについてエルサーナとの距離を縮めた。
鋭い目に見つめられて、穴が開きそうな気がする。キスされた耳が熱い。体が震える。レイドと見詰め合ったまま、一歩も動けない。
「ライトのことは、黙って見ていればいい。だから、余計なことはせず、いい子にしていろ、エル。…今日のところはこれくらいにしておく。ライトの件が片付いたら、次はお前の番だ。覚悟しておけよ?」
「な、何をですか…?」
わかっていて、聞いたのかもしれない。
わずかな笑みを佩いたレイドの顔が、ぐっと近づいた。
「本気でわからないのか、わからない振りをしてるのか? 全く、お前は俺を振り回すのがうまいな」
そう言って、あまりの近さにぎゅっと目を閉じたエルサーナの頬に、またわずかに唇が触れた。
それから体を離し、レイドは背後のドアを開け放つ。
…大きな体の圧迫感がなくなったのが、どうしようもなくさびしかった。
「さあ、もう行け。今ここで俺がお前を逃がせなくなる前にな」
レイドが、怖いくらいに真剣な顔でエルサーナを見下ろしている。見上げた瞳は、たった一夜、思いを重ねた時と同じ熱を孕んでいて。
どうしようもなく切なくて、けれどどこか怖いような、期待しているような不思議な気持ちになって。
エルサーナは、耐え切れず、何も言えないまま逃げるようにその場を後にした。
華月宮へ戻る途中、ドレスの袖の下に隠した金属の輪に服の上から触れる。肌に触れるそれがひやりと冷たいのは、体温が上がっているせいなのだろうか。
どくっ、どくっ、と鼓動を打つ心臓は、一打ちごとに膨れ上がっていくようだ。
顔が熱い。体も熱い。久しぶりに抱きしめられた体は、男の腕を覚えていて、それだけで腰が崩れてへたり込んでしまいそうになる。
ライトのことが片付いたら、私はどうなってしまうんだろう?
ずっと消せずに居たレイドへの思いは、こんなにも簡単に再燃する。
身を焼き尽くすほどの熱に翻弄されながら、エルサーナが思うのはただ一人。
「私の方が、いつでも振り回されているのに…。レイド様は、ずるい」
甘苦しい想いでその名を呟けば、胸が苦しい。
もし次に抱きしめられたら。
もうレイドから離れられなくなってしまう。
そうしたら、自分もレイドも守れなくなってしまう。
「私、どうしたらいいの…?」
その疑問に答えるものは、誰も居ない。