急転
次の日、ゆっくりと微睡から覚めると、夜着のレイドの胸に抱き寄せられていた。
寝起きでぼんやりしたまま見上げれば、レイドはすでに目覚めていて、飽くことなく自分を見つめていた。
寝顔を見られていた恥ずかしさに真っ赤になり、抗議しても彼は笑うだけで、それもすぐに重なる唇に消えた。
窓の外は白み始めたばかりで、まだ城中が寝静まっている時間だ。本当は昨夜のうちに華月宮に戻るつもりだったエルサーナは、思いのほか長居してしまったことに、何か悪いことをしている気分になってしまう。
「まだ一時間は大丈夫だろう。少し落ち着け」
そわそわしていれば、あっさりと見抜かれてまた抱き寄せられた。腕の中に包まれてゆっくりと頭を撫でられて、焦燥感が消えていく。その後、湯を使わせてもらい、足の間に感じるひりひりした痛みに、羞恥と幸せを感じて、泣きたくなった。
部屋着に着替えて出ると、レイドが手ずからお茶を入れてくれていた。
「お前の腕に比べれば、児戯みたいなものだがな。あまり気にするなよ」
そういいながらも、彼の母親は茶に通じていて、その手ほどきを受けたレイドの腕はなかなかのものだ。
ソファに腰を落ち着け、カップに手を伸ばす前に、引き寄せられて唇が重なる。
「ん…」
飽くことなく、何度も重ねられて、体が溶ける。
「あ、ん…お茶が、冷めて…」
「飲み頃になるまで、な」
そうして、すっかりぬるくなったカップに手を伸ばす頃には、一度着た部屋着の紐は解かれ、胸元を開かれたあられもない姿に真っ赤になる羽目になった。
身支度を整えて、まだ早朝の薄暗い廊下を、手をつないだまま2人で歩く。華月宮に程近い柱の影でキスを交わし、後ろ髪を引かれながらエルサーナは部屋に戻った。
昨夜の情事の痕跡は色濃い。レイドに触れられた感触は鮮明で、愛撫にさらされた足の間はまだじんじんとうずいている。
腹の奥に鈍く残る痛みすら幸せで、恥ずかしくて、部屋に一人だというのに身の置き所がなくベッドにもぐりこんでしまう。
こんなことでは、思い出してしまって仕事にならない。挙動不審なままでは王妃にも感づかれるだろう。それはさすがに恥ずかしすぎる。今日を休みにしておいてよかったと、安堵のため息をついた。なんとか今日一日で、落ち着かなくては。
余韻が残る体を、ブランケットの下で抱きしめる。
さっき別れたばかりなのに…。もう、切ない。
あれから3日、レイドには会えずじまいだった。夜会の夜は、スケジュールが詰まっているところを強行して参加したらしく、その分の付けが回っているのだとは、ライトに聞いた。無理をさせてしまったことに、申し訳なさで胸が痛む。
けれど、侍従を通じてフルーツと、体が温まると言うお茶の葉が届けられ、気遣われているのがわかって、そのやさしさに胸が高鳴った。
あの後、体中が痛くなってしまい、治癒師に相談しに行って下された見立ては、「緊張で体に力が入っていたこと、急な運動をしたことによる筋肉痛と関節痛」だった。
最初はダンスのせいかとも思ったのだが…思い当たったエルサーナは、真っ赤になった。レイドの腕の中で一夜を過ごしたからだとは、治癒師には口が避けても言えるわけがない。
いぶかしむ治癒師が治療をすすめてくるのを何とか断って、エルサーナは逃げるように自室に戻った。動くたびに痛む体も、あの夜の記憶をまざまざと思い出させて、エルサーナに甘い懊悩を抱かせる。それを消してしまうのが、どうしても惜しい気がしたからだ。
日がたつにつれ、手や唇が触れた感触も、体の痛みも薄らいでくる。それが、体に残ったレイドの残滓が薄れていくように感じて、切なかった。
会えない男に焦がれて、毎夜思うのはレイドのことばかり。会いたくて、切なくて、けれど思い悩むその時間すらも幸せだった。
それが一瞬の蜜期だったと知るのは、その直後のことになる。
所用を終え、中央棟の廊下を歩いているときのことだった。
その声が耳に飛び込んできたのは、今思えばタイミングが悪かったのだろうと思う。
「しかし、グランツもなかなかのやり手だ。ウォーロックの姉弟を両方取り込んで、騎士団長の地位も安泰だな」
そんな声が聞こえてきたのは、わずかにドアが開いた会議室からだった。
レイドと自分の名前が出たことに、一瞬で指先が冷える。
よくないことであるのは明確だ。聞かなければいい、けれど、聞かなければいけない。
奇妙な焦燥感に襲われて、エルサーナはドアの影にそっと身を寄せた。
「まったくだ。将を射んとすればまず馬からと言いますからな。あの2人さえ味方につけておけば、宰相からの覚えもめでたくなると言うわけだ」
「それにしても、上手いことあの堅物の女を落としたものだ」
「いや、すでに3回も結婚に失敗して、焦っていたところにでも付け込んだんだろうさ。あれであの男は抜け目がないからな」
「そうとも知らず、エルサーナ嬢はのんきに夜会に伴ってきたそうだ。あの男はずいぶんと我が物顔で振舞ったと聞くぞ」
「これはいよいよもって、ウォーロックの名を狙っているとしか思えませんな」
「平民から騎士団長になったのでは無理もない。ハクをつけたいのだろうさ」
「あの男も、欲望に目がくらんだ小物ということですかな」
そこまで聞いて、エルサーナはドアから離れて駆け出した。それ以上聞いていられなかった。
息が苦しい。心臓が嫌な軋みを上げている気がする。人に見咎められてもかまわず、自室に飛び込んだ。
ドアを閉めた瞬間、どっと涙があふれた。
誰が話していたかはわからない。そんなことはどうでもよかった。
彼らの話は真実ではない。レイドとのこの数ヶ月で、それは理解しているつもりだった。けれど、どうしても疑念を抱く自分がいる。
まただまされたのか?
また利用されたのか?
それが目的だったのか?
ウォーロックの名が、後ろだてが欲しかったのか?
(違う、違う! そんな方ではないわ!)
エルサーナは必死に否定する。レイドと知り合ったのは、彼が騎士団長になってからだ。ウォーロック家の手助けがあったわけではない。何より、父は人事に口を挟むことを嫌う。大体、無能者を引き立てたところで、自分が面倒になるだけだと言ってはばからない。レイドの人事に、後ろ暗いことは何もないはずだ。
そこで、気づく。
レイドのこれまでの努力を否定されているのだと。
レイドは元々辺境の地の出身だ。先の戦争で多大な貢献をして、地方の砦の一兵士から騎士に推され、城へ上がった。そしていくつもの功績を上げ、騎士団長に抜擢されたと聞く。
ここに至るまでには、苦労も痛みもあっただろう。平坦な道ではなかったはずだ。それが、エルサーナと夜会に出た、それだけのことで貶められている。
過去の心無い中傷を思い出す。
自分を見る好奇の目を思い出す。
ひそひそと交わされる噂を思い出す。
それらが頭の中でぐるぐると回ってがんじがらめになって、息ができない。
そうだ、いつまでたっても、私は逃げられない。
私が、エルサーナじゃなかったら。エルサーナ・ウォーロックでさえなければ。私が私でなかったなら!
痛いほどに思い知る。
「どうしてなの…どうして…。やっぱり私には無理なの…」
レイドも、相手が自分でさえなければ、こんないわれのない陰口を叩かれることもなかったはずだ。
私がいたら、レイド様が不幸になる。
私といたら、レイド様は悪く言われる。
噂が広まり、誰もがエルサーナとレイドを好奇の目で見て、はやし立て、噂する。
もしそれを、レイドが疎ましく思ったら?
自分といることを、迷惑に思ったら?
きっとまた繰り返す。今度も同じ結末になるかもしれない。もう嫌だ。もう聞きたくない。もうあんな思いはしたくない。
しかも、前の婚約者以上に、レイドに心を奪われているのに、もし別れを告げられたら。
それを考えるだけで、胸がつぶれそうだった。
エルサーナは、ただ泣き続けるしかなかった。