始まりの夜
程なく、馬車の揺れが止まった。レイドはようやくエルサーナの唇を開放し、頬を撫でながらいとおしげに見つめる。
「残念だ。もう着いてしまったな」
「あ…」
切なげに溶けた表情で見上げられて、苦笑する。
自身の唾液に濡れた唇を、きゅっと親指でぬぐってやる。
「そんな顔をするな。連れて行かれたいのか?」
からかうような声音に、かっと顔が熱くなる。
「ひ、ひどいです…あんなことまでするから…!」
なじる声は震えている。それもそのはずで、レイドが望んだキスは、唇だけではすまなかったのだから。
耳元から首筋、肩、滑らかな鎖骨、大きく開いた胸元、それどころか、襟元を引っ張り下ろして、きわどいところにまでたくさん口付けられた。
泣きそうな顔で抗議するエルサーナに、レイドはにやりと笑った。
「お前が誘うのが悪い」
「誘ってなんかいません!」
真っ赤な顔で必死に反論するのさえ、かわいくて仕方がない。その肩に手を回して引き寄せて、首元に顔を埋めた。ほのかに香水が香る首筋に軽く吸い付くと、『あ…っ』とあえかな声を上げて、ふるりと震える。
まったく、これを手放すのは、相当な苦労が要るな。
内心で苦笑しながら、レイドはエルサーナを膝から下ろした。
御者がドアを開け、先に下りたレイドが手を差し伸べる。
「来い」
短く命じられて、エルサーナは抵抗もできず、吸い寄せられるように華奢な手を預けた。
すでに王城は就寝の時間が近く、明かりは落とされている。廊下を照らす魔法光は、オレンジの淡い光に抑えられていて、2人を見咎める人もいない。
「あの、今日はありがとうございました。とても…楽しかったです」
「そうか、それはよかった。俺も楽しませてもらった。色々と、な」
「もう…っ」
その言葉の意図するところを悟って赤くなるエルサーナに、レイドは笑う。
最初はどうなることかと思っていたが、レイドがいてくれたおかげで、本当に楽しかった。ダンスまで踊れるなんて、まるで夢のような時間だった。でも。
「もうおしまい、ですね…」
こんなにレイドと触れ合えたのに、もう離れなければならないなんて。
だけれど、名残惜しげな様子に立ち止まったレイドが、エルサーナをじっと見下ろした。
それがどこか困っているような、怒っているような表情に見えて、何かいけないことを言ったかと戸惑ったそのとき。
レイドの硬い指が、エルサーナのドレスの胸元、広く開いた襟ぐりの際の白い肌を、つうっと滑った。
「やっ…!」
びくり、と体が硬くなる。これは、きっと警告。この先がある、と、エルサーナにわからせるための。
「本気でさらいたくなるから、言うな。お前が泣くことになる。さっきまでのアレでは済まんぞ」
「…わかってます」
幾分低くなったレイドの声に、エルサーナはうなだれる。
怖気づいたのは自分だ。もういい年の男女が、こんな時間に部屋にこもって、キスだけで済むわけがないとは、エルサーナだって頭ではわかっている。だからこそ、レイドはあえて引いてくれているのだ。
(わかっているけれど、でも)
それなら、この離れがたい想いは、どうしたらいいのだろう?
エルサーナは、途方に暮れてレイドを見上げるしかない。
「もう少し脅しておくんだったな…。俺に襲われたくなければ、今日はおとなしく部屋へ戻れ。朝までキスだけで済ませられるほど、俺は枯れてはいないし、聖人君子でもない」
「…はい」
ため息交じりに、頭痛をこらえるような顔で言われては、さすがにエルサーナもわがままは言えなかった。その頬に、大きな手が滑る。
「迷惑だからじゃない。呆れてもいない。お前の気持ちが追いつくまで、待つだけだ。ゆっくり考えてくれればいい」
「はい」
瞳の奥の熱を押し隠し、レイドは淡々とエルサーナを諭す。この小動物のように臆病な女性に、自分の暴風のような想いをぶつけるのは、まだ早いのだと言い聞かせながら。
華月宮の扉の前で、最後に触れるだけのキスを残し、レイドと別れる。
部屋に戻ってドレスを脱ぎ、髪をといて風呂を使う。けれど、その間中、考えるのはレイドのことだけだ。
触れる手も、言葉も優しい。けれど、甘い言葉でエルサーナを誘うことはない。拒否したのに、どこか嬉しそうに好きなだけキスをねだる彼は、どう考えてもエルサーナを甘やかしすぎていると思う。
前の婚約者とは違う。したたかで、少し強引で、臆病なエルサーナの手を引いて前に進ませてくれる。
でも本当に怖いときには逃げることを許してくれるし、勇気が出るまで待っていてくれる。
誠実で、エルサーナに甘い大人の男。
体をゆだねるのは、まだ怖い。怖いけれど、レイドなら受け止めてくれるはずだ。
なにより、馬車の中での体へのキスで、初めて芽生えたぞくぞくするような体のうずきは、レイドのことを思うと強くなるばかりだ。これを鎮められるのはきっとレイドしかいないのだと、そう思ったらいても立ってもいられなくなった。
どうなってもいい。レイドのそばにいたい。何でもいい、一晩中抱きしめていて欲しい!
衝動的だと、自分でも驚いた。けれど、今は勢いでもいいから、レイドの腕に飛び込みたかった。
髪をゆるくまとめてアップに止め、部屋着に大きなショールを羽織る。時間はすでに真夜中になる頃で、出歩く人はいないと思うが、部屋着のままうろうろするわけにはいかない。ショールは大きくて上半身の大半を隠してくれるし、それほどおかしくはない気がした。
そうしてエルサーナは部屋を抜け出し、レイドの元へ向かう。
何かいけないことをしているような罪悪感もあるし、レイドの部屋が近づくに連れて動悸が激しくなる。気が高ぶっているのか、緊張しているのか、足元がふわふわして落ち着かない。
けれど、引き返そうとか、やっぱりやめようとは、少しも思わなかった。
もしかしてもう寝ているかもしれなかったけれど、それならそのときに部屋に戻ればいいと決めた。
幸い、レイドの部屋まで誰にも会わなかった。もし途中で誰かに見られていれば、少しは頭が冷えたかもしれない。けれど、何の障害もなくたどり着いてしまったエルサーナには、もう自分を止めるすべは持っていなかった。
ドアの前で、さすがに緊張で深呼吸をする。
もう寝ているかもしれない、迷惑がられるかもしれないと、少しだけ迷って、でも結局ドアをノックした。
答えはなく、不安で逃げ出したくなる足を必死にそこに縫いとめて、待つ。
すると、少しして鍵を回す音がして、ドアが開いた。現れたレイドは、エルサーナの姿を見るなり、驚きに目を見張る。
「こんな遅くにごめんなさい。でもやっぱり、どうしても離れたくなくて…」
反応が怖くて、声が尻すぼみに小さくなる。うつむくと、うなるようなレイドの声が降ってきた。
「そんな格好でここまで来たのか」
見上げたレイドの顔が険しい。やはり迷惑だったかと、後悔しかけたとき、エルサーナの腕が強い力で引かれ、レイドの胸の中にさらわれた。
引き込まれた背後で、静かにドアが閉まる。
「こんな薄物を着て、こんな時間にふらふら歩くなんて、何を考えてる!」
強い口調で叱られて、泣きそうになった。やはり、女性の自分から男性の部屋を訪ねるなど、はしたないことだ。呆れられたと、絶望しかけたその時。
「こんなに無防備なお前をほかの男に見られたらと思うと、はらわたが煮えくり返りそうだ…!」
何かを押し殺すような声でレイドにぶつけられたのは、非難ではなく苦しいほどの独占欲。エルサーナがそうと気づくのに少しの間があって、それから意味を悟って頬が熱くなる。
「誰にも、会わなかっただろうな?」
唇を押し付けられた耳元のささやきにびくつきながら、エルサーナは首を振る。
「み、見られていません。でも! ちゃんとショールも羽織ってきたし…」
「そんなもので足りるか!」
しかりつけるように言ったレイドの手がショールを奪ってその辺に放り、部屋着の上からウエストのラインに沿ってなでおろされて、恥ずかしさに真っ赤になった。
「こんな体の線が見えるような服でうろうろするな。見ていいのは俺だけだろう?」
もどかしそうに頬にかかった手に顔を上げさせられて、唇が重なる。すぐに深くなったそれは、馬車の中、頭が真っ白になりかけたあのキスよりも激しい。
離れて見下ろす顔は、欲望を隠さなくなっていた。わずかに険しさを増している目は、自分をとらえようとしている肉食獣のようだった。
「お前が、結婚や恋愛、男を恐れているのはよく知っている。だから、お前の気持ちが追いつくまで待つつもりだった。待てるつもりだった、さっきまではな。…俺が、どれだけお前に惚れているか、どれだけ我慢していたか、わかるか!」
苦しそうな顔で、また深く口づけられる。
体の震えが止まらない。腹の奥がじんじんしている。手にも足にも力が入らない。かくんとひざが抜けた体を、レイドの両腕は苦もなく抱き上げた。
エルサーナを見つめる瞳には、焦れたような火が踊っている。レイドは笑わない。そんな余裕もないのだとは、エルサーナには言えない。
「俺の理性は、さっきの馬車の中で品切れだ。ここから先は、止まってやれんぞ」
「…それでもいい。そばにいさせて…離れたくないの…!」
いつもより低い声は、淫靡な響きで耳朶を打ち、エルサーナの背を震わせる。
あふれそうな愛しさをもてあまして、エルサーナはレイドの首に両手を回し、強く抱きついた。
しがみつく細い体を抱えて、レイドは寝室に消えた。長い夜の始まりだった。
「俺の理性は、さっきの馬車の中で品切れだ」
このセリフを言わせたかったんですー!
次回よりムーンに移ります。
苦手な方は、3週間ほどお待ちくださいね。気がすんだら表に戻ってきますのでw