代役
舞踏会を当日に控えて、エルサーナは城から実家であるウォーロック家の屋敷に戻ってきていた。
夜会に行きたくない気持ちは日ごとに膨れ上がり、行くと決心したものの、不安で仕方がない。
レイドにも夜会があると話してはいるし、行きたくないと弱音も吐いた。でも別に、レイドにどうにかしてほしかったわけじゃない。それはきっとわかっていたのだろう、レイドはそうか、とただ話を聞いてくれた。できればもう一度一言相談したかったのに、ここのところ忙しいらしく、顔も合わせていない。
久々にあつらえたドレスも宝飾品にも、気持ちが晴れない。母と妹が、髪はどうするか、バッグはどうするか、扇子はどうするかとはしゃいだ様子でいるのにも、あいまいに笑うだけでまったく楽しめなかった。
母は単純に、久々に自分を同伴しての夜会を楽しみにしているようだったけれど、きっと行きたくないという自分の内心は知らないだろう。
それでも、母と共に行けるなら心強いと思っていたのだが、今回は大叔父の付き添い役があるとかで、すでに屋敷を出てしまっている。
兄のロベルクロードは、当然妻である義姉を伴っての参加になる。妹も同じ馬車に同乗してすでに屋敷を発った。
残ったエルサーナは、ライトリークと二人で行くことになっていたけれど、レイドが忙しいと言うことは、当然ライトも忙しいと言うこと。レイドと同じくライトも、夜通し屋敷には戻ってこなかった。
けれど、支度を整え、そろそろ出発の時間になると言うのに、それでもまだライトは戻ってこない。
「もう行かなくてはいけないのに、いったい何をしているのかしら…」
一人で参加するなんて、到底無理だ。だから、ライトには何度も念押しした。気まぐれなたちの弟は、こういった夜会でも、気に入らなければ平気ですっぽかす。けれど、エルサーナの事情にも理解を示してくれているから、今回一緒に行く約束を取り付けたことで安心していたのに。
いよいよ時間が迫ってきた頃、ようやくライトの帰宅を執事が知らせに来た。すぐにエルサーナは玄関へ向かう。ライトは仕事明けのはずで、まだ支度は整っていないだろう。その時間を含めても、本当にもうぎりぎりだった。
けれど、玄関のホールでその姿を見たエルサーナは、息を呑んだ。
ライトは、いつもどこか投げやりな態度が見られるけれど、今日はそれがいっそうひどい。
酒に酔ってでもいるのか、退廃的で淫靡な雰囲気が色濃く、とても舞踏会に行こうという様子ではなかった。
そして何より、制服には返り血だろうか、どす黒い色がべたりと付着したまま。エルサーナは驚いて駆け寄った。
「ライト、どうしたの!? 怪我をしたの!?」
「何だ、まだいたのか。別に怪我はしてない。今日は行かないから、俺は置いていけ」
「何を言っているの!」
薄く笑いながらの一言は、到底エルサーナが受け入れられるものではなかった。
「あんなに約束したじゃない、一緒に行くって! 私は、まだ、誰かがいてくれないと…一人では無理なのよ! 行きたくないの、行けないの!」
「そんなこといったって、俺も今日は無理。能天気に飲んで踊って笑える気分じゃない。正直、エルのエスコートなんかやってられない。フォローとか無理だよ。わずらわしくて、くだらない。付き合いたくない」
とげのある攻撃的な言葉に反し、態度は淡々としているのが違和感を覚えて、エルサーナは眉をひそめた。
「ライト、何かあった?」
「エルには関係ない。早く行けよ、代役が向こうで待ってるはずだ」
「え!? ちょっとライト、待って!」
エルサーナの問いかけにそっけなく言い返して、制止も聞かずにライトは2階に上がっていってしまう。
「代役って、どういうことなの?」
けれど、ライトに聞き返そうにも、すでに2階に上がった後だ。あの態度では聞いて答えてくれそうもないし、もう屋敷を出なければ本当に間に合わなくなってしまう。
不安を抱えたまま、仕方なくエルサーナは馬車に乗り込み、出発した。
公爵邸へ向かう道すがらも、代役のことが頭から離れない。父と兄はもちろん除外、親族の男子とはそれほど親しくしているわけではないし、ほかにこういう場でエスコートしてくれそうな知り合いは、エルサーナには一人もいない。
もちろんライトだってそれは承知のはずだ。そのライトが、自分と面識のない男性を代役に立てるとは到底考えられないし、自分と共通の顔見知りもほとんどいないはずだ。
(…帰りたい)
揺れる馬車の中で、エルサーナは膝の上に置いた手をきつく握り締めるしかない。
自分は、ライトと違って、「行きたくない」と言う勇気はない。逃げ出したい気持ちを、必死に抑えるしかなかった。
やがて、馬車が大きく揺れて、止まる。
(着いてしまったわ…)
足が震える。どうしよう、行きたくない。
体が動かない。かたりと音を立てて、ドアが開いた。反射的にエルサーナはぎゅっと目を閉じる。
ああ、こんなことをしても何にもならないのに。御者をいたずらに困らせるだけだ。わかっているけれど、でも。
「待ちくたびれたぞ、エル。せっかく来たのに、エスコートもさせないつもりか?」
響いた低く甘い声に、エルサーナは弾かれたように顔を上げた。
馬車のドアを開けて、礼装のレイドが覗き込んでいる。
黒を基調とした上衣の長い礼装は、背が高く肩幅もあるレイドの迫力を際立たせて、よく似合っていた。
「ど、どうして…」
やっとのことでそれしかいえなかったエルサーナに、レイドは小さく笑った。
「聞いているだろう、『代役』だ」
「だってまさか、上司に押し付けるなんてそんな非常識なこと、ありえませんわ!」
いくらライトリークが気まぐれでも、上司に押し付けて逃げ出すなんて事態は想像もしていなかった。そもそも、今回は内輪の祝いの席だから、親族ではないレイドがここにいる可能性は、まったく思い浮かばなかった。でも。
「お前は忘れたのか? 俺はライトの上司だが、それ以前にお前の恋人だろう。お前の窮地だと言われて、黙って見過ごすと思うのか?」
くしゃりと泣きそうにゆがんだエルサーナの頬に、レイドの手が2度、優しく触れる。
「ライトから大体の事情は聞いている。お前は黙って、俺の腕に収まっていればいい。わかったか?」
「はい…」
静かな自信を秘める表情、堂々と落ち着いた態度、そして垣間見えるやさしさ。
大丈夫。レイド様がいてくれるなら。
レイドが差し伸べた手に、そっと手を重ねる。やさしく馬車の外に引っ張り出されて、エルサーナは地に降り立った。
まるで、殻を破って生まれ出たひな鳥のような気分で、エルサーナは深呼吸をする。
「よく似合っている。柄にもなく緊張しそうだ」
笑みを含んだ声で告げられると、エルサーナは顔が熱くなるのを感じる。
今日はサファイアブルーのサテンのドレスだ。胸元と背中が大きく開いたデザインが、エルサーナの肌の白さを際立たせている。
「恥ずかしいから、あまり見ないで…」
その恥らう様も男心をそそるのだと、この物慣れない女性はわかっていない。
これを大勢の人…特に男性…の目にさらすのははなはだ不本意だ。どこかに閉じ込めてしまいたいと半ば本気でレイドが考えているなど思いもよらず、エルサーナはゆっくりと上を見上げた。
目の前にそびえる、白亜の建物。以前なら目を背け、背中を見せて逃げ出していただろう。でも、今日は逃げない。
きゅっ、とレイドの手を握ると、優しく握り返された。
「行くぞ」
小さくうなずいて、緊張で跳ねる鼓動を感じながら、エルサーナはゆっくりと歩き出した。