夜明け
過去へと思いをはせる耳元で風がふわりと舞い、髪の毛を揺らす。エルサーナは肌寒さにふるりと震えた。
季節は初夏。昼の日差しは強くなってきているが、夜はまだまだ涼しく、すごしやすい。バルコニーで風に吹かれていれば、体が冷えるのも当たり前だ。
エルサーナはそっと肩を抱いて、室内に戻った。ソファに腰を下ろし、そこに置き去りにしていた本を手にとった。
上等の布張りに、タイトルが金の箔押しで記されているその表紙を撫でながら、小さくため息をつく。あの時、見舞いにシェルミラからもらった本だった。
何度も読み返したそれは、布の表紙が手になじみ、端が擦り切れてきている。
こんなおとぎ話のような恋愛が自分に降りかかってくるなんて、考えたこともなかった。
思えば、ただただ想いに振り回されるばかりの恋だった。
日に日に大きくなるレイドへの感情と、周りの目と、自分の中の恐れとがぐちゃぐちゃに混ざり合って、コントロールできなかった。
レイドへ焦がれて行く気持ちを止められなかった。
華月宮へ送られた日から、二人で会うことが少しずつ増えていった。
最初は、騎士団への所用で訪れるエルサーナをレイドが送って行くだけだったのが、レイドも騎士団の所用で、たびたび華月宮を訪れるようになった。そして、応接室で二人、エルサーナの入れたお茶を飲みながら、短い時間だけれども静かに語りながら過ごす。
それから、仕事が終わった後にレイドからの誘いで、城内の庭園で会うことも多くなり、そのうち、レイドの呼び方が、『エル』に変わった。
初めはエスコートするために重ねられていただけの手が、ゆるく握りこまれるようになり、固い指先が頬や髪に触れるようになった。
レイドは、急がない。エルサーナの反応を見て、少しずつ、しかし確実に距離を縮めている。だから戸惑うことも恐れることもなかったし、うれしくて、恥ずかしかった。
お互いの気持ちは、お互いに向いている。
惹かれあっている。
近づいている。
それでも、まだ明確な言葉はないまま、3ヶ月が過ぎようとしていた。
華月宮の大扉からそっと顔をのぞかせて、人の気配をうかがう。夜明けが近い、それでもまだ暗い廊下は、見渡す限り動くものもなく、しんとしている。そろり、と抜け出した小柄な人影は、できるだけ音を立てないように早足で歩き出した。
それは、簡単に身支度を整えたエルサーナの姿だった。
一応侍女服をまとってはいるが、金茶色の髪はまとめずに後ろに流したままだ。やわらかそうなウェーブを描くそれが、一歩ごとにふわふわと揺れる。
階段を上がり、目指す場所にたどり着いたときには、目的の相手はすでに到着していた。
「ごめんなさい、遅くなりました」
中庭に面した2階回廊のテラス窓を開けて、少し息を乱しながらバルコニーに出れば、レイドがふっと目を細めてうなずいた。
「いや、気にするな。気が急いて待ちきれなかっただけだ」
さらりと言われて、エルサーナの心臓が高鳴った。
夜明けの中庭は、幻想的で美しい。そんな話をレイドから聞いたのは、いつだったろうか。
事件で夜通し走り回り、疲れ切って帰ってきた窓から見た中庭の風景。木も花も、吹き上がる噴水のしぶきも、すべてが朝日に染まって、しばらくそこに立ち尽くしてしまうほど、夢のような光景だった。
それを聞いたエルサーナが、自分も見たいと願った結果が、この早朝の逢瀬だった。
レイドは、いつもの制服姿とは違い、ズボンにシャツだけのラフな格好だった。はじめてみるそのくつろいだ姿にどきどきしながら目を奪われていると、わずかに目を細めたレイドが手を伸ばす。
そして、結わないままのエルサーナの髪をそっと掬い取った。
「髪を下ろしているのは、はじめて見たな」
「いつもはまとめてますものね。あの、似合いませんか…?」
恐る恐る伺えば、レイドは唇の端にわずかに笑みを浮かべた。
「よく似合っている。いつもと印象が違って、かわいいな。…誰にも見せたくないと思うのは、俺のわがままか」
不意打ちのように甘い言葉をささやかれ、エルサーナは零れ落ちそうなほど目を丸くした後、かぁっと真っ赤になった。
「し、知りません、そんなの…!」
そうやってうろたえる姿は、まるで子犬のようだ。そう思いながら、手に取った髪に口付けると、エルサーナはますます小さくなって恥ずかしそうにうつむいてしまう。
…このまま引き寄せて、腕の中に閉じ込めて、思うままにキスをしたい。
レイドはエルサーナを見下ろしながら、そんな本能と戦う。
弱そうに見えて、頑固で。
流されそうに見えるのに、信念があって。
大人びて見えるのに、幼いところもあって。
けれど、恋愛や結婚には、とたんに臆病になる。少し踏み込むと、すぐに怖がって逃げてしまう。
だから、エルサーナの反応を見ながら、少しずつ距離を縮めてきたのだ。そうしてまでも手に入れたい、高貴なひと。
ともすれば感情のままに動いてしまいそうな手を、理性でねじ伏せる。怖がらせるのは本意ではない。エルサーナが安心して自分に身を任せてくれるようになるまで、少しずつ慣らしていけばいい。
どれほど時間がかかってもかまわない。
欲だけに走らず、それほどの想いを抱いた相手は、レイドにとっても初めてだった。
けれど。
「レイド様、夜明けです」
明けの光に気づいたエルサーナが顔を上げた。
空が赤く染まって行く。深い赤からオレンジ、淡いばら色。
移ろう色彩にあわせて、中庭も、王城の白亜の建物も、噴水も、きらきらと日の光を反射する。
そして、まぶしさに目を細めるエルサーナの姿も、余すことなく彩って。
目を奪われる。今この一瞬だけでもいい、触れたい。
少しだけ、箍をはずした。
「…エル」
「はい」
静かに名を呼ぶ。振り向いた頬に、手のひらを滑らせた。
滑らかなカーブに沿わせて、吸い付くような質感に体がうずく。
エルサーナのほうも、息を呑んでレイドを見つめた。小さな震えが、手のひらに伝わる。
「怖いのか」
「わ、わかりません…」
「そうか」
途方にくれたような答えでも、逃げ出す様子がないことに気をよくする。もう片方の手で、エルサーナの手を取った。すっと顔を近づけると、びくりと肩が上がる。こぼれおちそうな濃い茶色の瞳が、戸惑うように揺れていた。包み込んだ手は、まるですがるように力がこもっている。
「嫌なら、突き飛ばしていい。できなければ、顔を背ければいい。そうでなければ、…ただ、目を閉じていろ」
ささやくと、エルサーナの瞳が潤む。一瞬泣き出すのではないかと思うほど、きゅうっと眉を寄せて、そして。
震えるまつげが、そっと下りた。
頬を包んでいたレイドの手がやさしく上を向かせて、唇に吐息が触れる。そして、少し乾いた唇が重なった。
触れていた時間は、長くない。離れて、物足りないと思う自分は、どこかおかしいのではないかと、エルサーナは思う。
握られていた手を引き寄せられて、レイドにきつく抱きしめられた。幸せで、涙が出そうだ。さっきから、心臓の音がうるさい。逃げるように、エルサーナはレイドの胸に顔を埋める。
「…どうしたらいいの、心臓が壊れそう…」
どこまでもやさしく、穏やかで、こんな自分に気を使って、ゆっくりと進んでくれる人。こんな人、どこを探してもいない。
「エル…エル」
いつも落ち着いている声が、かすれている。どうしてか、腰の辺りがじんとしびれた。
「愛している、エル…」
「私も、好きです、レイド様…!」
こらえきれずにレイドが告げた言葉で、均衡は破れた。
あいまいにごまかしてきた二人の関係に、名前がついた瞬間だった。
そっと体を離されて、鋭く、熱を帯びたまなざしに見下ろされ、また、震えながら目を閉じる。
重なる唇の熱に、思考回路が焼き切れた。
レイドで体中がいっぱいになって、ほかには何も考えられなかった。