途切れた糸 その後・前
さて、エル×レイド編開始です。
まずはアーシェが人間に戻り、孤児院に帰ってライトが謹慎になってからのお話です。
「エル、ちょっといいかしら」
夜、私室に戻ろうとしたシェルミラが足を止めて振り向いた。
いつもどおり、他の侍女達と一緒に礼をとって、ドアが閉まるまでを見送るはずのエルサーナは、怪訝な顔で姿勢を正す。
「はい、なんでしょうか」
「お話があるの。こちらへ来て頂戴。みんなは下がっていいわ」
いつになく曇った表情に、何か不備があっただろうかとわずかに眉根を寄せて、エルサーナはシェルミラに続いて私室に入った。
調度品が高級品なのは当然だが、ごてごてと豪奢にせずに、すべて落ち着いた色合いでまとめられている。
壁紙は、生成りの白一色。一見味気なく見えるが、同色の糸で絡まる蔦模様が織り込まれていて、光の角度によって柄が浮き上がって見える。シェルミラの遊び心が垣間見えるようなチョイス。
全体にシンプルにまとめられたインテリアだが、光沢のある飴色のチェストの上に飾られているプレートや、薔薇が生けられた1輪差し、ソファセットに用意されている茶器、深いモスグリーンのソファの上に置かれているクッション、天井の魔法光のランプのランプシェードなど、アクセントとして薔薇の模様の品物が置かれているあたりが、薔薇が好きなシェルミラらしかった。
それらが部屋に程よい華やかさを加えていて、上品ながらも居心地の良い空間になっている。
ドアを閉めてシェルミラに向き直ったとたん、深いため息をつかれて、これはいよいよもって、自分が何かやらかしたのだと思ったエルサーナは、深く頭を下げる。
「申し訳ございません、シェルミラ様。何か間違いがあったのでしたら、深くお詫び致します。恥ずかしながら、私には思い当たることがございませんが、おっしゃっていただければすぐに手配をして…」
「ああ、違うのよ、エル。ここは私の私室で、今はあなたと私だけ。何より、今は侍女のエルではなく、私の姪のエルを呼んだのよ。堅苦しいのはなしにして頂戴」
砕けた口調でそう言って、シェルミラはまたため息をついてソファにどさりと体を投げた。
そのいつにない乱暴な仕草に驚いていると、
「あなたもおかけなさい」
と促されて、エルサーナが遠慮がちに王妃の隣に腰を下ろすと、シェルミラは疲れたように眉間を揉み解した。
「まったく、ライトは何を考えてるのかしらねぇ」
なるほど、身内の話なら、姪としてのエルサーナを呼んだという言葉も納得できる。
華月宮に閉じこもっていると、ほかの棟の動向はあまり入ってこない。ライトリークは先日まで、ずいぶんと落ち着いた様子だったはずだが、何かあったのだろうか。
「ライトが…どうかしましたか?」
「前に花園に連れてきた猫が居るでしょう? あの子、本当はライトが変化させていた人間だったらしいわ」
「変化…って」
ざっと血の気が引く。
人に勝手に術をかけ、姿を変えるのは犯罪だ。変化させられた人は『とらわれびと』と呼ばれ、魔術師の間では禁忌として、固く禁じられているはず。
「それは…ライトが、誰かをとらわれびとにしていたということですか?」
知らず、声が震える。シェルミラも、眉間に深くしわを刻み、こめかみを押さえた。
「アークの話だと、そうらしいわね。初めは、魔女に変化させられていた猫を保護したらしいのだけど、魔女の呪いはとっくに解けていて、代わりにライトがその子に黙ってそのまま変化させていたって言う話よ。今朝、その子らしい少女を送らせた後、アークのところに行って、一緒に陛下にお話されたそうよ。潔く罰を受けるとそれだけ言って、後は一切だんまりだったようだし、自宅謹慎を命じられたら、さっさと城下に下がってしまったの。本当にもう、何を考えてるのか…」
ライトリークは過去のことで、その胸の内には暗いものを抱えている。
身内はそれをよく知っていて、どこか危うい彼をいつでも心配しているけれど、当のライトは心配することすら頑なに拒んでいて、遠巻きに見ていることしか出来なかった。
エルサーナは、誰よりも近くでそのライトリークを見ていたからこそ、いろいろと口に出来ない思いもあったし、自分の中で抱えているものもあった。
けれど最近、猫を飼い始めたあたりから、そういう暗い所が薄らいで、いい方向に変わってきてくれていると、安心していたのに。
「まったく、元からひねくれたところのある子だけれど、どこまで心配させれば気が済むのかしら」
困ったようにため息をつくシェルミラの姿に、エルサーナは居てもたっても居られなくなった。
「わかりました。私、明日ライトのところに行って、話をしてみます」
「大丈夫なの? あの子が一筋縄で行くとは思えないわ」
「ええ、でも…私なら、少しはあの子の気持ちがわかると思うので」
エルサーナは、心配そうな王妃にうなずいてみせる。
自分達は姉弟だ。それに、エルサーナには、ライトリークの気持ちが他の兄弟よりも理解できると思える理由もある。自分が行けば、少しは耳を傾けてくれるかもしれないという期待もあった。
「そう。なら、戻ったらライトの様子を聞かせて頂戴ね。私もできるだけのことはするわ」
「はい。ご心配をおかけしてすみません」
「いいのよ。かわいい甥を心配するのは当然のことでしょう?」
「ありがとうございます、おば様」
温かい言葉に、思わず昔のように呼びかければ、ぱっとシェルミラの顔が明るくなった。
「まぁぁ、そんな風に呼ばれるのは何年ぶりかしら!? んもう、みんな大人になったら他人行儀になってしまって、本当にさびしく思っていたのよ? 時々は、そうやって昔に戻ってね、エル?」
珍しくはしゃいだ様子のシェルミラに苦笑しながら、エルサーナはうなずいた。
「ええ、はい、おば様がそうおっしゃるなら。でも、本当に誰も居ない時、時々、ですよ?」
「わかっているわよ! じゃあ、明日、ライトによろしくね? 私も心配していたって、必ず伝えて頂戴ね?」
「はい、必ず」
そうして王妃の部屋を辞し、エルサーナは軽くため息をつく。
甘い瞳で、愛しくて仕方がないというように黒猫を見つめる弟の姿。
それに、無防備に甘える黒猫の姿。
彼らは、とても合っているように見えたのに。
お互いがお互いを支えにしているように見えたのに。
彼らが離れてしまったら、きっとライトリークは元に戻ってしまう。
だけど、黒猫にされていたという女の子の方は…どうなんだろう?
猫の時にはとてもライトに懐いているように見えたけれど、もしかして、本当のことを知ってライトを恨んでいるかもしれない。
ライトを助ける為には、その子にライトを説得してもらわなくてはいけなくなるかもしれない。それを拒否されるのは困る。
まずは明日、弟に会ってから。そう決めて、エルサーナは自室に戻って行った。
次の日、エルサーナは落ち着いた若草色の外出着を身にまとい、馬車でライトの自宅に向かった。
高級住宅地の一角、それほど大きくはないが、古びた重厚な屋敷が、ライトの持ち家になる。ウォーロック家が所有する物件の一つで、ライトリークは広い庭と落ち着いたたたずまいが気に入っているのだそうだ。
開け放してある真鍮の門をくぐり、エルサーナは馬車を降りる。
入口で呼び鈴を鳴らすと、初老の執事がドアを開け、慇懃に礼をした。
「お待ちいたしておりました、お嬢様。どうぞ、お入りください」
「ありがとう。失礼するわね」
広い玄関ホールから、応接室に通される。執事が開けたドアの向こうには、もうライトが待っていた。
白いシャツに、ベージュのズボン。くつろいだ姿でゆったりとソファに座る姿は、落ち着いているというよりも、開き直っているように見えて仕方がない。
「やぁ、姉さん。来ると思ってたよ」
「ライト! あなた、どういうつもりなの!?」
いつもどおりの食えない笑顔に押さえきれず、大きな声を上げながら、ライトリークの向かいに腰を下ろした。
ライトがこだわり、自分で買い求めた自慢のソファの柔らかな座面が、ふわりと体を受け止める。いつもならばその座り心地に感嘆のため息を漏らす所だが、今はそんなものどうでも良かった。
「どういうつもりも何も、俺はただ決められているとおりの罰を受けるだけだ。それが悪いのか?」
薄い笑みを浮かべながら、悪びれる様子のないライトに、エルサーナが言い募る。
「悪いも何も、なぜ一言も相談してくれないの!? みんな心配してるのよ! おば様も、何かあれば力になるっておっしゃってくれてるわ。何か方法を考えましょう?」
「それがダメだって言ってんのに…」
ため息をつき、ライトは不機嫌に顔をそむけて腕を組んだ。
「誰の力も要らない。誰にも関係ない。俺は女の子をずっと猫にして手元に置いておいた。それは俺の罪であって、俺が背負うべきものだろう? どうにかして欲しいなんて、誰にも頼んでいない」
突き放したその言い方に、エルサーナはぐっと拳を握り締める。
「だけど、あなたたちは、すごく分かり合っているように見えたわ。お互い信頼しあっているように見えた。あの子を手放してはダメよ! また元に戻ってしまうわ!」
「今までが夢みたいなものだったんだよ。分かり合っていたんじゃない。俺とアーシェは、お互いに依存しあってただけなんだ。そんなの不自然だろう? 元が現実なんだよ」
「その子は、それでいいって言ってるの? あなたが罰を受けるつもりだって知っているの!? ちゃんと確かめなくちゃ…!」
暗く光る瞳に見据えられ、エルサーナは続く言葉を口に出来なかった。
「それこそ、彼女には関係ないことだ。彼女に無断で、俺は彼女を変化させた。それが、唯一絶対の事実であり、罪だ。彼女がどう思うかなんて、その罪の前には関係がないことだろう?」
どうしてライトはこんな風に心を閉ざしてしまっているのか。
家族である自分達の手まで、拒むのだろうか。
私なら、わかってあげられるのに。同じ気持ちを、持っているのに。
やはりその少女でなければ無理なのか。居場所と素性なら、調べればすぐにわかるだろう。事情を話して、どうにかしてライトを思いとどまらせてもらうしかない。
「俺を何とかする為にアーシェに説得を頼むのは筋違いだよ、姉さん」
エルサーナの胸の内を読んだように、不意に鋭くなった眼光に射抜かれて、息を呑む。
「そもそも、嫌な思いをしていたのも、苦しんでいたのも、我慢していたのもアーシェだ。俺がいなくなって、清々するかもしれない。猫になっていた時のことは、忘れたいと思っているかもしれない。それを、俺以外の奴らが俺のために担ぎ出そうとしたら、それでまた傷つくのは誰なんだ?」
「それは…」
はっと胸を突かれたような表情で、エルサーナが黙り込む。
「それじゃ、今までと何も変わらない。俺はただでさえアーシェを傷つけた。これ以上俺にかかわらせたくないんだ」
ライトが何もかもを捨てる決心をした、根本的な問題。
自分は、いるだけで誰かを傷つける。
抑えきれない暗い執着は、すでにいいようにアーシェを翻弄し、消えない傷を残している。
そして、その執着はすでに、自分では制御不能なところまで来てしまっている。
自分という存在を、アーシェから引き離さなければ。
ライトはすでに、そこまで思い詰めている。
「あの子には自由で居て欲しい。俺みたいなのに縛られていたら、だめになるかもしれない。俺や、あの子の意思にかかわらず。そんなの、エルが一番よく知ってるだろう?」
今、ここでそれを武器に使うのか。
他人には見せない暗い笑みを浮かべるライトに何も言えず、エルサーナは唇をかみ締めるしかない。
「だから、手放さなきゃいけないんだ。アーシェは、絶対かかわらせるな」
表情を消して、淡々と続けるライトには、あきらめのような、達観のような…。なんとも言えない、怖いほどに凪いだ空気しかなくて、エルサーナは絶望に飲み込まれていく気がする。
「俺が謝らなければいけない立場であって、アーシェにはなんの罪もない。俺はもう誰も傷つけたくない。責任を取って姿を消すことしか出来ない。俺は罰を受けたいんだ。ここから消えてしまいたい。だから、俺を説得させようなんて絶対するな」
だけれど、あまりに身勝手な言葉に、エルサーナは怒りを抑えきれなくなった。拳を握り、立ち上がる。
「そんなのあなたの思い込みよ! 男ってどうしてそう自分勝手なの!? それで女が本当に喜ぶとでも思ってるの!? きちんと謝りもしないで、罰だけ受けて勝手に姿を消すなんて、ただ逃げているだけじゃないの! ふざけないで!」
いつも物腰柔らかで、声を荒げるところなどほとんど見たことがない姉の突然の激怒に、ライトリークは目を丸くして見つめるしかない。
「私だって、エルサーナ・ウォーロックでさえなければって思ったことなんか何回もあるわ。あなただって知ってるでしょう!? 私も、逃げてることはわかってる。自分だけだと思わないで! 周りの心配や善意まで否定するのは最低よ!」
そう言い捨てて、エルサーナは応接室を飛び出した。
残されたライトリークは、深いため息をついた。その顔に笑顔はない。
「その通りだ。俺は逃げてる。わかってる…」
だけれど、こうする以外に方法がわからない。
ソファに力なくもたれて、天井をあおぐ。その顔に、迷いと苦悩を浮かべて。
「いいんだ、みんな俺になんかかまうな。俺はひとりになったほうがいいんだから…」
呟きは、誰に聞こえることもなく、宙に霧散した。
表情を変えることなく見送る執事の目から、逃げるように馬車に乗り込んだ。
屋敷を離れる馬車の中、エルサーナは苦しさと悔しさに拳を握る。
あれじゃあただの八つ当たりだ。子供のように、思い通りにならない感情を持て余して大騒ぎしただけで、何の解決にもならない。一体何をしにここにきたのだろう。
ライトリークの気持ちがわかるだなんて思い上がって、上から説教をする気ででもいたのだろうか?
そのうえ、少女が負った心の傷を、考慮する意識すらなかった自分の傲慢さが情けなかった。
自分の問題すら、けりをつけてもいないのに。説得なんてそんな資格、端から自分にはなかったのだ。
だけれど、ライトリークは大事な弟だ。アーシェと一緒に居た時の姿が、本当の彼の姿なのだと、エルサーナは確信している。
ならば、やはり何とかしてライトリークを繋ぎ止めたい。
ライトとその子が一緒にいることが、やはりエルサーナには正しいことと思えてならないのだ。
じゃあ、どうすればいい?
父も兄も、厳しい人だ。罪を犯したライトリークを、きっと許さないだろう。逆にエルサーナのほうが、余計な口出しをするなと釘を刺されることになりかねない。
そうなると、頼れるのはエルサーナにはもう一人しか残っていなかった。
その人を思い浮かべて、胸をさす甘い痛みに耐えるように、エルサーナは憂いに沈む茶色の瞳をそっと伏せた。
あ…レイド出てこなかったorz