表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

恋愛系

子どものころから嫌いだった幼馴染は、私と結婚するつもりだったらしい

掲載日:2026/08/14

「リディア。高等部から外国へ行くって本当?」


廊下の向こうから声をかけられた瞬間、リディアは足を速めた。振り返らなくても、誰なのかは分かっている。十五年間も聞かされ続けてきた声を、今さら聞き間違えるはずがなかった。


あと三か月。


中等部を修了するまで、それだけ耐えればいいのだから、余計な揉め事は起こしたくなかった。


「リディアってば」


早足になったところで、相手も歩調を速めれば意味はない。やがて追いついたアレクシス・ヴァルナーが、当然のようにリディアの隣へ並んだ。


艶のある黒髪に青い瞳。十五歳にしては背が高く、剣術でも学問でも優秀な侯爵家の嫡男である。教師からの評判もよく、女子生徒からは下級生にまで名前を知られていた。


何より、顔がいい。


それだけならリディアにとって何の問題もなかった。問題なのは、その整った顔に見惚れる女子生徒が大勢いて、本人がそれをまるで理解していないことだった。


「聞いてる?」


「聞いているわ」


「エルグランド王国だろ?」


「ええ」


「なんで急に?」


リディアは歩きながらアレクシスを見た。


「急ではないわ。前から希望していたもの」


「そうだっけ?」


やはり覚えていなかった。


魔道具についてもっと学びたいことも、エルグランド王国の高等学院には大陸でも有数の魔道具研究科があることも、リディアは以前から話していた。もっとも、アレクシスに理解してほしくて話したわけではない。家族ぐるみの食事の席で進路について聞かれたから答えただけだった。


「二年間なんだよな?」


「ええ」


「じゃあ十七歳で帰ってくるのか」


リディアは答えなかった。


帰ってくるつもりなどない。


十五歳で中等部を修了したあと、エルグランド王国の高等学院へ留学する。そこで二年間学びながら生活基盤を作り、十七歳で成人したらベルナー伯爵家から離籍する。


成人した貴族は、本人の意思だけで生家から離籍することができる。その代わり、家名も相続権も、生家から庇護を受ける権利も失う。


リディアには、どれも必要なかった。


欲しいのは、自分で働いて暮らせるだけの技術とお金、それから誰にも邪魔されない生活だった。


「まあ、二年ならいいか」


アレクシスが納得したように頷いた。


「何が?」


「高等部を一緒に過ごせないのは残念だけど、そのあとはずっと一緒なんだし」


リディアは足を止めた。


アレクシスも数歩進んでから振り返る。


「どうした?」


「……そのあとはずっと一緒って、どういう意味?」


「どういう意味って?」


本当に分かっていないらしい。


リディアが問い返そうとしたところで、授業開始を知らせる鐘が鳴った。


「あ、まずい」


アレクシスは廊下の時計を確認すると、急いで自分の教室へ向かおうとした。


「じゃあ、放課後に一緒に帰ろう」


「帰らないわ」


「用事?」


「ええ」


「じゃあ終わるまで図書室で待ってる」


「待たないで」


「大丈夫。今日は本でも読んでるから」


「そういう意味じゃ――」


「またあとで」


リディアが言い終える前に、アレクシスは走っていった。


その後ろ姿を見ながら、リディアは奥歯を噛んだ。


いつもそうだった。


嫌だと言えば、遠慮していると思われる。やめてと言えば、機嫌が悪いだけだと思われる。待たないでと言えば、待っている場所を変える。


自分の言葉が、アレクシスには届かない。


リディアは息を吐いて教室へ入った。


窓際にある自分の席へ向かい、机の上を見たところで足を止める。そこには白い花が三輪置かれていた。


可愛らしい見た目とは違い、その花の汁は布につくと茶色い染みになる。知らずに触れば、制服を駄目にしていただろう。


花の下には、小さく折られた紙があった。


『国外まで逃げるなんて、惨めね』


リディアは紙を広げ、書かれている文字を一度だけ確認した。花をその紙で包み、教室の隅にある屑籠へ捨てる。


誰が置いたのか探す気にはならなかった。


以前なら怖かった。次は何をされるのかと考え、授業中も周囲の視線が気になった。


今は違う。


あと三か月で、ここからいなくなる。


それだけを考えれば耐えられた。



最初に嫌がらせを受けたのは、八歳の春だった。


ヴァルナー侯爵家とベルナー伯爵家は領地が隣接しており、祖父同士が親友だった。その縁は父親の代にも続き、同じ年に生まれたリディアとアレクシスは、物心がつく前から一緒に遊ばされていた。


幼いころのリディアは、アレクシスを嫌っていなかった。


庭を走り回り、一緒に木へ登って怒られたこともある。菓子を取り合って喧嘩したこともあれば、雨の日に二人で本を読んだこともあった。


ただの幼馴染だった。


それが変わったのは、八歳になって貴族の子ども同士の付き合いが増えてからだ。


ある日の午後、リディアは同年代の令嬢が集まるお茶会へ招かれた。


庭に並べられた白い椅子へ座った瞬間、周囲から笑い声が上がった。


何が起きたのか分からず立ち上がると、淡い黄色のドレスの背中に蜂蜜がべったりとついていた。椅子に塗られていたらしい。


侍女を呼ぼうとしたが、恥ずかしさの方が先に立った。リディアは笑い声から逃げるように庭の奥へ向かった。


植え込みの陰まで来たところで、三人の令嬢に囲まれた。


「アレクシス様からお花をもらったからって、いい気にならないで」


何を言われているのか、すぐには分からなかった。


前の日、アレクシスがリディアへ花を渡したのは事実だった。


侯爵家の庭に咲いていた小さな花を一本折って、


「これ、お前が好きそうだから」


と渡してきた。


リディアは礼を言って受け取った。それだけだった。


「私、頼んでないわ」


「嘘」


「本当よ」


「じゃあ、どうしてアレクシス様があなたに花をあげるの?」


そんなことをリディアに聞かれても困る。


理由を知りたいなら本人に聞けばいいと思ったが、口には出さなかった。三人の顔を見れば、それを言ったところで話が通じるとは思えなかったからだ。


十歳になるころには、私物を隠されるようになった。


十二歳では、招待状を受け取って出席したお茶会で、リディアの席だけ用意されていなかった。


十三歳で学院へ入ると、嫌がらせはさらに酷くなった。


教本を捨てられ、制服にインクをかけられ、靴の中へ泥を入れられた。階段ですれ違った女子生徒に肩をぶつけられ、数段落ちたこともある。


そのたびに聞こえてくる言葉は、似たようなものだった。


アレクシス様の幼馴染だからと調子に乗っている。


侯爵夫人になるつもりらしい。


アレクシス様を独占している。


冗談ではなかった。


リディアは侯爵夫人になりたいと思ったことなど、一度もない。


アレクシスと結婚したいと思ったこともなかった。


むしろ嫌がらせが続くにつれ、アレクシスが近づいてくるだけで胃が重くなるようになった。


だから十三歳の秋、リディアは本人に頼んだ。


昼休み、人の少ない中庭へアレクシスを呼び出した。


「学院では、私に話しかけないで」


ベンチに座って菓子を食べていたアレクシスは、手を止めてリディアを見た。


「なんで?」


「あなたと親しいと思われたくないの」


「幼馴染なのに?」


「幼馴染だからって、学院でも一緒にいる必要はないでしょう」


「喧嘩した?」


「してないわ」


「じゃあいいじゃん」


「よくないの」


リディアは何度か言葉を選び、それでも分からないならはっきり言うしかないと思った。


「あなたが私に話しかけると、嫌なことをされるの」


「誰に?」


「いろいろな人に」


「なんで?」


「あなたと仲がいいと思われているからよ」


アレクシスは菓子を持ったまま黙った。


ようやく分かってくれたのかもしれない。


そう期待した。


「それだけで嫌がらせするの?」


「そうよ」


「変な奴らだな」


リディアは返事をしなかった。


「分かった。俺から言っとく」


「やめて!」


大きな声が出た。


庭にいた鳥が飛び立ち、アレクシスが驚いたように瞬きをする。


「何を?」


「誰かを問い詰めたりしないで。余計に酷くなるから」


「でも、嫌がらせされてるんだろ?」


「だから、あなたが私から離れてくれればいいの」


「それはおかしいだろ」


「何がおかしいの?」


「悪いのは嫌がらせしてる奴らだろ。なんで俺たちが話せなくなるんだよ」


言っていることだけを聞けば、正しいのかもしれない。


けれどリディアは、誰が正しいのかを決めてほしいわけではなかった。


明日も安心して学院へ行きたかった。


教本が机の中に残っていてほしかった。


昼食を食べるとき、飲み物から目を離しても平気でいたかった。


ただ、それだけだった。


「お願い。学院では話しかけないで」


「嫌だよ」


あまりにも簡単に拒否されたので、リディアは言葉を失った。


「……どうして?」


「俺は何も悪いことしてないから」


翌日、アレクシスは大勢の生徒がいる食堂で、わざわざリディアの隣へ座った。


「昨日、なんであんなに怒ってたんだ?」


周囲から視線が集まった。


リディアは何も答えなかった。


その日の放課後、鞄は中庭の噴水に沈んでいた。


水を吸った教本は全部駄目になった。



両親にも相談した。


十二歳のころ、最初に母へ話した。


午後のお茶を終えた母が居間で刺繍をしているときだった。


「お母様。私、アレクシスと一緒にいたくありません」


母は刺繍枠から顔を上げた。


「どうしたの、急に」


「急じゃないわ。前から嫌だったの」


リディアは椅子に座り、お茶会で蜂蜜を塗られたこと、持ち物を隠されたこと、陰でいろいろ言われていることを説明した。


母は途中で遮らず、最後まで聞いてくれた。


だから分かってもらえると思った。


「でも、それはアレクシス様がしたことではないのでしょう?」


期待した分、その言葉を聞いたときの落胆は大きかった。


「……そうだけど」


「なら、アレクシス様を嫌うのは違うんじゃないかしら」


「でも、アレクシスが私に近づくと嫌なことをされるの」


「リディア」


母は刺繍枠を膝の上へ置いた。


「人の好意をそんなふうに言ってはいけません」


好意。


その言葉が嫌いになったのは、このときからだった。


「でも、私は嫌なの」


「今はそう思っているだけよ。もう少し大人になれば分かるわ」


母との話はそこで終わった。


父にも相談した。


「アレクシスと距離を置きたいのです」


執務室で書類を読んでいた父は、ペンを置いた。


「喧嘩でもしたのか?」


「違います」


今度こそ理解してもらえるよう、リディアはできるだけ詳しく話した。


父は黙って聞いていた。


「嫌がらせについては学院へ相談しよう」


その言葉を聞いたとき、少しだけ安心した。


「ありがとうございます」


「だが、アレクシス君を責めるのは違うぞ」


リディアは顔を上げた。


「お父様」


「彼はお前を大切にしてくれているじゃないか」


「大切にされていません」


「照れなくていい」


「照れてなんていません!」


思わず声を荒らげると、父は眉を上げた。


リディアは膝の上で手を握った。


「私はアレクシスが嫌いです」


「リディア」


「大嫌いです。学院でも話しかけてほしくないし、家にも来てほしくありません」


「そんなことを言うものじゃない」


「どうして?」


「ヴァルナー侯爵家とは長い付き合いだ。それに、アレクシス君は立派な青年になる。あれほどの相手に好意を持たれて、何が不満なんだ」


リディアは父の顔を見つめた。


何が不満なのか。


何度も説明した。


それでも分からないのなら、もう何を言っても同じなのだろう。


「……分かりました」


「分かってくれたか」


「はい」


リディアは立ち上がった。


それ以降、両親には相談しなくなった。


理解してもらおうとすることを諦めた代わりに、自分で逃げる方法を探し始めた。



リディアには、魔道具作りという特技があった。


きっかけは十歳の誕生日に祖母から贈られた、小さな魔力灯だった。


半年ほど使ったころ、突然明かりがつかなくなった。


修理に出すから触らないよう母に言われたものの、リディアはどうして壊れたのか気になった。工具を借りて裏蓋を外し、中を覗いた。


細い銀線と小さな魔石。


刻まれた術式。


魔力を流してみると、一部分だけ反応がない。


切れていた銀線をつなぎ直すと、魔力灯は再び点灯した。


それから、壊れた魔道具を見つけるたびに修理するようになった。最初は分解して元へ戻すだけだったが、次第に仕組みが分かり、自分で簡単な魔道具も作れるようになった。


十三歳になるころには、魔力灯や保温具、小さな送風器程度なら一人で作れた。


父は完成した送風器を見て笑った。


「令嬢にしては変わった趣味だな」


母も悪くは言わなかった。


「結婚するまでなら、好きにしていいわよ」


リディアはその言葉を聞きながら、送風器の回路を調整していた。


結婚したら、どうしてやめなければならないのだろう。


聞いても意味がないと思い、黙って作業を続けた。


そのころには、別のことも調べ始めていた。


魔道具を本格的に学べる学院。


留学生を受け入れている国。


外国人が働くために必要な資格。


そして、成人後に親の許可なく生家から離れる方法。


学院の図書室で何冊もの資料を調べ、見つけたのがエルグランド王国だった。


魔道具産業が盛んな国で、王立高等学院には魔道具研究科がある。外国人留学生も受け入れており、認定資格を取得した魔道具職人には長期滞在許可も与えられる。


ここなら逃げられる。


ただ逃げるだけではない。


働いて、自分で生活できる。


リディアはそれから成績を上げた。


魔道具研究科の入学試験に向けて勉強し、教師から推薦状をもらった。奨学生選考にも応募し、候補者として認められた。


準備を全部終えてから、両親に話した。


「高等部では、エルグランド王国で魔道具について学びたいのです」


母は当然のように反対した。


「十五歳の女の子を一人で外国へ行かせるなんて」


「学院の寮に入ります。留学生のための生活支援もあります」


「でも、わざわざ外国へ行かなくても」


「この国には同じ設備がありません」


父も最初は渋ったが、合格通知と奨学生候補の書類まで揃っているのを見て、最後には許可した。


「二年間だけだぞ」


「はい」


「十七歳で成人したら帰ってきなさい。お前の将来についても、そのころにはきちんと考えないとな」


「分かりました」


リディアは頷いた。


二年間あれば十分だった。


十七歳になったら離籍する。


それまでに、自分で生きていけるだけのお金を貯める。


家名も相続権もいらない。


誰にも人生を決められない場所へ行く。


それがリディアの計画だった。



出発の日、港まで両親が見送りに来た。


海から吹く風には潮の匂いが混じり、停泊している船の帆が大きく揺れている。荷物を運ぶ人夫たちの声と、出港を待つ乗客の話し声で桟橋は騒がしかった。


「手紙を書くのよ」


母はリディアの外套の襟を整えながら、何度目か分からない注意を繰り返した。


「はい」


「食事にも気をつけて。外国の料理が合わなかったら、無理して食べなくていいのよ」


「分かっています」


「寂しくなったら、途中で帰ってきてもいいんだからね」


リディアは母の顔を見た。


母は、本当に二年後には娘が戻ってくると思っている。


「はい、お母様」


父は大きな旅行鞄を船員へ預けると、リディアの肩を軽く叩いた。


「二年なんてすぐだ。成人祝いは帰国してから盛大にやろう」


「はい」


「それから、アレクシス君のこともある」


リディアは父を見た。


「アレクシス?」


「いや、それは帰ってきてからでいい」


父は笑った。


胸の奥に嫌なものが残ったが、問いたださなかった。


もう関係ない。


出港を知らせる鐘が鳴った。


リディアは両親に別れを告げ、船へ乗った。


甲板から桟橋を見る。


父と母が手を振っている。


アレクシスはいなかった。


それだけで少し安心した。


船が動き始めると、桟橋がゆっくり遠ざかっていった。見慣れた港の建物が小さくなり、その向こうにある街並みも見えなくなっていく。


生まれ育った国を離れるのだから、寂しくなると思っていた。


涙が出るかもしれないとも思った。


けれど、リディアが感じたのは悲しさではなかった。


肩から力が抜けていく。


もう明日の教室を心配しなくていい。廊下でアレクシスに会うこともなければ、誰かに鞄を隠されることもない。


リディアは手すりにつかまり、海の向こうを見た。


やっと離れられた。


その実感が、何よりも大きかった。



エルグランド王国へ着いて最初の一か月、リディアは妙な緊張が抜けなかった。


学院では、席を立つたびに教本を鞄へしまった。食堂では飲み物から目を離さず、廊下で後ろから足音が聞こえると端へ寄った。


何も起こらなかった。


教本は机に置いたままでもなくならない。飲み物へ何かを入れられることもなければ、靴に泥を詰められることもない。


女子学生が廊下で笑っていても、リディアを見ているわけではなかった。


二か月目のある日、食堂で一人で昼食を取っていると、同じ魔道具研究科のマリアが料理の載った盆を持ってやってきた。


「リディア、ここいい?」


リディアは隣の空席を見た。


「……私の隣?」


「うん。駄目?」


「駄目じゃないけど」


マリアは椅子を引いて座った。


「今日の回路設計、難しくなかった?」


「最後の接続部分?」


「そう。私、三回書き直した」


それから授業の話をした。


昼食を食べ終わるまで、何も起こらなかった。


三日後、またマリアが来た。


翌週には、リディアの方から彼女の隣へ座ってもいいかと聞いた。


「もちろん」


あまりにも普通に返事をされて、リディアは椅子を引きながら少し戸惑った。


留学して三か月ほど経ったころ、マリアがスープを飲みながら笑った。


「リディア、最初のころと全然違うね」


「そう?」


「最初はずっと周りを気にしてたでしょう。話しかけたら逃げるんじゃないかと思ってた」


リディアはスプーンを止めた。


「そんなに?」


「うん。でも最近は普通になった」


普通になった。


その言葉を聞いて、リディアは自分が今までどれほど周囲を警戒して暮らしていたのか、初めて気づいた。


「……そう」


「どうしたの?」


「なんでもないわ」


スープを一口飲む。


少し冷めていたけれど、それでも温かかった。



魔道具研究科の授業は、リディアにとって期待していた以上に面白かった。


母国では本でしか見たことがなかった術式を実際に組み、新しい魔石の加工方法を試す。複数の術式を一つの回路へ収める技術を習った日は、寮へ帰ってからも夜遅くまで図面を描いた。


ある日の実習で、携帯用魔力灯を作る課題が出た。


完成した作品を担当教授へ提出すると、教授は裏蓋を外して回路を確認した。


「リディア、この回路は誰に教わった?」


「自分で考えました」


教授は顔を上げた。


「この二重になっている部分も?」


「はい。外側の回路が切れても、内側だけで最低限の光量を維持できるようにしました」


「故障することを前提に作ったのか?」


「携帯用なら外で使うでしょう? 落としたり、雨に濡れたりするかもしれないので、完全に消えてしまうよりはいいと思って」


教授はもう一度魔力灯を確認し、机の上へ置いた。


「これ、売れるぞ」


「え?」


「魔道具ギルドへ持っていってみろ」


リディアは教授の顔を見た。


「課題で作ったものですよ?」


「使えるものを作ったなら、それには価値がある。学生が作ったかどうかなんて、使う側には関係ない」


価値がある。


自分が作ったものについて、そんな言葉を向けられたのは初めてだった。


翌週、リディアは同じ魔力灯を三個作り、学院近くの魔道具ギルドへ持ち込んだ。


受付で事情を説明すると、奥から査定担当の男が出てきた。


「学生の持ち込みか。とりあえず見せて」


男は気軽な様子で一つを手に取ったが、魔力を通したあと、裏蓋を開けて回路を見る。


「これ、全部あんたが?」


「はい」


「耐水は?」


「雨に濡れる程度なら問題ありません」


「落下試験はした?」


「机の高さから三回落としました」


「壊れなかった?」


「はい」


男は残りの二つも確認した。


「三つとも買い取る」


提示された金額は銀貨十二枚だった。


材料費を差し引いても十分な利益が残る。


リディアはカウンターに並べられた銀貨を見つめた。


「どうした。少なかったか?」


「いいえ」


一枚を手に取る。


自分で作った魔道具が、銀貨に変わった。


「初めてなんです。自分で作ったものがお金になったの」


男は少し笑った。


「売れるものを作れば金になる。当たり前だろ」


その当たり前を、リディアは知らなかった。


寮へ戻る途中で小さな木箱を買い、銀貨十二枚を全部入れた。


翌週は保温具を二つ作った。


それも売れた。


次は簡易乾燥器を持ち込んだ。


やはり買い取ってもらえた。


リディアは帳簿を作り、材料費と売上、ギルドへの手数料を記録した。さらに一か月の生活費、学院を出たあと部屋を借りるための保証金、外国人として滞在するための手続きに必要な費用も調べた。


あといくらあれば、実家から一枚の銀貨も受け取らずに暮らせるのか。


数字にすると、まだ遠かった。


それでも魔道具を作るたび、確実に近づいている。


リディアは夜、木箱の中の銀貨を数えてから眠るようになった。


その金は贅沢をするためのものではない。


自由になるためのお金だった。



カイルと出会ったのは、留学して半年ほど経ったころだった。


いつものようにギルドへ魔道具を納品していると、隣から声をかけられた。


「それ、あんたが作ってるのか?」


男の声に、リディアは反射的に一歩離れた。


革鎧を着た若い男が立っている。二十歳くらいだろうか。短く切った茶色の髪には砂埃が残り、腰には使い込まれた剣を下げていた。


「……そうですが」


「これも?」


男が腰の袋から出したものを見て、リディアは目を見開いた。


自分が作った魔力灯だった。


かなり使い込まれており、表面には細かな傷がついている。留め具の隙間には乾いた泥も残っていた。


「はい。私が作ったものです」


「やっぱり」


男は魔力灯をカウンターへ置いた。


「これ、いいな」


「え?」


「三か月くらい使ってる。雨に二回降られたし、岩場から落としたけど消えなかった」


リディアは魔力灯を受け取った。


外装の一部が歪んでいる。


「ここ、曲がっていますね」


「落としたときだと思う」


「光量は落ちていませんでした?」


「少し暗くなった。でも使えた」


予備回路が働いたのだろう。


課題を作ったときに考えた仕組みが、実際に外で役に立った。


リディアは工具を借り、裏蓋を開けた。


やはり外側の回路が一部切れている。


「直せます」


「いくら?」


「今回は結構です」


男が眉を上げた。


「いいのか?」


「実際に使った状態を見せてもらえたので、その代わりです。次に作るときの参考になります」


「商売下手だな」


「次からは取ります」


「それならいい」


男は笑ったあと、もう一つ尋ねた。


「浄水器も作ってる?」


「作れます」


「軽いやつが欲しいんだけど」


「どのくらいの容量ですか?」


「二人分あればいい。今使ってるやつ、重すぎるんだよ」


リディアが受付を見ると、職員が注文票を出してくれた。


「指名依頼として受けられますよ」


「では、一週間ほどいただけますか」


「ああ、頼む」


男は手を差し出しかけた。


リディアがわずかに後ろへ下がると、その動きを見てすぐに手を引っ込めた。


「悪い。俺、カイル」


「……リディアです」


「じゃあ、一週間後」


それ以上近づくこともなく、カイルはギルドを出ていった。


リディアは閉まった扉をしばらく見ていた。


嫌がったらやめる。


ただそれだけのことが、なぜか強く印象に残った。



一週間後、カイルは約束どおりギルドへ来た。


完成した浄水器を渡すと、手に持って重さを確かめる。


「軽いな」


「容量を減らしたから。二人で一日使うくらいなら問題ないと思う」


「助かる」


それからカイルは、ときどきリディアの魔道具を買うようになった。


そして遠慮なく改善点を言った。


「この留め具、手袋してると使いにくい」


「そんなに?」


「冬山用の厚いやつだと、指が入らない」


リディアは実際に使っている手袋を持ってきてもらい、それに合わせて留め具を大きくした。


別の日には、浄水器を腰から下げられるようにしてほしいと言われた。


「鞄に入れればいいでしょう?」


「戦ってる途中で鞄ごと落とすことがある」


「……鞄を落とすような状況で浄水器を使う?」


「そのあと生き残ったときに使う」


「なるほど」


学院の机の上だけでは分からないことが、いくつもあった。


雨の中で使う。


泥だらけの手で触る。


寒い場所では魔石の出力が落ちる。


砂漠では細かな砂が接合部へ入る。


冒険者から話を聞き、リディアは少しずつ構造を変えていった。


改良したものは前より売れた。


やがてギルドでも、「丈夫な魔力灯を作る学生」として名前を覚えられるようになった。


留学して一年が経つころには、実家から送られてくる仕送りに手をつける必要がなくなっていた。



そのころ、母から手紙が届いた。


『リディアへ。


元気にしていますか。


こちらは変わりありません。


アレクシス様も高等部で頑張っているそうです。


先日ヴァルナー侯爵夫人とお茶をしたのですが、あなたが帰ってくるころには二人とも成人していますね、とお話ししました。


侯爵夫人も笑っていらっしゃいました。


帰国したら、きっと楽しいことがたくさんありますよ。


あと一年、頑張ってね。』


リディアは最後まで読むと、便箋を机へ置いた。


ヴァルナー侯爵夫人と何を話したのだろう。


父も出発の日に、アレクシスのことを口にしていた。


考えているうちに気分が悪くなり、リディアは窓を開けた。


冷たい風が部屋へ入ってくる。


帰らない。


その予定は何も変わっていない。


返事には、


『元気にしております。勉学も順調です』


とだけ書いた。


アレクシスについては一言も触れなかった。


数日後、学院の作業室で魔力灯を組み立てていると、注文品を受け取りに来たカイルが扉から顔を出した。


「入っていい?」


「どうぞ」


カイルは作業台の向かいまで来ると、リディアを見た。


「顔色悪いぞ」


「そう?」


「寝てない?」


「寝てるわ」


「飯は?」


「食べてる」


「じゃあ、何かあった?」


リディアは工具を置いた。


「何も」


「そう」


カイルはそれ以上聞かず、完成した魔力灯を手に取った。


「前より軽くなった?」


「素材を変えたの。強度は同じだけど、値段は少し上がるわ」


「問題ない」


リディアは彼を見た。


「聞かないの?」


「何を?」


「何かあったのかって」


「言いたくないんだろ?」


「……ええ」


「なら聞かない」


カイルは魔力灯を袋へしまった。


あまりにも簡単に話が終わったので、リディアの方が戸惑った。


「本当に聞かないのね」


「聞いてほしいのか?」


リディアは少し考えた。


「分からない」


「じゃあ、分かったら言えばいい」


カイルは代金を作業台へ置き、次の遠征で使ってみると言って帰っていった。


その夜、リディアは母からの手紙をもう一度読んだ。


嫌だと言えば、それ以上踏み込んでこない人もいる。


話したくないと言えば、待ってくれる人もいる。


そんな当たり前のことを、リディアは知らなかった。



二年目の春、魔道具ギルドへ納品に行くと、受付からギルド長に呼ばれた。


奥の部屋へ入ると、机の上に何枚かの書類が用意されていた。


「卒業後、どうするつもりだ?」


「この国に残りたいと思っています」


「実家には戻らない?」


「はい」


ギルド長はリディアの顔を確認してから、書類を一枚差し出した。


「なら、うちと専属契約を結ばないか」


リディアは書類を受け取った。


「私と?」


「他に誰がいる。職人資格の試験には受かるだろうし、推薦状も出す。最初の一年は工房も紹介できる」


契約条件を読む。


毎月の最低納品数。


買い取り価格。


ギルドの手数料。


紹介される工房の賃料。


頭の中で計算した。


暮らせる。


これなら実家から金を受け取る必要はない。


「考えさせてください」


「もちろん。成人までまだ半年ある」


寮へ戻ると、リディアはすぐ帳簿を開いた。


現在の貯金額を書き出し、卒業までの学費と生活費を引く。次に工房の保証金、当面の材料費、離籍後に必要になる手続き費用も引いた。


数字が残った。


計算を間違えているかもしれないと思い、もう一度やり直す。


同じだった。


三回目も変わらない。


足りる。


二年前、図書室でエルグランド王国の資料を見つけたときには、まだ想像でしかなかった。


外国へ行く。


技術を身につける。


自分で稼ぐ。


成人したら家を出る。


一つずつ実行してきた。


あと半年で、本当に自由になれる。



十七歳の誕生日。


リディアは朝早く起き、自分で買った紺色のワンピースを着た。


学院の制服ではない。


伯爵家から持ってきたドレスでもない。


自分で稼いだお金で選んだ服だった。


必要な書類を鞄へ入れ、エルグランド王国にある母国の大使館へ向かう。


何か月も前から準備していた。


受付で名前と用件を伝えると、奥の部屋へ案内された。


担当官は提出した書類を順番に確認した。


「ベルナー伯爵家からの離籍を希望、と」


「はい」


「ご両親には相談されていますか?」


「していません」


担当官は書類から顔を上げた。


「成人していますので、法的にはご本人の意思だけで手続きできます。ただし、一度離籍するとベルナーの家名を名乗る権利を失います」


「承知しています」


「相続権もありません」


「必要ありません」


「将来、生家へ戻ったとしても、自動的に伯爵令嬢の身分へ戻ることはありません」


リディアは担当官をまっすぐ見た。


「戻るつもりはありません」


担当官はしばらく黙ったあと、確認用の書類を差し出した。


「では、こちらへ署名を」


リディアはペンを取った。


署名欄には、現在の正式な名前を書く必要がある。


リディア・ベルナー。


十五年間使ってきた名前だった。


家名を捨てることに寂しさを感じるかと思っていた。


何も感じなかった。


丁寧に署名し、担当官へ書類を返す。


確認と押印が行われ、最後の書類がまとめられた。


「受理されました。本日付で、あなたはベルナー伯爵家から離籍したものとして扱われます」


「ありがとうございます」


大使館を出ると、外はよく晴れていた。


通りには買い物袋を持った人や、荷車を引く商人がいる。いつもと同じ街の朝で、リディアが伯爵令嬢でなくなったことなど誰も知らない。


世界は何も変わっていない。


けれど、リディアは大使館の階段を下りたところで立ち止まった。


これから住む場所を決めるのも自分。


何の仕事をするか決めるのも自分。


誰と付き合うかも、誰から離れるかも、自分で決めていい。


もう誰かに「何が不満なんだ」と聞かれて、自分の嫌悪を否定される必要はない。


リディアは通りへ出た。


その足で魔道具ギルドへ向かった。


ギルド長の部屋に入り、以前渡された契約書を机へ置く。


「契約のお話ですが」


「決めたか?」


「はい。お願いします」


ギルド長は契約書を確認し、ペンを差し出した。


「ようこそ、職人リディア」


その呼び方を聞いて、リディアは初めて笑った。


伯爵令嬢ではない。


誰かの娘としてでも、誰かの幼馴染としてでもない。


魔道具職人のリディア。


それが、これからの自分だった。



その日の午後、両親へ手紙を書いた。


何を書けばいいのか迷ったが、恨み言を並べることはしなかった。昔なら、どうして分かってくれなかったのかと何枚も書いたかもしれない。


今はもう、理解してもらわなくても構わなかった。


『お父様、お母様。


本日、十七歳の成人を迎えました。


同時に、ベルナー伯爵家からの離籍手続きを完了いたしました。


卒業後はエルグランド王国に残り、魔道具職人として働きます。


帰国する予定はありません。


これまで育てていただいたことには感謝しております。


どうかお元気で。


リディア』


一度読み返したあと、最後に一文だけ加えた。


『なお、アレクシス・ヴァルナー様には、私の居所や連絡先を決してお伝えになりませんようお願いいたします』


封をして、翌朝ギルドから発送した。



母国から返事が届いたのは、三週間後だった。


最初は父からだった。


『何を考えている。


離籍などという重大なことを、なぜ相談しなかった。


すぐに帰国しなさい。


直接話をしよう。』


リディアは最後まで読み、便箋を畳んで箱へ入れた。


返事はしなかった。


数日後には母から届いた。


『どうしてこんなことをしたの?


お父様もお母様も、あなたのためを思っていたのよ。


成人したら帰ってくると約束したでしょう。


一度帰ってきてください。


話せば分かります。』


話せば分かる。


その一文を見て、リディアはしばらく便箋から目を離せなかった。


何度も話した。


八歳のころから嫌なことをされていると訴えた。


アレクシスから離れたいと言った。


嫌いだとも、大嫌いだとも言った。


それでも分かってもらえなかったから、何も言わずに国を出た。


今さら何を話すというのだろう。


母からの手紙も箱へ入れた。


さらに一週間ほど経った日、ギルドの受付で一通の封筒を渡された。


見覚えのある筆跡だった。


アレクシス・ヴァルナー。


リディアは封筒を裏返した。


開けなかった。


「こちら、処分してもらえますか?」


受付の女性が少し驚いた。


「読まなくていいんですか?」


「はい」


「分かりました」


封筒は未開封のまま廃棄箱へ入れられた。


何が書かれていたのかは知らない。


知る必要もなかった。



そのころ、ベルナー伯爵家では、アレクシスが伯爵夫妻の前に立っていた。


「どういうことですか?」


父親から事情を聞いて駆けつけたらしく、学院の制服のままだった。


伯爵は娘から届いた手紙を机へ置いた。


「書いてあるとおりだ。リディアは離籍した。エルグランドで魔道具職人になるそうだ」


「いつ帰ってくるんです?」


「帰国する予定はない」


「卒業しても?」


「そう書いてある」


アレクシスは黙った。


理解できないという様子で手紙を見る。


「成人祝いは?」


伯爵夫人が俯いた。


「もう成人したわ」


「だったら、婚約はどうするんです?」


伯爵は顔を上げた。


「婚約?」


「俺とリディアのです」


部屋が静かになった。


伯爵夫妻が顔を見合わせる。


「お前とリディアは、婚約していないだろう」


「今はまだ。でも帰ってきたら正式に申し込むつもりでした」


「リディアは知っているのか?」


「まだ言ってません」


伯爵夫人がゆっくり顔を上げた。


「では、どうしてリディアが受けると思っていたの?」


アレクシスは本当に不思議そうだった。


「だって、俺たちはずっと一緒だったでしょう?」


幼いころから一緒だった。


家同士も親しい。


アレクシスは他の令嬢と結婚したいと思ったことがない。


だからリディアも同じだと思っていたらしい。


「俺、学院でも言ってました。将来はリディアと結婚するって」


伯爵夫人の表情が変わった。


「学院で?」


「聞かれたから」


「誰に?」


「いろんな人に」


伯爵夫妻は何も言えなかった。


娘が何度も訴えていたことを思い出していた。


アレクシスと一緒にいたくない。


彼が近づくと嫌なことをされる。


学院では話しかけてほしくない。


それに対して自分たちは、アレクシス本人が悪いわけではない、彼はいい青年だ、好意を持たれて何が不満なのかと言い続けた。


「住所を教えてください」


アレクシスが言った。


伯爵は首を振った。


「知らない」


「働いているギルドは?」


「教えられない」


「どうしてです?」


伯爵は娘からの手紙を持ち上げ、最後の一文を示した。


アレクシスが読む。


『アレクシス・ヴァルナー様には、私の居所や連絡先を決してお伝えになりませんようお願いいたします』


しばらく誰も話さなかった。


「……なんで?」


アレクシスは手紙を見たまま呟いた。


「俺、リディアに何かしました?」


伯爵夫人は返事ができなかった。


娘が家を捨てるまで、自分たちは何も理解していなかった。


そして目の前にいる青年もまた、リディアが何を嫌がっていたのか理解していない。



リディアは母国で何が起きているのか知らなかった。


高等学院を修了し、魔道具職人の認定資格を取得すると、ギルドから紹介された工房へ移った。


一階が作業場で、二階が住居になっている小さな建物だった。


最初の日、リディアは自分で買った作業台を窓の近くへ置いた。工具を壁際の棚へ並べ、魔石や銀線を種類ごとに箱へ入れる。


二階にはベッドと本棚、小さな食卓を置いた。


広くはない。


伯爵家の自室と比べれば、半分もなかった。


それでも、自分で稼いだ金で借りた場所だった。


食事の時間も、眠る時間も自分で決められる。夜遅くまで図面を描いていても、誰かに「令嬢らしくしなさい」と言われることはない。


何より、扉には鍵がある。


誰かが訪ねてきても、開けるかどうかは自分で決められる。


工房を開いて一か月ほど経った午後、扉が叩かれた。


「リディア、いるか?」


聞き慣れた声だった。


「いるわ」


扉を開けると、カイルが立っていた。


「頼んでたやつ、できた?」


「できてる。入って」


棚から小さな箱を出し、中の魔道具を見せる。


「簡易結界器。前より起動時間を短くしたわ」


カイルは手に取って確認した。


「持続時間は?」


「十分」


「短いな」


「逃げるための道具だもの。十分あれば距離を取れるでしょう」


「相手による」


「十分で逃げられない魔物とは戦わないで」


「正論」


リディアは説明書を渡した。


「この石を押せば起動する。ただし一回使い切りだから、試しに使わないでね」


「高かったのに一回?」


「だから試すなって言ってるの」


「分かった」


カイルは箱を鞄へ入れた。


「明日から北の山へ行く」


「何日?」


「二週間くらい」


「まだ雪が残っているでしょう」


「保温具も持っていく。リディアのやつ」


「なら、凍えることはないと思う」


「俺の腕は?」


「魔道具よりは信用してない」


「酷いな」


カイルは笑った。


しばらく新しい魔力灯を眺めていたが、帰る前に扉のところで振り返った。


「帰ってきたら、飯行かない?」


リディアは手を止めた。


「二人で?」


「ああ」


カイルはそれ以上何も言わず、返事を待っている。


昔なら、誰かに見られたらどうしようと考えただろう。


噂になったら。


嫌がらせされたら。


断ったら相手が怒るかもしれない。


そんな心配が先に立って、自分がどうしたいのかを考える余裕すらなかった。


「嫌ならいいぞ」


「考えてたの」


「じゃあ待つ」


リディアはカイルを見た。


急かさない。


勝手に決めない。


自分の返事を待っている。


「行く」


「いいの?」


「私が行きたいから」


カイルは頷いた。


「じゃあ、生きて帰らないとな」


「そのための結界器よ。ちゃんと使って」


「そこは俺自身を心配してくれ」


「無事に帰ってきたら考える」


二人で笑った。



半年ほど経ったころ、母から長い手紙が届いた。


リディアは何日か開けずに置いていた。


捨ててもよかった。


けれど休日の朝、窓際でお茶を飲んでいるとき、なんとなく封を切った。


『リディアへ。


あなたがいなくなってから、いろいろなことを知りました。


学院にも確認しました。


あなたが何年も嫌がらせを受けていたこと。


アレクシス様が、あなたと将来結婚すると周囲に話していたこと。


それを聞いた令嬢たちが、あなたを敵視していたこと。


あなたは何度も私たちに話してくれていたのに、私は真剣に聞きませんでした。


アレクシス様本人が悪いことをしたわけではない。


ずっと、そう思っていました。


でも、あなたが求めていたのは、誰が悪いかを決めることではなかったのですね。


あなたはただ、離れたいと言っていた。


私はそれすら認めませんでした。


ごめんなさい。


帰ってきてほしいとは、もう言いません。


あなたが今、安全に暮らしているのなら、それでいいと思えるようになりました。


返事はいりません。


ただ、元気でいてください。』


リディアは最後まで読んだ。


以前の手紙を読んだときのような不快感はなかった。


だからといって、すぐに許せたわけでもない。


過去がなくなるわけではないし、故郷へ帰りたいとも思わなかった。


それでも母がようやく、自分が何を訴えていたのか理解したことだけは分かった。


リディアは新しい便箋を出した。


『元気です。


仕事も順調です。


お母様もお元気で。』


それだけ書いて封をした。


今は、それで十分だった。



アレクシスからの手紙は、その後も何度か届いた。


最初は月に一度。


しばらくすると三か月に一度になり、やがて半年に一度になった。


リディアは一通も開けなかった。


何が書いてあったのかは知らない。


謝罪かもしれない。


言い訳かもしれない。


帰ってきてほしいと書かれていたのかもしれない。


どれでも同じだった。


アレクシスには手紙を書く自由がある。


そしてリディアには、それを読まない自由がある。



二十歳になった春、リディアは工房をもう少し広い場所へ移した。


冒険者向けの魔道具が評判になり、注文が増えたためだった。弟子も一人取った。


十六歳の少女で、魔力回路を刻むのが上手だった。


「先生、ここの線なんですけど」


「先生はやめて」


「じゃあ親方」


「もっと嫌」


少女は笑った。


「じゃあリディアさん」


「それでいいわ」


昼前まで二人で作業をしていると、工房の扉が開いた。


「ただいま」


カイルだった。


リディアは作業台から顔を上げた。


「おかえり」


口にしてから、自然にその言葉が出たことに気づいた。


カイルは今も冒険者を続けている。


リディアは魔道具職人。


仕事は別々で、一緒に暮らしているわけでもない。


それでもカイルが遠征から帰れば食事をし、休日が合えば市場へ行く。意見が合わずに喧嘩をすることもある。


「これ、壊れた」


カイルが鞄から魔力灯を出した。


リディアは受け取り、外装を見た。


大きくへこんでいる。


「どうやったらこうなるの?」


「崖から落ちた」


「魔力灯が?」


「俺ごと」


リディアは顔を上げた。


「先にそれを言って」


「見てのとおり無事」


「そういう問題じゃないでしょう」


裏蓋を開ける。


回路も一部切れていた。


「修理できる?」


「できるけど、新しいのを買った方が安いわよ」


「これがいい」


「どうして?」


カイルは魔力灯を指した。


「最初にあんたから買ったやつだから」


リディアは魔力灯を見た。


出会った日にカイルが持っていたものだ。


「……分かった。直す」


「頼む」


リディアは修理箱へ魔力灯を入れた。


以前なら、その言葉に特別な意味があるのか考えただろう。


今は、嬉しいと思ったならそれでよかった。


相手の気持ちを勝手に決めつける必要も、自分の気持ちを急いで決める必要もない。


「リディア」


「何?」


「今度の休み、空いてる?」


「午後なら」


「湖へ行かない?」


「馬車で半日かかるところ?」


「そう」


「遠いでしょう」


「嫌?」


リディアは少し考えた。


湖そのものには興味がある。


新しい土地へ行くのも好きになった。


何より、カイルと行くのが嫌ではない。


「行く」


「よし」


それだけで予定が決まった。


誰かと一緒にいることは、本来こんなに簡単なものなのかもしれない。



リディアは結局、一度も故郷へ帰らなかった。


父とも母とも、今では年に数回だけ手紙を交わしている。父から最初に謝罪が届いたのは、離籍して二年後だった。短い返事を送ったが、それ以上のことは求められなかった。


アレクシスがその後どうなったのかも、詳しくは知らない。


侯爵家を継ぐために働いているらしい。婚約したという話を、母からの手紙で一度だけ読んだこともある。


相手が誰だったのかは覚えていない。


それが自分でも少し不思議だった。


昔はアレクシスの名前を聞くだけで気分が悪くなった。学院の廊下で声が聞こえれば、顔を合わせないよう別の道を探していた。


あれほど嫌いで、憎んでいた。


今は遠い国にいる昔の知人の話を聞いた程度にしか感じない。


許したからではない。


彼が変わったからでもない。


リディアの今の生活に、アレクシスが関わっていないからだった。



ある日の夕方、仕事を終えて工房の扉を閉めると、カイルが通りの向かいで待っていた。


「遅い」


「仕事してたんだから仕方ないでしょう」


「腹減った」


「先に食べていればよかったのに」


「一緒に食べる約束だっただろ」


リディアは鍵を鞄へ入れた。


「そうだった」


「忘れてた?」


「少し」


「酷い」


カイルは文句を言いながら、リディアの隣を歩き始めた。


夕食時の通りには仕事帰りの人たちが行き交い、近くのパン屋から焼きたてのパンの匂いが流れてくる。店先では店員が明日の営業時間を書いた札を出していた。


誰もリディアたちを気にしていない。


誰と歩いているのか、誰も見張っていない。


それは今でも、リディアがこの街を好きな理由の一つだった。


「何食う?」


「シチュー」


「また?」


「好きなの」


「俺、昨日食った」


「私は食べてないわ」


「俺が食ったんだけど」


「知らないわよ」


「じゃあシチューでいい」


あっさり決まった。


昔のリディアは、誰かと食事をするだけでも周囲の目を気にしていた。


誰かに見られたら。


噂になったら。


また何かをされるかもしれない。


そんなことばかり考えて、自分が誰と一緒にいたいのかを考える余裕がなかった。


今は違う。


誰と食事をするのかも、どこへ行くのかも、自分で決められる。


その当たり前のことを知るまで、随分時間がかかった。


母は昔、リディアに言った。


人の好意をそんなふうに言ってはいけない、と。


あの言葉を長い間嫌っていた。


今なら、好意そのものが悪いわけではないと分かる。


誰かを好きになることも、そばにいたいと思うことも、一緒に未来を過ごしたいと思うことも、それだけなら悪くない。


けれど、好意を向けられた側には、それを受け取らない自由がある。


幼馴染だから。


家同士が親しいから。


相手が立派な侯爵令息だから。


悪気がなかったから。


ずっと一緒だったから。


どれも、リディアの人生を相手へ差し出す理由にはならない。


アレクシスは、リディアと結婚するつもりだったらしい。


本人から聞いたことは一度もなかった。


もしあのまま母国に残っていたら、成人したころに突然婚約の話を聞かされていたのかもしれない。


そして周囲はきっと喜んだ。


幼馴染同士で素敵ね。


あんな立派な方に愛されて幸せね。


侯爵夫人になれるなんて羨ましい。


その中でリディアだけが、嫌だと言い続けることになったのだろう。


そしてまた、どうして嫌なのかと聞かれた。


何度答えても、納得してもらえなかったに違いない。


だから国を出た。


誰にも理解されなくても、自分だけは自分の「嫌だ」を無視しないと決めた。


「リディア」


隣を歩いていたカイルが立ち止まった。


「何?」


「こっち」


「シチューのお店は反対でしょう?」


「その前に寄るところがある」


「どこ?」


「来れば分かる」


リディアは動かなかった。


「先に教えて」


「あ、はい」


カイルはすぐに答えた。


「新しい魔石屋。珍しい青魔石が入ったらしい」


「なんでそれを先に言わないの!」


リディアはすぐに道を曲がった。


「食いつくと思って」


「行くわよ」


「シチューは?」


「あと」


「腹減ったんだけど」


「我慢して」


「横暴だなあ」


文句を言いながら、カイルもついてくる。


リディアは魔石屋の看板を探しながら歩いた。


珍しい青魔石なら、魔力灯に使えるかもしれない。冷却器の効率を上げられる可能性もある。明日は性質を調べて、使えそうなら術式を組み、失敗したら別の回路を試そう。


そんなことを考えていると、明日の予定が次々に増えていった。


昔は、明日が来るのが怖かった。


明日は何をされるだろう。


アレクシスに話しかけられませんように。


誰にも目をつけられませんように。


何も起きませんように。


そう願いながら眠っていた。


今は、明日が楽しみだった。


次は何を作ろう。


どんな魔道具なら役に立つだろう。


カイルが持ち帰ってくる改善点にも、きっとまた文句を言いながら付き合うことになる。


弟子に教えたい技術も増えていた。


自分で稼いだ金で借りた工房があり、仕事があり、友人がいる。自分の技術を必要としてくれる人たちもいる。


そして隣には、自分が一緒に歩くことを選んだ人がいる。


十七歳の誕生日、大使館で最後に「リディア・ベルナー」と署名した日。


あの日に失ったものを惜しいとは思わない。


家名も、相続権も、誰かが用意していた将来も手放した。


代わりに、自分で選べる人生を手に入れた。


「魔石屋、閉まるぞ」


カイルに言われ、リディアは前を見る。


店員がちょうど外の品物を片づけ始めていた。


「急ぐわよ」


「俺、腹減ってるんだけど」


「閉まったらあなたのせいだからね」


「なんで俺?」


「歩くのが遅いから」


「さっきまでシチュー食べる気だっただろ」


「事情が変わったの」


「魔石一個で?」


「重要よ」


カイルが呆れたように笑った。


二人で店へ急ぐ。


子どものころから嫌いだった幼馴染は、リディアと結婚するつもりだったらしい。


けれど、それはアレクシスが一人で思い描いていた未来だ。


リディアが選んだ未来は、ここにある。


そしてこれから先も、自分の行き先は自分で決める。

お読みいただきありがとうございました!


面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
正論ばかりで状況判断が出来ないのは何かの障害かしらねえ。 母の認知が低下して自分の世界がどうにも狭くなっている様子を見ると俯瞰して見たり、第三者的な判断をするのは生きる上で大切なことだと感じております…
親はギリギリ踏みとどまれたけど、気付かなかったアレクシスは妻や娘に形を変えて同じことしてないか不安だなぁ。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ