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煽りとカレーと哲学と

放課後。

 中庭の喧騒も、イオリの天然毒も、すべてが遠い昔みたいに感じる。

 今日は、やたらと消耗した。


 夕焼けに染まった帰り道を歩きながら、俺は小さく息をついた。


「……はぁ。煽り耐性って、筋トレより体力使うな」


 ボタン――冷静な観察魔。「君、もう“底”が見えそうだし」

 ウララ――暴力も言葉もフルオート。「“優しい”って、“面白くない”の婉曲表現だと思うんだけど」

 イオリ――敬語で心を刺す天然地雷。「でも、ちょうど暇そうな先輩がいて良かったです!」


 脳裏をよぎるのは彼女たちの笑顔。

 例外一名、ボタンのまともな笑顔はまだ見たことがない。

 どれも可愛いのに、どれも疲れる。

 きっと俺の前世は“言葉責めの神”に呪われたんだろう。響きだけなら音声作品だが、現実に“再生ボタン”はない。


 ……本気で傷ついたり怒ったりしないのは、どこか冷めているからか。

 それとも――

 “いい人”でいようとして表情の端を殺してるだけか。

 ――いつぞやの、ボタンの言葉だった。


 いい人、か。

 俺はそんなもの、なれてないんだけどな。


 家に帰ると、カレーの匂いがした。

 ドアを開けると、妹のミユがエプロン姿で立っている。

 ツインテールはいつもよりラフで、ピンクの部屋着が妙に似合っていた。

 ……妹のはずなのに、こういう時だけ他人っぽく見える。


「おかえり、お兄ちゃん!」

「おー、ただいま。……ん? カレーの匂いだ。鍋で踊る食材たちが俺を全力で迎えに来てる気がする」

「ふふっ、今日のカレーはハルカお姉ちゃん監修! スパイスの配合がプロ仕様なんだよ!」

「もうハルカさん、完全に家族やん……」

「ハルカお姉ちゃんとお兄ちゃん、どっちが一番上になるんだろう……」

「そんなもん真面目に考えなくていい」


 テーブルには二人分の皿。

 「でも本当は、一人で作ってみたかったんだけどね」

 食卓に座ると、ミユがはにかみながらスプーンを差し出してくる。

 軽く礼を言って受け取る。

 安心する日常。絶対の聖域。


「ねぇねぇ、お兄ちゃん。今日も“変な人たち”と話してきた?」

「変な人って言うな。……まぁ、だいたいそうだな」

「ふーん。どんな人なの?」


 スプーンの端をかみながら、ジト目でミユが尋ねる。

 俺はくるくるとスプーンを回しながら、苦笑した。


「ひとりは、何考えてるかわからないタイプ。もうひとりは、何も考えずに突っ走るタイプ。で、最後のひとりは、考えすぎて結果的に失礼なタイプ」

「……なるほど。お兄ちゃんモテるんだね~すごいな~。さぞかし楽しい学園生活でしょうねっ!」

「何怒ってるんだよ。いや、あれはモテじゃない。災害だ」

「災害?」

「少なくとも、お前みたいな癒し効果はないよ」

「え? 癒やし? ……えへへ♪」


 ミユは楽しそうに笑う。

 その笑い声が、どんな煽りよりも優しかった。


 カレーを食べながら、ふと思う。

 煽ってくる彼女たちの“言葉”って、みんな違う形の寂しさなのかもしれない。


 ボタンは、感情を観察しながら自分の心を忘れているのかもしれない。

 ウララは、強がりながら誰より繊細に自分を守っているのかもしれない。

 イオリは、無垢だからこそ人を傷つけることに気づけずに苦しんでいるのかもしれない。


 それを全部、俺は笑って受け流してきた。

 でも――それって、本当に優しさなんだろうか。

 踏み込む勇気がないだけかもしれない。


 優しさって、報われないと知っていても差し出す行為。

 たぶん、いちばん非合理で、いちばん人間的な衝動だ。


「お兄ちゃん、また難しい顔してる」

「え?」

「うーん。たぶん、誰かのこと考えてる顔。どうせその女たちでしょ」


 ツーンと口を尖らせたあと、ミユは俺のカップにミルクを注ぐ。

 その仕草が、なんでか少しだけ母親みたいで。

 俺は苦笑した。


「ミユはさ、誰かに何か言われて傷ついたことある?」

「あるよ。でも、たいていのことは寝たら忘れるし。……お兄ちゃんみたいに、言ってきた相手のことまで考えたりしないよ」

「それが一番強いのかもな」


 ミユは小首をかしげて笑った。

「でも、私はお兄ちゃんみたいな人、好きだよ?」

「お、おう……ありがと」


 その笑顔に救われた気がした。

 家の明かりの下だけは、煽りも正論もない。

 “優しさ”がそのまま通じる、唯一の場所。


 食後。

 ミユが眠ってから、俺は一人でリビングに残ってだらだらと配信を見ていた。

 いわゆる、推し活ってやつだ。


『こんばんは~、今日は雑談配信です。あ、シュポスさんこんばんは~』

 同時接続数は少なめで、のんびりとできる落ち着いた空間。

 ハンドルネームのシーシュポスは、神話の男――山頂に岩を運んでは落とされる、あの永遠の徒労から取った。


 神坂。神と坂。神と斜面。くだらない連想ゲームだ。


 けれど、その“無意味なことを繰り返す肯定”が、なぜか他人事に思えなかった。

 意味がほしい。ずっと。

 ……疲れているのかな、俺。


 ふとPCから目をそらす。

 夜風がカーテンを揺らし、スマホに未読のメッセージ。

 ボタンからだった。


『観察、続行中だよ。次は“家の顔”が見たいな』


 俺は頭を抱えた。

「……観察魔が、聖域まで侵入しようとしてる……」


 また明日も、きっと言葉の嵐だ。

 けど――その喧騒が、なんだか少しだけ愛おしい。


 岩はまた転がる。

 俺もまた、笑って押し返すだけだ。


 シーシュポスもきっと、落ちていく岩を見ながら、登る瞬間を愛おしく感じたのだろう。

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