勉強会 in 自宅
夕方の光がカーテンを透かして、リビングの机の上に落ちていた。
ノート、シャーペン、参考書。
カフェインの代わりに、麦茶のグラス。
「ねぇレン、次の世界史、年号まとめた?」
「……したけど、もう頭から漏れてる気がする」
「そりゃあ、寝てないからでしょ」
「寝てないんじゃなくて、“寝れなかった”んだよ」
ハルカは苦笑しながら、俺の髪を軽く引っ張った。
「勉強会って言っても、ほぼレンがぼーっとしてるだけなんだけど?」
「集中してるんだよ、心の中で」
「それ“瞑想”って言うんじゃない?」
そんな軽口が、やけに心地よい。
外では夕立が降り出していた。
雨の音が、ページをめくる音にまざる。
そのとき、机の端に置いていたスマホが、短く震えた。
俺は、条件反射みたいに画面をのぞきこむ。
トークアプリのポップアップには、『要確認』という文字と、無表情なうさぎのスタンプが並んでいた。
(……ボタンか)
教室で、いつもみんなを観察している“解析女子”の顔が頭に浮かぶ。
俺は、何事もなかったみたいな顔で、スマホを裏返した。
画面を下にして、麦茶のグラスの向こう側へ押しやる。
「……レン、集中力切れてない?」
問題集をめくる手を止めずに、ハルカが言った。
声はいつも通り優しい。
ただ、シャーペンのノックが、一回だけ余計に「カチッ」と鳴る。
「切れてないです」
「ならいいの。勉強以外の“難問”は、今はしまっておいてね」
思わず、俺はハルカを見る。
ハルカは、何も知らないふりをしたまま、ページの端を親指で押さえていた。
――見てないようで、全部見てるんだよな、こいつ。
そのさりげない“線引き”が、むしろ安心させる。
ハルカが改めて問題集を開いた。
「ね、進路どうするの?」
「……うん」
俺は一瞬、ペンを止めた。
机の端には、折りたたまれた大学のパンフレット。
表紙の隙間から、路線図のページが少しだけ顔を出している。
「都内、行こうと思ってる」
言葉を落とした瞬間、空気の重さが一段だけ変わった気がした。
ハルカの指が、ページの上で止まる。
それから、何気ない動作を装って、そのパンフレットを引き寄せる。
開かれた見開きには、キャンパスの写真と、小さな路線図。
ハルカの人差し指が、今住んでいる街の駅から、都内の駅までをなぞる。
「やっぱり、そうなんだ」
少しの沈黙。
窓の外、雨がガラスを叩く音。
やわらかく、でも確かに響く。
「……ここから、一時間半か」
「通えなくはないけどね」
ハルカが、指を地図の上でくるりと回す。
「でも、さすがに毎朝、起こしには行けなくなるかな」
それがただの事実の確認なのか、さみしさなのか。
指先だけが、地図の上で少し迷子みたいに止まっている。
「……ハルカは?」
「私は、まだ迷ってる。でも……できれば、同じ大学行けたらいいなって」
その言葉の“匂い”が、空気に溶ける。
まるで、麦茶の氷がゆっくりと解けるみたいに。
俺は照れ隠しのようにノートを閉じた。
「……そりゃ、隣の家がいきなり静かになったら、寂しいよな」
「そういう話じゃないけど」
ハルカが笑った。
でも、その笑い方には少しだけ“未来の距離”の気配が混ざっていた。
「お兄ちゃぁぁぁぁぁぁん!!!」
その瞬間、階段をドタドタと駆け下りる音。
そして、涙目のミユが突入してきた。
「どした、地震?」
「ちがうよ! テストがぁぁぁぁぁぁぁぁ無理ぃぃぃぃ!!!」
両手に持ってるのは、教科書とノートと、ティッシュ箱。
どうやら泣く準備も完璧らしい。
「英語、単語多すぎる! 数学、もう数字が敵! 社会、漢字むずい!」
「つまり全部だな」
「うわぁぁん、助けてぇ~!」
笑いを堪えきれずに、俺はペンを置いた。
「はいはい。まずは落ち着いて深呼吸」
「はぁ……ひっ……すぅぅぅ……」
「鼻で泣くな」
「ていうかミユ、お前そのシャツ裏返しだぞ」
「えっ?」
俺が顎で示すと、ミユは自分の胸元を見下ろす。
タグが、見事に前面で主張していた。
「ぎゃーー!! なんで誰も言ってくれないの!?」
「今言っただろ」
「一階降りてくる前に言ってほしかったぁぁ!」
「エスパーに進化しないと無理かな」
俺が肩をすくめると、ハルカが吹き出した。
「てかそれ、昨日の体操服じゃない?」
「えっ、あっ……」
ミユが固まる。
「……今日一日、それで過ごしてた?」
「し、してないし! たぶん! 記憶あいまい!」
「“たぶん”の時点でアウトなんだよな」
「うぅ……人生まで裏返ってる気がしてきた……テストも裏返したい……」
騒ぎながらも、ちゃんと机の横に座り込むあたり、テストの恐怖は本物らしい。
「も~! お兄ちゃんってば、学校じゃ『四天王を手玉に取る裏の支配者』とか言われてるのに、なんで妹には二次方程式も教えられないの!?」
「誰だその不名誉な二つ名広めてるやつ! 誤解だ!」
「え~、でもイオリ先輩も言ってたよ? 『先輩は猛獣使いです』って」
「あいつもか……」
俺が頭を抱えると、ハルカがくすっと笑う。
「猛獣使いかぁ。家じゃ猫一匹も手懐けられてないのにね」
「ハルカお姉ちゃん、猫扱い!? でも撫でられたらちょっと嬉しい……くっ」
「自分でツンデレ完結させるな」
仕方なく隣に座って、問題を一緒に解く。
ミユはブツブツ言いながらペンを走らせて、時々ハルカのほうを見て答えを確認する。
「ハルカお姉ちゃん、“because”って、なんで“ビコーズ”って読むの? “ベコウセ”じゃダメなの?」
「それはもう別の生き物だね。なんか牛っぽい」
「モ~……英語さん、ミユに優しくして……」
「英語に泣きながら牛の鳴き声混ぜるな」
俺が突っ込むと、ハルカがくすくす笑いを漏らす。
「ほら、ここ。“because”と“so”の違い。理由と結果の関係ね。原因と結果が逆だと意味が変わるの」
「えっ、そんな裏切り方するの!? “because”怖っ!」
「中学の範囲だろ……引くわ」
「もう! お兄ちゃん、引いてないで教えて!」
ハルカは、ミユのノートを指でとんとんと叩いた。
「じゃあさ、ミユ。“I’m sleepy because I studied.”って文があるとするでしょ?」
「うん」
「これは、“勉強したから眠い”って意味」
「うんうん」
「でも、“I studied because I’m sleepy.”だと?」
「……眠すぎて逆にテンション上がって勉強しちゃった人?」
「そう。理由と結果がひっくり返ると、ちょっとおバカな人になるの」
「じゃあミユ、“I’m crying because I’m stupid.”」
「そんな悲しい自白するな。せめて“I’m crying because tomorrow is test.”くらいにしとけ」
ミユはふてくされて頬をぷくっと膨らませた。
「テストなかったら、ミユ天才なのに……」
「前提が崩壊してるよ、それ」
「テストが悪い……文明が悪い……」
「全部を敵に回すな」
なにか勉強から逃れる話題を探すべく、ミユは目をうろちょろさせる。
「ハルカお姉ちゃんの字、可愛い……。ミユもこんな字にしたい~」
「書きすぎて崩れた結果だよ。勉強すれば自然になるわ」
「ほんと? じゃあ明日までに頑張る!」
「一晩で人格形成する気?」
ハルカはくすっと笑って、ペンを置いた。
「ミユ、ちょっとノート貸して」
「え、やだ、汚いよ?」
「知ってる。でも、ここだけ綺麗にしてみよっか」
そう言って、ハルカはミユのノートの端に「Miyu」と丸文字で書いて、小さな花を添える。
アルファベットの線が、ふんわりと丸く繋がっていく。
「わぁ……かわいい……!」
ミユの瞳が、一気にきらきらしだした。
「ミユの名前、なんかアイドルみたい! サインみたい!」
「じゃあ、ファン第一号はお兄ちゃんで」
「強制入会かよ」
俺がぼやくと、ミユが得意げに胸を張る。
「お兄ちゃん、“推し活”しよ? 推し:妹」
「ピンポイントで嫌だな、その界隈」
「ほら、ちゃんとグッズもあるし!」
そう言って、さっきまで抱えていたティッシュ箱を掲げる。
「限定品・ミユ仕様。泣き放題」
「それただの在庫だろ」
そんなツッコミを入れながらも、こめかみがズキリと痛んだ。
俺は無意識に眉間を指で揉む。
次の瞬間、ひんやりした感触が頬に触れた。
「はい、糖分補給」
ハルカが、コンビニでよく見る一口サイズのチョコを、包み紙をむいた状態で差し出していた。
俺が目を瞬かせると、ハルカは当たり前みたいな顔をしている。
「……サンキュ」
「レン、眉間にしわ寄ってるよ。外で睨み合いしすぎなんじゃない?」
何も言っていないのに、全部バレている。
ボタンの観察眼とも、ウララの勘とも違う、“昔から知ってる人”の精度。
「ここでは、ちゃんと力抜きなさい。……ほら、肩も固いし」
ハルカが、俺の肩を指先で軽くつつく。
本当に、そこだけ狙い撃ちしたみたいに凝っていて、思わず苦笑いがこぼれた。
「……お兄ちゃん、何と戦ってるの?」
ミユが、ペンをくるくる回しながら聞いてくる。
「主に、お前の学力だな」
「家でまで!? ブラックだ~!」
「自業自得だろ」
ハルカが、そんな俺たちを見ながら目を細める。
少し考えてから、ミユの髪にそっと手を伸ばした。
「ね、ミユ。ちょっとだけ髪触っていい?」
「え、なに急に。やさしくしてね」
「はいはい」
ハルカは器用な手つきで、ミユの横髪をくるりとねじって、後ろでピンで留める。
それだけで、さっきまで寝癖混じりだった中学生が、ちょっと背伸びした女の子に変わった。
「……わっ」
ミユが鏡を探すみたいに、きょろきょろと視線を彷徨わせる。
代わりに、俺と目が合った。
「ど、どう? お兄ちゃん」
「……うん。いつもより、ちょっとマシ」
「“ちょっと”とは?」
「十分かわいいってこと」
「……へへっ」
ミユは照れ隠しみたいに、机に突っ伏した。
「ハルカお姉ちゃん、美容師さんになれる……」
「そのころには、ミユがモデルでしょ」
「やだぁ、じゃあお店の名前、“Because”にしよ」
「なんでそこでそれ選ぶの。理由、重そうなお店だな……」
「“眠いからお休みします”って理由で定休日増えそう」
「それはちょっと行きたいかも」
ハルカが笑うと、ミユもつられて笑った。
気づけば、三人の笑い声が部屋に満ちていた。
雨の音も、いつの間にか止んでいる。
外の空気が少しだけ澄んだように感じて、俺はそっと窓のほうへ目をやった。
机の端では、さっき裏返したスマホが静かに光を消している。
パンフレットの上には、シャーペンと、開きかけのノート。
――ここだけは、まだ“戦場”じゃない。
そんな感覚が、勉強の内容より先に、俺の胸の奥に刻まれていった。




