優しさの味
閉店一時間前の《ミラージュ》は、いつもより静かに感じた。
アコースティックのジャズが、店内の空気をゆるく揺らしている。
カップを磨く音が、やけにリズミカルで、逆に胸に刺さる。
僕はカウンターに肘をつき、つい深いため息を漏らした。
「……人間関係、って疲れますね」
ラテアートを描いていたマコさんが、ちらりと僕を見る。
「お、いきなり重いオープニング。どうしたのレンくん?」
「学校で、ちょっと……煽りが激しくて。いや、煽られるほうなんですけど」
「ふふ、また“煽り四天王”と戦ってるの?」
「そんなRPGみたいに言わないでください……。あいつら、本気で頭がいいから余計疲れるんですよ。話すたびに勝ち負けがあるというか、言葉がもう戦場で」
「戦場ねぇ。レンくん、言葉で殴られるのは慣れてるじゃん」
「褒めてます?」
「もちろん。うちの“真面目タンク”だもん」
「役割ひどいな……」
マコさんは笑いながら、ラテに“Fight!”と描く。
その完璧すぎる筆記体が、妙にプレッシャーだった。
「……その芸術的な応援が、いちばん重いんですけど」
「じゃあ、いっそ“バカモード”に切り替えなよ」
「またそれですか」
「そう。またそれ。人間はね、愚痴言ってる間だけ“自分を整備”してるんだよ」
「メンテナンス扱いなんですか……」
そこへ、奥からリオが顔をひょこっと出した。
和メイド服のフリルが、照明を柔らかく反射している。
「なになに~、愚痴大会ですか♡ リオも混ざっていい?」
「お前、混ざる気満々だな……」
「もちろん。聞き役、得意なんですよ。でも、“聞く”ってより、“浄化”する感じ?」
「宗教色強めだな……」
彼女はにっこり笑って、僕の前にミルクティーを置く。
ただのミルクティーなのに、表面のハートがやけに眩しい。
「はい、“愚痴専用ミルク”。飲むと許せる気がしますよ♡」
「……味がすでに宗教系なんですけど」
マコさんが吹き出す。
「リオ、相変わらず怪しいセラピー系だね」
「マコ先輩こそ、たまには愚痴ってくださいよ。いつも“姉モード”なんだから」
「ん~……そうねぇ。じゃあ、ひとつだけ言うなら……」
マコさんは手を止め、笑顔のまま少しだけ目を細めた。
「“優しい子”って、疲れるよね」
僕は思わず動きを止めた。
「え?」
「ほら、自分が我慢して、誰かが助かればそれでいいって思ってるタイプ。優しさってさ、長時間運転には向いてないの。すぐオーバーヒートするから」
リオがこくりと頷く。
「わかります。“人に気づかれる前に疲れるタイプ”ですよね」
「……否定できないですね、それ」
「でしょ? レンくん、優しすぎるんだよ」
マコさんはラテの泡を軽くつつきながら言う。
「優しさも、たまには“混ぜる”くらいでちょうどいい。沈殿させると、苦くなるから」
そこへ奥から店長の落ち着いた声が響いた。
「混ぜ方を間違うと、コーヒーも人間関係も泡立たない」
気づけば高倉店長が、コーヒーミルを止めて立っていた。
ゆっくりカップを磨きながら、僕に視線を向ける。
「レン。君は“穏やか”と“我慢”を混同している。本当の穏やかさは、怒れる人間だけが持てるんだよ」
「……怒れる人間、ですか」
「そう。正義も優しさも、怒りの残り火だ。それを忘れた人間から、情熱が抜けていく」
静かな声なのに、不思議と胸の内側だけが熱くなった。
「店長……たまに、詩人になりますよね」
「歳を取るとね、言葉が減って、比喩が増えるんだ」
そう言って店長は片目を閉じて笑った。
リオがカップを掲げる。
「じゃあ、今日の締めは“愚痴トースト”ですね♡」
「そんなメニューないだろ……」
「今日から新作。愚痴をパンに塗って焼くの。ほら、香ばしいでしょ?」
「君が言うと、本当にありそうだから怖いんだよ……」
店内に笑い声が広がる。
時計の針が静かに進んでいくけれど、《ミラージュ》の空気は相変わらず柔らかい。
僕は少し冷めたミルクティーを一口飲んで、そっと息をついた。
「……なんか、救われました」
マコさんがウィンクする。
「でしょ? うちの店は“世界の愚痴箱”だからね」
リオが笑顔で続ける。
「次は笑い話も聞かせてくださいね♡」
「……努力します」
外では雨が静かに降り始めていた。
まるで店のBGMみたいに心地よく、僕の疲れを少しずつ溶かしていく気がした。




