ボクだってなんでも知っているわけじゃないんだよ
――討論週間が終わって一日。
学校の空気はようやく落ち着きを取り戻していた。
文芸部も、いつもの“文学の墓場”モードに戻っている。
部会は三十分で終了。
議題は「夏に部誌を出すかどうか」
結果は“たぶん出す”。つまり、出さない。
「じゃ、自由時間な」
ユウトがそう言って、ノートを片手にどこかへ消えた。
曰く、“詩は風の中にある”。
体育会系の体格でそれ言われると、ちょっと怖い。
残されたナツメは、今日は珍しく文庫を読んでいた。
表紙には血まみれの廃屋。タイトルは『笑う遺体』。
ページをめくるたび、彼女の横顔に奇妙な落ち着きがある。
「……ラノベじゃないんだな」
「たまには現実の狂気も勉強しないと。創作とは“混ざり”です」
「お前の混ざり方は毎回爆発してるけどな」
そう言ったところで、ガラッとドアが開いた。
空気が、ひとつ揺れる。
「君、ボクを嫌っているの?」
うわ、出た。
「ちょこまか巻かれたせいで特定するまで時間がかかった」
榊ボタン。
ノートを片手に、まるで尋問官みたいな目つきだ。
無表情のまま、指先でツインテールの先をいじっている。
怒っているのか、考えているのか――その境界がわからない。
けれど、その小さな動作だけが、彼女の中に“人間らしい温度”を残していた。
「……ついにここもバレたか」
「“隠れ家”の定義を調べ直した方がいいね」
呆れていると、ナツメがぱっと顔を上げた。
あの読書中の無表情が一瞬で消えて、まるで推しに遭遇したファンのような輝きを放つ。
「ああ、この子がかの明暉セブンの一人、観察魔・榊ボタンですね!」
「なにそのカッコいい称号!?」
「通称、“静寂に潜むメモ帳”! ちなみに命名者は私です」
「その被害者としては洒落にならん二つ名だな……」
ボタンが一瞬だけ瞬きをした。
否定しない。分析してる。
「ふむ、君の命名センスは……理解不能の領域だね」
「褒め言葉ですね?」
「侮辱ではない。未知の概念として分類しておく」
……話が通じてるようで、まったく通じてない。
でも、ナツメはめげなかった。
むしろテンションが上がっていた。
「観察、ですか……いい言葉ですね。創作の父です」
「ふむ、理解が早いね」
「観察は愛の前段階ですよ。好きだから見る。見続けるうちに、構造を知りたくなる。構造を理解したとき、感情は言語化され、つまり――物語になる」
紅茶を吹いた。
慌ててハンカチを取り出す。
なんか始まったぞ……。
ボタンは興味津々に身を乗り出していた。
その眼差しはまるで顕微鏡の先に新種の細胞を見つけた科学者。
「面白い。観察の動機を“愛”と定義する理論。実践的検証が必要だね」
「よければ合同研究します? 私、“逆カプ”もありだと思うので」
「……逆カプ?」
「つまり、観察する側がされる側に堕ちる現象です。愛ですね」
ボタンの表情が一瞬止まった。
理屈の海で泳いできた彼女が、はじめて言語を失う。
「……君、危険人物だ」
「褒め言葉として受け取っておきます♪」
「やめろナツメ、ボタンを沼に引きずり込むな!」
「ちなみに私はNLもBLもGLもいけるので、あなたたちも――」
「……NL……?」
「ノーマルラブ、です」
「“ノーマル”って言い方、偏ってない?」
俺の脳内で、何かがパキンと音を立てて折れた。
ボタンの視線は氷点下、ナツメは満面の笑み。
部室の空気だけが、どういうわけかほんのり甘い。
「あ! もちろん最推しカプはレンユウで変わらないので安心を」
「別にそこは心配しとらんがな」
沈黙。
次の瞬間、ボタンのペン先が震えた。
観察者の手帳が、“理解不能”という言葉で真っ白に埋められる音がした。
「???」
珍しく、ボタンが押されていた。
観察者が観察され、解析不能な概念を前に沈黙している。
ナツメはページを閉じ、まるで語り部のように手を組んだ。
「ボタンさん、“物語”ってね、観察結果の報告書じゃないんですよ」
「……違うの?」
「違います。観察の途中で、“観察者が何を感じたか”を書き換える行為です」
「書き換え……観察者の主観が、対象の定義を変える?」
「そう。あなたが誰かを見ると、その人の世界が変わる。つまり――創作は、神の代行業です」
「……神職?」
「そう、私は神です」
「それは宗教的発言として記録しておくね」
思わず笑ってしまった。
なんだこの、理屈と情熱の化学反応は。
ボタンは少し唇を噛み、真剣な目でナツメを見つめる。
「……君の“創作”理論、興味深い。観察結果に感情ノイズを混ぜるのは非効率だと思っていたけど、それを“表現”として再構成するなら……ありかもしれない」
「ね?」
「ただし、非効率的すぎて研究には向かない」
「そこがロマンです」
ボタンが少しだけ笑った――ように見えた。
少なくとも目元がゆるんだ、それだけで部室の空気がふっと和らぐ。
「ふむ、創作者というのは観察の異端だね。君たちは、理解できないものを愛してしまう」
「ええ、だから人間なんですよ」
ナツメが笑うと、ボタンは小さく頷いた。
「……なるほど。観察者も、対象も、物語では対等ということか」
「はい。“見つめる”ことと“見られる”ことは同義です」
観察魔と文芸女帝――理屈と詩が交差する空間。
二人の視線が交わる瞬間、何か新しい方程式が生まれた気がした。
「……なあ」
ため息をつきつつ、二人を見た。
「文芸部って、ほんとに文学やってんのか?」
「もちろん」
ナツメが微笑む。
「人間っていう、一番面白い題材をね」
彼女の指先でページがめくられ、血まみれの廃屋の写真がその笑顔の上で赤く光った。
ボタンはそれをじっと見つめ、無表情のまま、ひと言だけ呟いた。
「……観察対象:文芸部。危険度、想定外」




