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観察開始

 朝の教室。

 俺が席に着くと、机の上に散らばった消しカスを――ボタンがスマホで撮っていた。


「……なにしてんだ?」

「あなたの“手癖”が見えてくるの、面白いね」


 真顔だった。

 まるで標本でも撮るような眼差し。

 消しカスをアート作品みたいに撮るやつなんて、初めて見た。


 彼女は指先で白い粒をなぞりながら、静かに言う。


「君、筆圧が強い。几帳面だけど、一度だけ力が抜けてる線がある。……疲れてる?」


「観察って、そこまでやるのか。現場検証かよ」

「当たり前でしょ。“観察”って、相手の心がどこで折れそうになるかを探すことだもの」


 さらっと怖いことを言う。

 けれど、その声には不思議な柔らかさがあった。

 悪意のない好奇心――だからこそ、逆にぞくりとする。


 授業中、窓ガラスに反射した彼女の顔がちらつく。

 黒髪のツインテールが揺れるたび、目が合う。

 視線を逸らす。

 ……五回。いや、六回目か。

 もしかして、わざと? 挑発のように思えて、胸の奥が少しざわついた。


 昼休み。

 席に戻ると、机の上に一枚のレポートが置かれていた。

 タイトルには太いマジックでこう書かれている。


 「観察記録まとめ」

 質問があれば榊ボタンまで。


 何様だよ、と心の中で毒づきつつも、ページをめくってしまう。

 内容は――俺の一日の行動ログ。

 「一限目:ノートを取る速度は一定」「昼食は購買パン」「話しかけられても笑って受け流す傾向」。

 まるで優等生の皮をかぶった観察日記。

 最後の一文だけ、なぜか妙に胸に引っかかった。


 “神坂レンという人間は、感情の出し方が美しい”


 美しい、ってなんだよ。

 なのに、悪い気がしなかった。

 むしろ、少しだけくすぐったかった。


 放課後。

 廊下の端のベンチで、ボタンが俺を待っていた。

 スマホを手に、イヤホンを差し出す。


「ねえ、ちょっと聞いてほしいものがあるの」


 再生されたのは、今日の授業中の俺の声。

 教師にあてられたときの、わずかに緊張した返答。

 息継ぎ、笑い声、指先がノートを擦る音まで。


「録音……してたのか?」

「うん。声のサンプルを取ってるの。“情動の波”って、声に出るんだよ。顔より正確」


「……許可とか、いらないのかよ」

「観察に“事前承諾”なんて取らないよ。意識した瞬間に、本当の姿が消えちゃうでしょ?」


 理屈は通っている。だからこそ、寒気がした。

 俺は苦笑して、「もう録ったんなら仕方ないか」とだけ言った。

 その笑い声さえも、彼女のスマホに記録されていく。

 そう思ったら、胸の奥で何かが静かにきしんだ。


 夕方。

 校舎を出ると、春の風がカーテンのように吹き抜けた。

 遠くでチャイムが鳴る。

 ポケットの中のスマホが、なぜか少し重く感じる。

 ――観察されるって、こういうことか。静かに、でも確実に内側を侵してくる。


 夜。

 ベッドの上でニュースアプリを眺めていると、通知が一つ。


 「榊ボタンさんがあなたを友だちに追加しました」


 心臓が、跳ねた。

 ただの連絡先交換じゃない。

 それでも、指は無意識に“承認”を押していた。


 画面に浮かぶ彼女のアイコン。初期設定のままなのに、奇妙に特別に見える。

 名前は“観察者”。プロフィールには短く――


 「観察は、理解の第一歩である」


 息を飲む。

 その言葉が、心の奥でゆっくり燃えた。

 窓の外では、街の灯りが点々と瞬いている。

 そのどれかの下で、彼女も同じ画面を見ている気がした。


 観察者と被観察者。

 境界線が、少しだけ滲む。


 怖い。けど――面白い。

 どちらが勝っているのか、自分でもわからない。


 そしてその曖昧な熱だけが、眠れない夜の中で長く燻っていた。

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