物語のナビゲーターですか?はい、そうです。
討論週間の最終日。
昇降口で靴を履き替えた瞬間、背後から声が落ちてきた。
「神坂レン、やはりここにいたか」
白瀬クロト。
メガネの奥の瞳が、相変わらず数式みたいに冷たい。
討論を終わらせない男。議題を踊らせることに快楽を覚えるタイプだ。
「いや、今日はもう終わりで――」
「“終わり”を宣言できるのは、勝者だけだ」
「お前の人生、全部勝敗表で管理してんのかよ!」
俺は逃げた。
廊下を駆け抜け、夕陽を切り裂くように曲がる。女子の歓声が背後で弾けた。やめろ、そういう青春じゃない。
息を切らし、人気のない部活棟へ――。
気づけば、誰も使わない旧観測ドームの前に立っていた。
扉を押し開けた瞬間――手が伸びた。
「こっちへ」
白くて小さな手が、俺の手首を引いた。
その指先は、空気よりも静かだった。
中は薄暗い。
天井の丸窓から、薄青い光がこぼれている。
古い望遠鏡。積み上げられた本の塔。紅茶の香り。
そして椅子がひとつ――そこに少女がいた。
髪は緩く結んだツインテール。うさみみのように揺れている。
袖が手の甲を隠すほど大きなブレザー。
小学生にしか見えないその姿で、彼女は静かに言った。
「星ヶ崎ルカ。天文学部、部員ひとり。最後の観測者にして、残党である」
声は小さいのに、不思議と響いた。
年下ではなく、時間そのものが年上のようだった。
「……部、まだあったのか?」
「吾輩がある限り、滅びぬ」
「語り口が昭和どころか中世なんだけど」
「ふむ、時代錯誤とは便利な言葉じゃな。吾輩はただ、星の時間で話しておるだけじゃ」
堂々とそう言われると、突っ込む気力も失せる。
「“ロリ先輩”って呼ばれてるの、あれ、あんた?」
「呼称は誤差だ。吾輩、三年生ぞ」
……まじか。噂は本当だった。
全国模試トップ、教師を論破して提出物を廃止させた“異次元の頭脳”。
実在していたのか。
ルカは俺の顔を見て、ふっと笑った。
「おぬし、驚愕の表情をしておるのぉ。よいよい」
「何を観測してんだよ」
「人の心。あと、重力と優しさの分布」
意味はさっぱりなのに、声を聞いていると落ち着く。
この部屋の空気だけ、宇宙のようにゆっくり回転していた。
「クロト、君のことを気にしておったぞ」
机の上にはカップが二つ。湯気がまだ立っている。
まるで、俺が逃げてくることを予知していたようだった。
「……逃げてきたの、バレてたか」
「逃げることも観測のうちじゃ」
ルカは紅茶を一口飲み、まぶたを閉じた。
「君は、誰かの記憶に残ることを望む人だね」
その声の温度が変わった。
言葉が、心臓に触れる。
彼女の瞳は望遠鏡の奥――つまり、世界の果てを見ていた。
「その優しさ、とても静かで美しい。だが少しだけ、怖がりでもある」
追い詰めず、抱きしめもせず、ただ“居る”ことを許す声。
それだけで、胸の何かがほぐれていく。
「ここは“沈黙の観測点”。言葉が光を濁さぬ場所じゃ。息が詰まったら、また来るがよい」
「……観察魔も入ってこれない?」
「うむ。あの娘の好奇心も、ここでは屈折する」
外の喧騒が遠ざかっていく。
まるで時間が減速しているみたいに。
ルカは窓を見上げ、ぽつりと呟いた。
「星はな、遠いから綺麗なのではない」
群青の空に、ひとつの星が瞬いた。
「“誰かが見上げている”から、光るのじゃ。優しさも同じ。観測されて、初めて存在する」
その言葉が、ゆっくり沈んでいく。
彼女は笑わないまま、部屋の空気だけが柔らかくなった。
「レン」
その声は、星のノイズみたいに微かだった。
「優しさというやつはな、光速よりも遅い。けれど届かぬものを信じる力――それが人間の速度じゃ」
返す言葉はなかった。
ただ、窓の外に一番星が滲んで見えた。
その光はきっと、誰かの優しさの残光だ。
旧観測ドームを出ると、夜風が頬を撫でた。
空にはさっきより、星がひとつ増えていた。




