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ところで本当にチェスは指せるんですか?

 討論週間も終わりが見えてきたある日。

 校内の掲示板には「議題制覇率ランキング」の表が貼られていた。

 名前がずらりと並ぶ中、上位はほとんど白瀬クロトで埋まっている。


 見慣れた光景だ。

 あいつは、勝つ。いつでも勝つ。

 理由は単純で、クロトの言葉は“詰ませる”構造で組まれてる。逃げ道がない。


「まあ、俺には関係ないけどな……」


 そう呟いて下駄箱を開けたら、靴の上にチェスのナイトがひとつ乗っていた。


「……なんだこれ。将棋じゃなくてチェス? 誰だよ、人力ステルスボードゲーム仕掛けてくるやつ」


 とりあえず靴箱の上に置き直して、帰ろうとした――その瞬間。


「この“オープニング”を無視するとは……大胆だな」


 声が真後ろから落ちてきた。


「おま、背後取るのやめろって! 心臓に悪いから!」


 振り返ると、やっぱりいた。

 白瀬クロト。黒髪に眼鏡、ネクタイが数学記号みたいに乱れない男。


「白瀬クロト。ディベート部の者だ」


「いや、名乗らなくても知ってる。ランキングボードにほぼお前の名前しかなかったぞ」


「ランキングはただの“手番の記録”に過ぎない」


「なんで日常会話にも将棋でもサッカーでもなく“チェス”の文脈が混じってくるんだよ」


 クロトは懐から白と黒の駒を取り出して、光の下で転がした。

 その指先の動きが、やたらと滑らかで……空気まで計算されてるように見える。


「神坂レン。今日の議場での反論、聞いていた」


「え、あれか? いや、思いつきで口から出ただけだって」


「いや、あれは――“不完全情報下の詰み”だ」


「説明の仕方がもう二周まわって怖いんだよ……それ、褒めてるのか?」


「もちろんだ。私は理屈の将軍だが、感情の歩兵は持っていない。だが君の“優しさの反論”――あれは、ルークの捨て駒でキングを守る一手に等しい」


「おい、どの盤上の話なんだよ、それ……」


 呆れながらも、ちょっと笑ってしまう。

 この男は本当に、悪意のないややこしさを持ってる。世界を全部“盤”で見てるんだ。


 クロトは眼鏡を指で押し上げ、まっすぐに言葉を放つ。


「優しさとは社会的潤滑油だ。摩擦を減らし、人間関係を円滑に進めるための“最適化手段”にすぎない」


 その声には温度がない。ただの解析。


「それは、正しいと思うよ」

 俺は否定しない。

「でも、それだけなら“優しさ”って、コンビニの袋と同じで、誰でも取り替えがきくものだろ」


「事実、そうだ」

 クロトが頷く。

「他者を気遣う言動は、属人的ではない。誰が行っても、結果は似る」


「けどさ」

 俺は少しだけ息を吸った。言葉が胸の奥から浮かんでくる。


「人って、“ある誰かがしてくれた”ってことを、覚えてるもんだろ」


 クロトの指が、駒を弄ぶのを止めた。


「例えばさ。落ち込んでる時に、黙って缶コーヒーくれたとか。意味なんてない、合理性もない、でも――“その時その人だった”ことは、覚えてるんだよ」


「記憶、か」


「そう。逆もある。嫌なことされた時だって、何されたかより“誰にされたか”を覚えてる。だからさ――」

 俺は笑わずに言葉を柔らかくした。


「俺はね。他人の人生に、良い記憶として残りたいんだ。“あいつと出会えてよかった”って、そう思われたら……俺が生きた意味って、それで成立する気がする」


「存在の証明を、他者の記憶に委ねる……ということか」


「うん。俺は大したことできないけど、“あのとき助かった”みたいな一瞬を、誰かの中に残せるなら……それって、結構強く生きたことになると思う」


「……しかし、優しさが自己の証明であるなら、対価を求めた計算ではないのか?」


 クロトの声には詰問の響きはなく、ただ純粋な問い。


「そうだよ」

 俺は即答した。

「優しさは、綺麗なだけじゃない。“誰かに覚えていてほしい”っていう、ちょっとしたエゴがある」


「エゴ……」


「でもさ」

 俺は白いチェス駒を指で転がした。


「人が誰かを助ける時って、綺麗な理由だけじゃなくて、“自分も誰かにとって意味ある存在でいたい”って気持ちがある。それを否定したら、人間のあったかさって消えると思う」


 廊下が静かになった。


 クロトは、ゆっくり眼鏡を押し上げる。


「……チェック、だな」


「え?」


「私はずっと、優しさを“機能”として切り分けていた。交換可能で、合理的な潤滑。だが――“記憶に残る”という次元は、盤外だ」


 彼は黒い駒を俺の手のひらに載せる。


「神坂レン。君は“盤の外”から、キングに触れた」


「そんな仰々しい言い方しなくていいって……」


「チェックメイトだよ」

 クロトが笑った。

 それは処刑の笑みじゃない。純粋に“敗北を楽しむ顔”だ。


「君は、感情で世界を詰ませるタイプだ」


「お、おう……なんか怖い褒められ方だな……」


 彼はさらに白い駒を俺の手に押しつける。


「キングを預ける。討論が盤上なら、君は私の異色のパートナーだ」


「やだよ。重い」


「恋ではない。理への求愛だ」


「いやそれが重いんだってば!」


 次の瞬間、廊下の女子たちがざわついた。

「今の聞いた?」「告白?」「パートナーって言った!」「尊……いや違う?」「理への求愛って何!?」


「違う! 違いますー! 恋愛とかじゃないですー! 説明できねえー!!」


 クロトはそんな周囲をまるで見ていなかった。

 この男は本気で盤面以外を視界に入れない。


「ややこしいことになった!!」


 その騒ぎの向こう。

 廊下の曲がり角で、ノートを抱えた榊ボタンがこちらを見ていた。


 黒い瞳に、わずかな揺らぎ。

 ページにペンが走る。


『観察対象:神坂レン

 新規変数:白瀬クロト

 相互作用:理性 vs 非合理優しさ

 距離変動:未測定(要継続観察)

 ※周囲の女子集団の反応……不確定ノイズとして処理』


 ……いや、また見られてる。観察魔、出現率が高すぎる。


「……また、変数が増えたね」


 カツン、とナイトの駒が床で跳ねた。

 不規則に動く、一手先を照らす騎士。


 盤上は、まだ始まったばかりだ。

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