姉とイケオジは言葉で救う
バイト先の喫茶には、時計の音が似合わない。
小さなBGMとカップの音。
静寂を邪魔しないために存在するような空間だ。
俺――神坂レンは、去年の冬からここでバイトしている。
最初の目的は明確だった。
PC代を貯めること。
けど、今では目標を達成しても辞める気がしない。
たぶん、この店の“空気”が居心地よすぎるんだと思う。
「お疲れ、レンくん。今日も真面目ねぇ」
カウンター越しに声をかけてきたのは、先輩の早乙女マコ。
ピンクベージュの髪がライトに透けて、一瞬だけミルクティーみたいな色に見えた。
「バイトって真面目にするもんだろ」
「そう言う子はだいたい三ヶ月で燃え尽きるんだよね~。まったく、レンくんはほんと手がかからない弟タイプだね」
「弟扱いですか」
「うん。レンくん見てるとね、構いたくなっちゃうんだよ。もう“お世話したい病”。たぶん、人生経験値+3の副作用かな」
「3って微妙ですね」
「ほら、あんまり年上ぶると悲しくなるじゃん」
「レンくん、髪、寝ぐせできてるよ」
と言いながら、気づけば指で整えている。
「やば。これまた発症した。“甘やかし反射”」
そう言って笑いながら、ラテの泡に猫の顔を描く。
指先が器用すぎて、泡の上の猫がこっちを見返してくるみたいだった。
たぶんこの人、楽しそうに見えて本気で器用なタイプだ。
「それにしても、レンくんって、いつも“考えてる顔”してるよね」
「……クセなんです。何も考えないって難しくないですか」
「難しくないよ。慣れだよ、慣れ。じゃあ、バカになる練習しよ」
「は?」
「まず、意味もなく笑う!」
「えっ、いや、いきなり……」
「はい、レンくん、“姉の命令は絶対”の法則、知ってる?」
「そんな法則聞いたことないです」
「じゃあ今日から覚えな~。テストに出るよ。ほら、笑って。にっこり!」
手を伸ばして頬をつつかれた。
反射的に顔をそむけたけど、マコさんは楽しそうに笑っている。
マコさんのこういう距離感の近さは、本当に心臓に悪い。
ミユはもちろん、ハルカならそんな気持ちにはならないが、どうしても異性として意識してしまう。
「ほら~もうダメだ。考えたでしょ?」
「……」
「はいアウト。はいもう一回」
マコさんが両手で“にこーっ”とした顔を作る。
バカバカしい。
けど――それが、救いみたいに見えた。
「……なるほど。“何も求めない笑い”って、強いんですね」
「でしょ? 副作用で幸せになっちゃうやつ」
そのやりとりを、カウンターの奥で見ていたのが店長の高倉シズマ。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、古びた腕時計をいじっている。
年齢不詳。
なのに、存在そのものが“時間”みたいに落ち着いていた。
「人間はね、諦めたように生きて、情熱の残り火で呼吸するんだよ」
「……またその話ですか」
「また、がいいのさ。繰り返しは退屈じゃない、安定だ」
店長はそう言って、カップに砂糖を一つ落とす。
「レン。君は優しいけど、まだ“休み方”を知らない顔をしてる」
「……バレてました?」
「そりゃあ、マコくんの横にいると目立つ」
「店長、褒められてるこれ?」
「もちろん、褒め言葉。うちの店は“居心地の理由”を見抜く場所だ」
その言葉の意味は、まだわからなかった。
けれど、店長の微笑みがなぜか少し、
――寂しく見えた。
閉店後。
街の明かりが遠くに滲む。
マコさんは片付けながら呟いた。
「ねぇレンくん。学校では“煽られっぱなし”なんでしょ?」
「……まぁ、そんな感じです」
「じゃあ、ここでは“笑われっぱなし”でいいじゃん」
「……レンくん、ちょっとだけ顔がマジメすぎるの。人を守る顔じゃなくて、守られたことがない顔してる」
一瞬、空気が止まる。
けれどマコさんはすぐに笑い直した。
「はい、今の忘れて。お姉ちゃん係が勝手に診断しました~。料金はラテ一杯でいいよ」
「安っ」
「レンくん割引♡」
レンは笑った。
たしかに、ここでは“優しさ”も“論理”もいらない。
ただ、コーヒーの香りに包まれて、世界が少しだけ遠くに感じられる。
帰り際、店長が小さく言った。
「君、あのPC買ったら何をするんだい」
「やりたいゲームがあって」
「それだけじゃないね?」
「……作りたいんです。小説でも、音楽でも、ゲームでも、誰かの心を救えるものを」
誰かの人生に、自分が意味を与えられるような、なにかを。
店長は笑って、コーヒーを一口。
「なら、いいね。人間は“言葉を諦めきれない生き物”だから」
ドアの鈴が鳴る。
夜の街に出ると、春の風がまだ冷たい。
けれど――
その冷たさが、不思議と心地よかった。




