2025年のバタフライ
夏の終わりを告げる蝉の声が、校舎の壁に反響していた。プールの水面は夕陽を映し、金色に染まっている。水泳部の三年生は、今日の大会を最後に引退した。歓声と拍手、涙と笑顔が交錯した一日。その余韻が、静かに沈んでいく。
部室の鍵を返しに行った帰り道、その水泳部員は足を止めた。誰もいないはずのプールに、まだ誰かの気配がある。
「……おい、マネージャー」
プールサイドに立つマネージャーが振り返る。夕陽に照らされた髪が、濡れてもいないのに、濡れたように輝いていた。その瞳は、夏の終わりを惜しむように、どこか遠くを見つめていた。
「なに?」
「実は、俺……」
水泳部員は言葉に詰まる。三年間、ずっとそばにいた。練習の記録をつけ、タオルを渡し、タイムを叫んでくれた。彼女の声が、俺の背中を押してくれた。
言えない。言えないまま、今日が来てしまった。
「……なによ」
「実は、その……」
「なによ、はっきり言ってよ」
彼女の瞳が、まっすぐ彼を見ている。逃げられない。けれど、言葉が出ない。水泳部員は衝動的にプールへと走り出し、あろうことか制服のまま飛び込み台からプールへ飛び込んだ。
水面が音を立てて割れる。制服のまま水泳部員沈んだ世界は、静寂に満ちていた。水泳部員は水中で叫ぶ。
「好きだあああ。ずっと好きだったんだああああ」
泡が弾け、声は水に溶けていく。プールサイドには突然の出来事にキョトンとするマネージャー。
水泳部員は、水面から顔を出し、息を整える。そして、彼女に向かってこう叫んだ。
「バ~カ」
その言葉を背に、水泳部員は夕暮れのプールをバタフライで泳ぎ始めた。彼の身体は水面を割って跳ね上がる。両腕が大きく弧を描き、空を掴むように振り下ろされるたび、水が高く舞い上がり、夕陽の光を浴びて金色のしぶきとなって空中に散った。
水面は彼の動きに合わせて波打ち、まるで彼の鼓動に呼応するように揺れる。腕が水をかき分けるたび、柔らかな水が彼の身体を抱きしめるように包み込み、力強いキックが水底から響く。
立ち尽くすマネージャーは、目を離さずにその姿を見つめていた。
「……三年間、ずっと見てたよ。あなたの泳ぎ。あなたの背中。ずっとずっと好きだった」
その言葉は、彼の耳には届かない。
泳ぎ終えた水泳部員がプールから上がると、彼女はタオルを差し出した。水泳部員がいつものように何気なくそれを受け取ろうとした瞬間――
「バカはどっちだ」
――彼女は手にしたタオルで思い切り水泳部員の顔をひっぱたいた。
二人の影が、プールサイドに並んで伸びていく。
水面が二人の、止まった世界で揺れている。