第六話『復讐の娘、カルマの契約』
あの忌まわしい刻印が焼き付けられてから、どれほどの時が経ったのだろう。
私の肉体は、かつての腐り落ちた骸とは違っていた。足には血が通い、皮膚には感覚が戻っていた。だがそれは決して元に戻ったわけではない。無理やり繕われ、繋ぎ合わされた醜い再生だった。見るに堪えない姿だったが、もはや私はそれを恥じる心さえ捨てていた。
ノクトホロウの森は、常に死を孕んでいる。闇が渦巻き、獣も風も息をひそめる森。私はその深奥、黒い棘の枝が幾重にも交差する路を進み、やがて再びあの禍々しい庵へと辿り着いた。
扉がきしみ、私とニールは庵の奥へと導かれる。
そこに、ヴァルセリアはいた。
蝋燭に照らされたその姿は、恐ろしくも美しく、悪夢の女王のようだった。白銀の髪は夜露に濡れた蜘蛛糸のようにきらめき、瞳の奥では深淵が渦巻いていた。肌はまるで血を吸った絹。赤い爪はまるで断罪の鉤。
「もう喋れるかしら? 声帯は丁寧に再生してあげたわ。壊したのは私だけどね」
ヴァルセリアの声は甘く、だがその奥に毒があった。私は頷き、喉の奥からかすれた声を搾り出す。
「……復讐、したいの」
「誰に?」
「……イザベラ、マリーベル、シャルロッテ。あの三姉妹……そして……レオンハルト……王子に……」
その名を口にしたとき、胸の奥で焼け残っていた灰が再び熱を帯びた。
「彼らに、何をされたの?」
魔女の口調は柔らかく、それゆえに残酷だった。
私は語った。屋敷での侮辱、宴の奥での嘲笑、冷たい水牢、腐りゆく足、蛆の這う日々、野犬の牙に晒された夜。そして、彼に言われた。
「君のような女が、僕に触れること自体が汚らわしい」
……レオンハルトの、その言葉を。
語るほどに喉が焼け、胸が裂けるようだった。
それでも、語った。
魔女はしばし沈黙し、微かに嗤った。
「……いいわね。実に濃いカルマ。燃料としては申し分ないわ」
私はその言葉に眉を寄せた。
「でもね、お嬢さん。タダでは復讐なんてさせてあげないわ。ニールと同じ、私の“しもべ”になるの。いいかしら?」
「……はい」
即答だった。命をくれたのは彼女。私には、もはや失うものなどなかった。
「けれど、しもべになるには資格がいるの。あなた、根が弱くて優しいもの。あの水牢で何度も死ねなかったでしょう?」
魔女の言葉が、私の奥底を突き刺した。
「だから、あなたには“試練”が必要なの。今度こそ、自分自身を壊すためのね」
そのとき、ニールが私の横に歩み寄り、静かに言った。
「僕も通った。地獄の一丁目みたいな場所だったよ。君も、きっと壊れて……でも、強くなる」
私は、その言葉に、どこか救いのようなものを感じていた。
強くなる。
弱い私が、あの女たちを焼き尽くすために──
魔女の口角が、ゆっくりと吊り上がる。
「さあ、“復讐の娘”よ。カルマの螺旋を潜る覚悟はできているかしら?」
■
「面白いものを見せてあげるわ」
ヴァルセリアがそう呟いた瞬間、彼女の指先から黒い霧が滲み出し、空間の一部がぐにゃりと歪んだ。
それはまるで水面に垂らした油のように揺らめきながら、やがて楕円形の鏡となって浮かび上がった。黒曜石のように鈍く光る鏡面。その中に、私は見覚えのある庭を見た。
レオンハルト王子の私邸の中庭。
けれど、そこに映るのは夢でも幻でもない“今”だった。
庭の石畳の上、ひとりの若いメイドが膝をついていた。私は息を呑む。年端もいかない少女。その頬には涙と傷跡が混じり、震える指でスカートの裾を握り締めている。
そして、その前に立つ──レオンハルト。
私がかつて愛し、そして地獄へ突き落とされた男は、冷たい笑みを浮かべながら少女の顎を持ち上げていた。
「……君みたいな子、嫌いじゃないよ。けどね、王宮には相応しい“品格”ってものがあるんだ」
彼はそう言い、まるで花弁をちぎるように、彼女の髪を乱雑に引き裂いた。
私は思わず手を伸ばしそうになる。
「また、同じことをしている……」
隣にいたニールがぽつりと呟いた。
「……馬鹿だね、あの王子は。何も変わってない」
映像は場面を変える。
今度は屋敷の地下。そこにいたのは三姉妹──イザベラ、マリーベル、シャルロッテ。
彼女たちは、以前のように美しいドレスを纏いながら、新たなメイドに“遊び”を強いていた。
イザベラは細い針を手に、少女の指に丁寧に突き立てている。マリーベルは熱した金属棒を掲げ、笑いながら皮膚をなぞる。シャルロッテは水槽の蓋を開け、そこに顔を押し込ませていた。
「……ほら、がんばって息止めなきゃ。私たちの“優しさ”に応えてよ?」
笑い声が響いた。
私は目を背けたかった。だが、見続けるしかなかった。
ヴァルセリアが言う。
「これは“過去”じゃないわ。“今”の映像。あの鏡は、世界の裏側を映すの」
私は、かつての自分と同じように苦しむメイドたちの姿に、胸が裂けそうになった。
「でも、それだけじゃないのよ。あなたが他に復讐したい相手、忘れていない?」
鏡がまた歪み、別の光景が映し出された。
厨房の従者たち。私の皿にわざと腐った肉を乗せて笑っていたあの男。
洗濯場の女中たち。私の下着を切り刻んで嘲笑していた彼女たち。
警備兵たち。私が水牢に閉じ込められていた時、何度も「騒ぐと処刑されるぞ」と脅し、石を投げて笑っていた者たち。
「なんだよ、あいつ。マジで王子に恋してたのかよ」
「ただのメイドのくせに、身分も弁えずにさ」
「次はあの新入りだな。泣き顔がちょうど良さそうだ」
彼らの声が、私の鼓膜を焼いた。体の奥から、黒い怒りが沸き上がる。
「……こいつらも……私を……」
声が震える。
ヴァルセリアがにやりと笑う。
「そう。あなたを傷つけたのは、あの“貴族”たちだけじゃない。使用人も、衛兵も、従者も──あの屋敷すべてが、あなたの地獄だったのよ」
私は拳を握りしめる。
頬が熱い。唇が裂けそうだ。歯が軋む。
「……私、全部……焼き払いたい……」
「その言葉を、待っていたわ」
ヴァルセリアの瞳が紅く煌めいた。
「さあ、“復讐の炎”を灯す準備は整ったわ。あとはあなた次第──どこまで、堕ちられるか」
「ねぇ、本当にご主人様って、悪い方よねぇ……」
ニールがぽつりと呟いた。その声音はどこか嬉しげで、しかし陰のある笑みを帯びていた。赤黒い灯籠に照らされた彼の顔は、まるで人形のように無垢で、それゆえに恐ろしく映った。
ヴァルセリアは、背後でゆっくりと椅子に腰を下ろしていた。彼女の頬にはうっすらと紅が差し、細く吊り上がった目の奥には、ぞっとするような光が宿っていた。その姿はまさに、悪魔に魂を売った貴婦人のようだった。
私は声を失ったまま、“鏡”の映像に釘付けになっていた。
王子──レオンハルトは、新しいメイドにあの頃と同じ甘い言葉をささやいていた。
「君は特別だよ」
「一緒に逃げようか」
そう囁きながら、彼は彼女の手を取り、闇へと導いた。そして、数日後にはもう姿を消していたメイドの代わりに、また新しい娘が雇われていた。
同じだった。私の時と、すべてが。
映像が変わり、今度は三姉妹の姿が映し出された。
シャルロッテは笑いながら、メイドの背中を鞭で裂き、皮膚を赤く腫れ上がらせていた。マリーベルはその隣で、針金の輪に小さな鈴を幾重にも編み込み、苦痛の音楽を奏でる器具を組み立てていた。
イザベラは座ったまま、葡萄酒を飲みながら、その光景を「芸術」と呼んで笑っていた。
その地獄は、過去の記憶ではない。
“今”だった。
そして、鏡の中に新たな顔が映し出された。私をあざ笑い、石を投げた庭師たち。衛兵たちは、あの日のように私の髪をつかんで引きずり、罵声を浴びせていた。
「こんな化け物と寝てたのかよ、最悪だな……」
「ほら、次のメイドもどうせそうなるんだろ?」
口の中が苦くなった。胃の奥が裏返りそうなほどの怒りと屈辱が、再び胸に湧き上がる。
「もっと御馳走にしないとね」
ヴァルセリアが、艶やかに呟いた。
「……御馳走?」
私の声は擦れ、喉の奥が焼けるようだった。
「そう、あなたの“ヘイト”。憎しみというのは、熟成させればさせるほど、濃く、芳醇な魔力になるの。だからね、私たちはこうして少しずつ、あなたの感情を育てているのよ。ふふ、まるでワイン造りのように」
その言葉に、背筋が凍った。
地獄は、私のために“用意された”ものだった。
「……嘘よ……こんなの……」
「ご主人様はいつもこうやって“育てる”んだ」
ニールが私の手を取る。冷たい、でもどこか懐かしい温もりがそこにはあった。
「これは“試練”だよ。お前が本当に、ご主人様のしもべとしての器かどうか──それを見極める試練」
試練。
その言葉を聞いて、私は悟った。
これは逃げるものではない。向き合うべき“選択”なのだ。
私は、優しかった。
だから、誰も救えなかった。
だったら──この身を、呪いの業火に投じてもかまわない。
「……やります。私は、しもべになります。どんな苦しみでも、呪いでも……復讐のためなら」
ヴァルセリアの唇が、ゆっくりと吊り上がる。
「いい子ね。さぁ、それじゃあ次は……もっと“スパイシー”なものを見せてもらおうかしら」
部屋の空気が一瞬で凍りついたように冷え込む。
私は震えながらも、目を逸らさなかった。
その先にある地獄が、どれほど凄惨でも。
復讐は、まだ始まったばかりなのだから。
ニールは微笑みながら、そっと私の手を取った。
その手は冷たく、それでいて奇妙なほどに安心を誘った。
「さぁ、行こう。地獄の試練へ……」