第五話『魔女の館と再生の儀』
ノクトホロウ──その森の名は、古の文献にも滅多に記されない。
月明かりも届かぬほどに鬱蒼と茂る黒樹の森。入り込めば帰れない、死者の囁きが風に乗る、と言い伝えられている。
その森の奥深く、枯れた黒樫の巨木をくり抜いたような異形の館に、魔女は棲んでいた。
ヴァルセリア=グレイム。
数百年を生きる不老の魔女。白磁の肌に黒檀のような長髪、紅玉のような瞳を持ち、薄衣のローブを纏ったその姿は、美しさと不気味さが表裏一体となっていた。
その館の周囲には、ねじれた根が地面を這い、異形の動植物が蠢いている。枝には光の届かぬ果実が実り、地を這う霧は吐息のように冷たい。
彼女の足元には、つぎはぎだらけの使い魔が控えていた。
名はニール=スティッチ。
子どものような姿だが、目は無垢と狂気の両方を湛え、所々縫合された皮膚がのぞく身体は、人形のようでもあり、死体の集合体のようでもあった。
「お持ちしました、ご主人様ぁ」
ニールが引きずってきたのは、血と泥と腐臭にまみれた“死体”だった。
……いいえ、かろうじて、生きている。
それは、他でもない私。
腐った足、膿んだ傷口、潰れた片目。まさに虫の息。
けれど、魔女はその目で、私の奥底にある“澱み”を見抜いた。
「……美しいほどの絶望」
彼女はそう呟き、私の顔の近くまでしゃがみ込んできた。
「おまえ……自分を捨てたいか、それともすべてを焼き尽くしたいか」
その問いかけに、私は震える唇で、わずかに動かした。
——焼き尽くしたい。
その答えに、彼女はゆっくりと唇を綻ばせた。
「ならば契約成立ね」
ヴァルセリアは立ち上がると、館の奥へ命じた。
「儀式の用意を。……上等な“紅い雫”を」
ニールは不気味に笑い、ぴょんと跳ねるようにして闇へと消えた。
夜の帳が下りた頃、ノクトホロウの森はいつにも増して静まり返っていた。闇に沈む木々はざわめきすらなく、森に生きる獣たちでさえ、その気配をひそめていた。
その静寂を、ひとつの足音が裂いていく。
ぬるり、ぬるり。
濡れた布が引きずられるような音とともに、異形の使い魔──ニール=スティッチが森を進んでいた。
小さな体。つぎはぎだらけの皮膚。糸のように細く縫われた口元が、ひどく楽しげに吊り上がっていた。
「ご主人様に頼まれちゃあ、仕方ないよねぇ」
その腕の中に抱かれていたのは、まだ産声も新しい赤子だった。
白い布にくるまれたその小さな命は、かすかに身を震わせるだけで、声を上げることさえなかった。
眠っているのではない。恐怖と寒さ、そして魂の底に染み込んだ“魔の気配”に、泣くことすら忘れてしまったのだ。
「こんなに綺麗な“赤い雫”……きっと、ご主人様、喜ぶぞぉ」
ニールは、墓場を抜け、黒樫の門の前に立つ。
月明かりも差さぬその扉は、ただ冷たく彼らを迎え入れる。
キィ……。
軋む音とともに、扉が開いた。
館の奥では、ヴァルセリア=グレイムが静かに待っていた。
魔女の紅玉の瞳が、赤子へと向けられる。
「間に合ったわね。腐りきる前の“純血”……これ以上ないほど新鮮な供物」
ヴァルセリアは赤子を腕に抱くと、その温もりを確かめるように目を細めた。
「この子の命と、あの娘の憎悪。その二つが交わるとき、私の命脈はさらに満ちる」
彼女は優しく、赤子の頬をなぞる。だがその手は、冷たく、濁った呪詛に満ちていた。
「さあ、儀式を始めましょう」
赤子がわずかに声を上げた。
その泣き声が、森の奥へと吸い込まれていった。
やがて、その声は消えた。
ただ、館の中に、血と魔法の匂いだけが、濃く濃く立ち込めていった。
その夜、館の地下、黒い祭壇にて儀式は始まった。
幾重にも描かれた魔法陣。赤黒く染まった聖布。
棚に並ぶ瓶には、色も粘度も異なる赤い液体が詰められていた。
その中から、ヴァルセリアは一本を選び、古びた刃で栓を外す。
立ち昇る香りは、甘く、どこか生温かい鉄の匂いを孕んでいた。
私は地に伏せ、目だけをわずかに動かして、その儀式を見ていた。
いや、見させられていた。
「これが、おまえを再び歩かせるための糧よ。……捧げられた、命の滴」
その言葉の意味を、私は明確には理解できなかった。
だがその“液体”が、常識ではありえない代償で得られたものだと、本能で悟っていた。
彼女はそれを、躊躇なく私の口元へと傾けた。
ごぼ、ごぼ、と喉奥に流し込まれる。異様な粘りと重さ。そして次の瞬間——
全身が燃え上がった。
焼け爛れた皮膚の内側から、何かが蠢く。膿の膜が裂け、新たな肌が這い出す。
足の肉が剥がれ、骨が露わになり、ひとりでに再構築されていく。
痛い、痛い、痛い。痛みが、私を貫き、切り刻み、再構築する。
私は悲鳴すら上げられず、口から泡を吹いた。
ニールがくつくつと笑いながら呟いた。
「カルマってのは、えげつねぇくらい甘露だよな。これだけ溜め込んでりゃ、ご主人様も満腹だ」
どれほどの時が流れたのか、私は知らない。
けれど、やがて全てが静かになり、赤い魔法陣だけが淡く脈打っていた。
ヴァルセリアの声が、闇の中で響いた。
「目を開けなさい。地獄から蘇った復讐者……。今やおまえは、呪われた森の寵児」
私は、目を開いた。
そこにあったのは、痛みでも苦しみでもない。
燃え尽きた感情の残骸の中に、ひとつだけ残ったもの——
……復讐への飢えだった。
私はまだ、再生の儀式の痛みと熱の残響を身体の奥に感じていた。ノクトホロウの森の夜は、まるで時間すら凍りついたかのように静まり返っていた。外に広がる黒樹の海は、風がないのにざわざわと囁き、死者の呻きにも似た声を奏でていた。
館の一室、小さな暖炉の前に置かれた歪んだ肘掛け椅子。その傍らで、つぎはぎだらけの使い魔――ニール=スティッチが、火の揺らめきを眺めながら、くすくすと不気味に笑った。
「なあ、お前……ご主人様のこと、どれくらい知ってる?」
私はぎくりと肩をすくめる。まだ再生されたばかりの私は、この森の主のことを何も知らなかった。
「知らねぇよな。そうだろうと思ったよ。拾われたばかりの“新しい玩具”だもんな」
無邪気な声にひそむ毒気。ニールの笑顔は、まるで腐肉に群がるハエのようだった。
「ヴァルセリア様はな、この世界で“災厄そのもの”って呼ばれてるんだぜ」
私は思わず彼の顔を見る。だがニールは、なおもにこやかに続ける。
「赤子の血と、処女の涙。あの人は、それが大好物でね。それを喰らうたびに、魔力はとんでもねえほど膨れあがる。さっき儀式で使った“紅い雫”、あれも……まあ、そういうこった」
ぞくり、と背中に氷が這ったような感覚が走った。わかっていた。匂いで、質感で、あれが“普通”のものじゃなかったことくらい。
「でも、それだけじゃねえんだ。昔、ヴァルセリア様を討つために王様が討伐部隊を送ったことがあるんだよ。聖騎士団も、宮廷魔導師も、全部引き連れてさ。豪華なメンツだった」
彼の目が、暖炉の火のように揺らめいた。
「だけど、一晩で全滅。森に入った奴は、骨の一片も残らなかった。魔力で焼かれたのか、喰われたのか……まあ、どっちでもいいか」
「……王は?」
私は息をのむように訊いた。
「呪われたよ。呪われて、苦しみながら死んだ。内臓を逆流させて、笑いながら吐血して。『魔女の呪いは時を選ばず』って、そのときの王族が言い残したんだとさ。今でも王家じゃ禁句だって噂だよ」
ニールの表情が、一瞬だけ真顔になった。
「だから誰も、あの人には手出しできねぇ。国も、教会も、神の代行者すらも。彼女はこの世界の“外側”にいる。法も理も届かない、ただの“災い”なんだ」
私は言葉を失った。
再生を与えられた身でありながら、その再生の代償が、どれほど重く忌まわしいものだったのかを今さらながら知った。
「……じゃあ、なぜ、私を助けたの?」
ようやく絞り出した声に、ニールはまたあの、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「簡単な話だよ。お前の中のヘイト、つまり“憎しみ”が、めちゃくちゃ上質だったからさ。復讐で誰かを焼き尽くせば、その“カルマ”はヴァルセリア様の命の糧になる。つまり、お前の怒りはごちそうってこと」
炎がぱち、と爆ぜた。
私は黙って、炎のゆらめきに映る自分の影を見つめた。
この命はもう、ただの命じゃない。
災厄の森に拾われ、災いを育む“器”として蘇ったのだ。
ならば私がすべきことは、ひとつしかない。
焼き尽くす。全てを。私を穢し、見下し、奪った者たちを。
その先にある“災厄”の深淵を、私は恐れなかった。
――むしろ、その腕の中に飛び込む覚悟を、今こそ抱いていた。