第二十二話『血の忠誠試練』
明け方近く、王宮の長い廊下を踏みしめる低く重い足音が響き渡った。夜と朝の境目、薄明の光が高窓から差し込み、石壁と赤い絨毯に淡い色を落としている。その中を、巨躯の影が静かに近づいてきた。
重い扉が軋む音を立てて開き、ゴリアテが姿を現す。肩から下げたずた袋は不規則に揺れ、鎧のあちこちには暗赤色の返り血がまだ生温かくこびりついていた。血と金属の匂いが室内に流れ込み、冷えた空気を一層鋭くする。
私はその姿を上から下まで一瞥し、感情を表に出さず静かに言葉を落とした。
「……御苦労」
ゴリアテは何も答えず、入口に立ち尽くす。肩の袋が小刻みに動き、中からはかすかな息遣いと微かな鳴き声が漏れた。その音は、静まり返った室内でやけに鮮明に響く。
窓辺で月明かりを背にしていた黒猫ニールが、ゆっくりと振り返り、金色の瞳を細める。
「……こいつは、もう仲間だ」
その声と同時に、黒猫の体が淡い影に包まれ、骨と肉がひねり合わさるような不気味な音を立てる。やがて現れたのは、縫い合わされた少年の本来の姿。つぎはぎだらけの皮膚と、異様に整った瞳が、薄明の中で妖しく光を放っていた。
ゴリアテはその変貌を見ても、眉ひとつ動かさない。ただ静かに袋を足元に下ろし、無言のまま私を見据える。その瞳には感情の色がなく、ただ次の命令を待つ忠誠の影だけが宿っていた。
朝靄が薄く漂う窓辺から、冷えた空気がゆっくりと室内へ流れ込んでいた。厚手のカーテン越しに差し込む淡い光が、食卓の銀盆や椅子の背を柔らかく照らしている。私はその一つに腰を下ろし、背筋を正したまま傍らを見やる。そこには、つぎはぎだらけの少年――使い魔の本来の姿に戻ったニールが、静かに腰掛けていた。
「新鮮な血が飲みたい……どうせなら朝食にいただくのはいかがです?」
縫い目の走る口元が、不気味な弧を描く。その囁きは、朝の静けさを濁すように耳へと滑り込む。私は声を返さず、瞳だけで応えた。昨夜、ゴリアテが持ち帰った袋から漏れていた泣き声は、いつのまにか途絶えている。
やがて銀盆の上に、透明なグラスが三つ並べられた。中には濃く赤い液体が満ち、湯気が立ち上り、鉄の匂いが微かに鼻腔を刺す。ゴリアテも席に着き、分厚い指で無言のまま一つを掴み上げた。その巨躯から放たれる冷ややかな気配が、朝の空気に影を落とす。
彼が一口、喉へと流し込んだ瞬間――その瞳の奥に何かが沈み、私は悟った。自分がそうであったように、今この瞬間から彼ももう人ではない。
私もグラスを取り、縁を唇に触れさせる。まだ生暖かい感触が舌に絡み、喉を伝うと、全身に熱と力が満ちていく。胸奥の黒紋が静かに脈打ち、血と魔力が絡み合って広がっていくのが分かった。
──魔女が血を求める理由。
それは知識ではなく、こうして飲んだ瞬間に骨の芯まで届く、抗いがたい実感だった。視界の端で、ニールが縫い合わされた顔に人間じみた笑みを浮かべ、こちらを見つめている。
私はグラスの中の赤を揺らしながら、ふと考える。次は……カルマやヘイトすらも、この手で求めるようになるのだろうか、と。朝の光を受けて揺れる赤が、妖しくきらめいた。
かつて私は、拷問の果てに瀕死となり、冷たく湿った石の床に横たわっていた。石肌は骨身にまで冷えを送り込み、血の匂いと錆びた鎖の匂いが鼻を刺す。全身から熱が逃げ、視界は薄闇に溶けていき、音も色も遠のいていく。その中で、縫い合わされた少年の姿をしたニールが、静かに私を抱き上げた。継ぎ接ぎの肌の感触は冷たかったが、その奥に確かに存在する温もりを、不思議なほどはっきりと覚えている。
あの日、運ばれた先にあったのは、深い霧に包まれたノクトホロウの森。そこで待っていたのはヴァルセリア――数百年を生きる大魔女だった。琥珀色の瞳で私を射抜き、五つの試練を課すと告げた。屍語の儀式、血溜めの沐浴、使い魔との共喰い、絶叫の反響壺、カルマの魔紋刻印……人としての形と温もりを削ぎ落とし、別の存在へと作り変える儀式。その全てを私は受け入れ、もはや人ではなくなった。今や私は、人を超える存在の魔女だ。
けれど今朝、赤いグラスの中で揺れる液体を見つめながら、ふと胸の奥にざらついた思いが広がった。向かいの席に座るゴリアテの鎧には、まだ暗く乾ききらない返り血がこびりついている。あれは、私が依頼した“物”を得るためについたものだ。
敢えて問うことはしない。だが、その血の持ち主が依頼物の家族であることはほぼ確かだ。彼らは理不尽に奪われ、憎しみを抱えたまま死んだに違いない。もしそうなら――彼らの恨みは、間違いなく依頼した私に向かうだろう。
それは、かつて家族を奪われ、理不尽に魔女への道を歩んだ私と、一体何が違うのだろうか。
グラスの中の赤を揺らしながら思考を巡らせていると、傍らのニールが縫い目の口元をわずかに歪め、低く言った。
「ご主人様、因果のことを考えてもきりがないですよ。理屈で割り切れないからこそ、人は悩み苦しむのです。……なーに、もうじきその感傷もなくなりますから」
その言葉に私は目を細めたが、返す言葉は見つからなかった。復讐の刃を握りしめていても、この悲劇の連鎖を断ち切る術は、今の私には見えてこない。ただ、全ての復讐を果たしたその時――何か答えが、血の渇きを鎮めるように静かに見えてくるのかもしれないと、自分に言い聞かせるしかなかった。
翌日の昼過ぎ。窓から射し込む陽光が絨毯の模様を淡く照らし、静かな室内に時間の緩やかな流れを感じさせていた。私は肘掛け椅子に腰掛け、分厚い本をめくっていたが、扉をノックする軽やかな音に顔を上げる。
淡い緑色の制服を着た女官が入室し、背筋を伸ばして深く一礼する。その表情には緊張の影があった。
「エミリア様、国王陛下がお呼びでございます」
ページを閉じる音がやけに大きく響く。私は膝の上の黒猫ニールを軽く撫で、静かに立ち上がった。傍らに控える巨躯のゴリアテが無言で歩みを合わせる。
王の私室への廊下は長く、赤い絨毯が足音を吸い込む。重厚な扉がゆっくり開かれると、深い青の外套を纏った王が執務机から顔を上げた。温和さを帯びた瞳の奥に、測るような光が一瞬きらめく。
「来たな、エミリア。……正式に、隣国との婚姻話が決まった」
その声は静かだが、部屋の空気をわずかに張り詰めさせる力を持っていた。
「心変わりはないな、王女」
私は柔らかな笑みを浮かべ、ゆったりと頷く。
「勿論です、王様……いえ、父上様。自分から言い出したことですもの」
わざと少し首を傾げ、言葉を続ける。
「ただ、相手の王子様や隣国のことがよく分からないので、教えてくださいまし」
王は短く笑みを見せ、深い声で語り出す。
「隣国ヴァルデンシュタインの王族だが……第一王子フリードリヒ殿下は皇位継承権第一位、聡明で冷静な若者だ。第三王子については……まあ、君が会う機会は少ないだろう。王妃は病床で自愛していると聞いておる。まぁ、おいおい分かることだと思う」
「第二王子は……?」
問いに、王はわずかに目を伏せた。
「若い頃に病死したと聞いておる」
「……亡くなられたのですか」
その答えに、胸の奥で冷たい閃光が走る。脳裏に新たな策略の糸が素早く編まれていくのを感じた。
「出立は来週だ。準備を整えておくように」
深く一礼し、私は王の視線を背に受けながら部屋を後にする。背後でゴリアテは無言、腕の中のニールは金色の瞳を細め、尻尾をゆったりと揺らしていた。
王女の自室へ戻る回廊は、夕暮れの光を失いかけた燭火に照らされ、長く伸びる影が足元に絡みつく。私の背後で控えていたニールが、ふと口を開いた。
金色の瞳がわずかに細まり、その声には愉快さと冷ややかさが入り混じる。横目で続きを促すと、ニールは昨夜の出来事を語り出した。
――命令を受けたゴリアテは、一切のためらいを見せず夜の街へ踏み出した。月光が石畳を銀色に染め、鎧の縁に淡く光を宿す。音もなく進む巨躯の足取りは、獲物を追う獣のように迷いがない。辿り着いたのは、小さな庭と低い屋根を持つ質素な木造の家だった。
扉が開かれるや否や、室内の空気が凍りつく。赤子を抱く母の瞳が恐怖に見開かれ、父が慌てて立ちはだかる。その瞬間、ゴリアテは言葉を発することなく、その腕を掴み、骨が軋む音と共に一息で沈めた。母の喉から絞り出された叫びは、無骨な掌で押し殺され、途切れる。
静寂の中、赤子だけを抱き上げると、彼は迷いなく背を向けた。背後には、温もりを失った二つの影が、薄暗い部屋に横たわっている。
外へ出ると、夜風が血と鉄の匂いを運び、鎧の隙間をすり抜ける。ゴリアテは歩きながら、低く、誰に向けるでもなく呟いたという。
「……この血は、姫の糧になる」
ニールは語り終えると、縫い合わされた口元に不気味な笑みを浮かべ、私を見上げた。
自室へ戻る回廊は、燭火のゆらめきが壁に長く影を伸ばし、微かな蝋の香りが漂っていた。私の靴音に重なるように、背後から軽やかな足取りがついてくる。ニールだ。
「ご主人様」
少し間を置いて、彼が声を落とす。
「あの仏頂面……意外と冷酷で、使えますよ」
振り返らずに歩みを進めながら、私はわずかに眉を動かす。視線だけを横に送り、続きを促した。
私が、なかなか興味を示さないので大袈裟に話興味をひこうとするニール。
「昨夜、見てたんですよ。ゴリアテが依頼を果たすところを。躊躇なんて一切なし。相手が悲鳴を上げても、何事もなかったみたいに処理して……いやあ、なかなか見事な手際でした」
その口調には、どこか自分の功績を報告するような誇らしさが混ざっている。――きっと、あの晩ニールはゴリアテの後をつけていたのだろう。裏切る可能性を危惧し、その忠誠を確かめるために。
私は胸の奥に沈んでいく感覚を覚えた。使えるか否かは、自分で判断する。正直、今は聞きたくなかった話だ。
「……ありがとう、ニール」
短くそう告げると、彼は一瞬瞬きをして、縫い目の口元をわずかに歪めた。
「え? それだけですか? せっかくの特ダネだと思ったのに」
肩を落とし、小さくため息をつく。その仕草は妙に人間臭くて、私はふっと笑みをこぼした。
「大丈夫だよ。あのゴリアテには、もっと働いてもらわないとね」
その一言に、ニールの金色の瞳が楽しげに細まる。
縫い合わされた口元がにやりと持ち上がり、低く答えた。
「そうこなくっちゃ、ご主人様」




