第二十話『王への芝居、婚姻の罠』
夕刻、城の廊下は深い橙色の光に染まり、外の空がゆっくりと夜へと傾きつつあった。私は腕に黒猫のニールを抱き、その柔らかな毛並みを撫でながら歩を進める。背後には王女近衛のゴリアテが無言で従い、その大きな足音が静寂を破る低い響きとなって耳に残る。
足元を覆う赤い絨毯は厚く柔らかく、踏みしめるたびに沈む感触が心地よい。壁際には金の燭台が等間隔に立ち、ゆらめく炎が廊下に温かな光と影を描き出していた。その上には、歴代の王たちの重々しい肖像画が並び、まるで無言の監視者のように私たちを見下ろしている。
王の私室前にたどり着き、私は一度足を止めた。ニールの体温を胸元に感じながら深く息を吸い、木製の重厚な扉に指先を触れる。心の奥で冷たい決意を固め、軽く拳で扉をノックした。
ほどなくして扉がわずかに開き、頬を紅潮させた若い娘――大臣の娘が姿を現した。胸元は乱れ、目を合わせることなく、香水と熱気の混じった空気をまとって私の横を通り過ぎる。その吐息の残り香が、廊下の冷たい空気に溶けていった。
私はその背を冷ややかに見送り、心中で低く呟く。
(……どこの国の男も同じ。位が高ければ高いほど、女遊びに溺れる)
開いた扉の奥からは、まだ甘く生温い空気が流れ出してきていた。
奥から低くもよく通る声が響いた。
「入れ」
その一言で、私は心の奥底に鋼のような決意を固めた。これから対面するのは、この国の頂点に立つ男――ヴァロワ王国国王、レオポルト三世。私にとっては“父”であり、同時に利用すべき相手でもある。
取っ手に手をかける前、胸の奥で静かに息を整えた。従順な王女を演じるため、感情の仮面を素早く被る。外の冷たい空気を断ち切るように、重厚な扉を押し開けると、暖かな空気が頬を撫で、蝋燭の甘い香りが鼻をかすめた。
背筋をまっすぐに伸ばし、歩幅を小さく、足音を絨毯に吸い込ませるよう進む。腕には黒猫ニールを抱き、その柔らかな毛並みに指先を沈めて震えを隠す。わざと一度、長く瞬きをして涙を目尻に浮かべ、口元をきゅっと結び、今にも泣き出しそうな表情を作り上げた。
玉座代わりの高い椅子に腰掛けるレオポルト三世は、厳格さの中に父としての温もりを含んだ声で問いかける。
「どうした、エミリア。泣きそうな顔をしている」
その真っ直ぐな視線を受け、私は深く頭を垂れた。胸の奥では冷徹な計算が静かに燃えているのを感じながら、唇からか細い震え声を零した。
私はヴァロワ王、レオポルト三世の琥珀色の瞳を見据えた。そこには王としての揺るぎない権威と、底知れぬ思惑が静かに潜んでいる。室内の空気は重く張り詰め、燭台の炎がわずかに揺れて私の影を長く壁に伸ばした。
「……昨夜、私の部屋に……」
言葉を紡ぐ声は、わざと細く震わせた。口にするたび、息が詰まるように間を置き、その度に肩を小さく震わせる。内心では(狸目め……百も承知のくせに)と冷笑しながらも、表情は儚げに作り、怯えをたっぷりと滲ませる。目元には涙をじわじわと溜め、視線を逸らさず、王の注意を引きつけたまま、昨夜の侵入者の影や、扉を押し開けられた恐怖、部屋を踏みにじられた屈辱を一つひとつ、娘らしい震えた声で語った。
「お父様……今まで、わがままばかり言って……ごめんなさい」
袖で目元をそっと拭い、俯いたまま告げると、レオポルト三世は一瞬だけ眉を動かし、深く息を吐いた。
「……よい。今日はその件は忘れよ」
その声音は優しさを装っていたが、瞳の奥には私を値踏みする光が宿っていた。興味と警戒がないまぜになった眼差し――まるで、次の一手を見極めようとする獣のように。
私は一度深く息を吸い、胸の鼓動を静める。室内には金の燭台の炎が揺れ、赤い絨毯の上に影を長く落としていた。
「……今日は、昨晩の件とは別に、お父様にお願いがございます」
レオポルト三世の眉がわずかに動き、その琥珀色の瞳が私を射抜く。私はその視線を正面から受け止め、呼吸を整えてから、しとやかに言葉を紡いだ。
「そろそろ私も年頃ですので……お父様の望むところへ、嫁ぎとうございます」
その瞬間、王の瞳が微かに輝きを帯びた。権力者特有の計算と、手駒が増えることへの愉悦が入り混じった光。その変化を見逃さず、私はさらに追い打ちをかける。
「……もう、女性はこりごりなんです。あんなことがあって……」
声をわずかに震わせ、昨夜の恐怖が未だ胸を締め付けているかのように装う。レオポルト三世は椅子の背にもたれ、すっかり私の言葉を信じ込んだように低く呟いた。
「誠に申すのだな、エミリア……あとは父に任せよ。縁談があれば、お前に聞くからな」
私は深く一礼し、視線を床に落としたまま、唇の端をわずかに吊り上げた。表向きの涙の奥で、冷ややかな計算が静かに渦を巻いていた。
「ありがとう、お父様……いいえ、陛下」
私は柔らかな微笑を湛え、玉座に座るレオポルト三世の手をそっと取り、唇を触れさせた。金の指輪の冷たさと、王の肌の温もりが一瞬だけ混ざり合う。その余韻を残したまま、私は長い裾を優雅に引きずり、静かに立ち上がった。
退室のため扉へと歩を進めたその時、低い声が背中を打った。
「……その後ろについている黒猫は、何だ?」
足を止め、振り返る。腕の中で黒猫ニールが琥珀色の瞳を細め、私を見上げている。私は作り物のように整った笑みを浮かべ、柔らかな声で答えた。
「寂しいので飼っておりますの」
レオポルト三世は小さく鼻で笑い、手首を軽く振って下がれと示した。その合図に一礼し、私はニールを抱き直す。毛並みの柔らかさが腕に心地よく伝わるが、その奥には鋭く研ぎ澄まされた意志が潜んでいる。背後には、無言の影のようにゴリアテが続いていた。
重厚な扉が静かに閉まる音が廊下に響いた瞬間、私の笑みは跡形もなく消えた。瞳には冷ややかな光が宿り、胸の奥底では、次なる一手の策が音もなく組み上がっていく――。
王の間に漂っていた甘いぬくもりは途切れ、空気は一転して冷えた緊張に満たされる。
赤い絨毯が遠くまでまっすぐに伸び、金の燭台が等間隔に並んで壁を照らしている。蝋燭の炎が小さく揺れ、歴代王の肖像画が壁に影を落とす。その影はまるで、生者を無言で見下ろす亡霊のようだった。
私は腕の中の黒猫・ニールの柔らかな毛並みに指を滑らせ、唇をわずかに動かす。
「……これからが本当の戦いだわよ」
ニールは猫の姿を保ったまま、琥珀色の瞳を細めて囁き返す。
「分かってますよ、ご主人」
その声はゴリアテにも届いてるはず……でも、この男は知っている危険を察知して生きて行くことを……私の胸奥には、鋭く確かに刻まれる。
背後には、王女近衛の巨躯・ゴリアテが黙して従っている。その歩幅は一定で、常に私の半歩後ろを保ち続ける。鎧の継ぎ目がかすかに擦れる音だけが、冷えた廊下に低く長くこだましていた。
私はふと歩みを止めた。赤い絨毯の上で、足音が吸い込まれるように途絶える。
背後でゴリアテも立ち止まり、その巨躯が私を見下ろす。無表情な仏頂面は微動だにせず、ただその瞳だけがわずかに揺れていた。彼は、私の次の言葉を待っている。
「……次に命じるまで、王女の影として、私から離れるな」
低く抑えた声が、燭台の炎を揺らし、廊下に微かな震えを伝える。
ゴリアテは一度だけ瞬きをし、片言で応えた。
「……護る」
その一言に、廊下の空気がさらに冷たく張り詰めた。
私の左眼が一瞬だけ淡く光る。視界の奥で、彼の瞳の奥底に渦巻く影が形を変え、黒い契りの印となって沈んでいく。それは、彼の魂に刻まれる不可逆の忠誠の証。
そして私は気づいていた。ゴリアテは、先ほど私が黒猫ニールと話していたことも、意にも介していなかった。きっと彼は、私の中身を見抜いているのだろう――その冷徹な瞳が、すべてを物語っていた。
鎧の継ぎ目が微かに鳴る。ゴリアテは無言のまま、私の半歩後ろへと戻る。その巨影は、もはや私の意志と切り離せぬ“影”そのものとなっていた。




