第十三話『魔女のお使い』
魔女の館に足を踏み入れてから、気がつけば半年が過ぎていた。初めはすべてが異様で、息を吸うたびに薬草と血の混じった匂いが喉を刺し、夜ごと廊下に響く呪文の低い声が心臓を締めつけた。けれど今は、その全てが肌に、骨に、そして心にまで染み込んでいる。指先は灰と鉄錆のざらつきを覚え、闇の中でも光を探す癖が身についた。
その日、ヴァルセリアは黒革の椅子に深く腰を下ろし、黒曜石のような瞳を細めて私を見据えた。
「……確か、お前の復讐相手に“従者”の男がいたな」
胸の奥で鈍い音が響く。忘れたくても忘れられない顔が浮かぶ。あの夜、私を弄び、笑い、壊した男。侯爵家の三姉妹に尻尾を振り、生き延びた卑劣な従者。
「……いた」
声は砂を噛むように乾ききっていた。
ヴァルセリアの唇が冷たく吊り上がる。
「そいつに、新しい赤子が産まれたそうだ」
心臓が一瞬強く跳ね、冷たい波が背筋を駆け上がる。言葉の意味はすぐに理解できた。
「最近、ご無沙汰だろう」
ヴァルセリアは身を乗り出し、炎の揺らめきの中で囁くように言った。
「使い魔と一緒に、さらってこい」
その言葉は胸の奥でじゅっと音を立て、静かに燃え広がった。驚きも躊躇もない。ただ、濃い闇色の悦びが全身を満たしていく。
「……私にやらせるの?」
ヴァルセリアは頷き、黒髪がランタンの赤い光を反射して揺れた。
「お前の力を試す。修行でもあり……愉しみでもある」
背後で聞いていたニールが、つぎはぎの顔に笑みを浮かべる。
「いいじゃないか、セリーヌ。赤子を抱えて帰るなんて、最高の初仕事だ」
私はゆっくりと息を吐き、頷いた。胸の奥で、復讐という言葉が冷たく甘く転がり、舌の上でゆっくり溶けていく。今度は私が奪う番だ。
魔女に頼まれた、初めてのお使い――。
その言葉だけを聞けば、どこか微笑ましい響きがある。だが、実際に告げられた内容は、人道から外れた背徳の任務だった。館を出る前から、胃の奥に重たい氷の塊を抱えているように冷え切っていた。胸の奥で同じ問いが何度も反響する――私に、本当に出来るのか。
「俺もついていくから」
隣を歩くニールが、何気ない口調で言った。だが、その次に口からこぼれた言葉は、私の肩をさらに重くする。
「ただし、やるのはセリーヌだ。俺は近くで見てるだけだ」
侯爵家のほど近くにある従者の家へ向かう道は、夕焼けの名残がすっかり消え、群青色の夜が街を包み始めていた。石畳を踏みしめる足音が、早まった鼓動と重なって耳の奥に響く。足は重いのに、進むべき方向だけは妙に鮮明だった。
従者が家を空ける時間を狙う。それは何度も心の中で反芻してきた計画だ。やがて辿り着いた従者の家は、侯爵家の影のように堂々とした威圧感を放ち、夜闇に溶け込むように黒くそびえていた。壁を覆う蔦は風に揺れ、外界を拒む生き物のようにうねっている。
玄関先に立った瞬間、内側から微かな泣き声が聞こえた。赤子の声――小さくとも確かに、生きていることを告げる響き。
ニールが薄く笑った。ランタンの揺らめきが、つぎはぎだらけの顔を照らし、縫い合わされた口元を歪ませる。
「……久しぶりに、赤子の生き血だ」
淡々と、それでいて確実に本心を含んだ声。まるで食卓の献立を語るかのように平然としている。
胸の奥がざわめき、冷たいものが背骨を這い上がった。私の前では優しげな笑みを見せるニールも、やはり魔女の使い魔――血と呪いを糧にする存在なのだ。
――では、私は?
問いがじわじわと広がっていく。私はまだ人間なのか、それとも、もうこの深淵の住人なのか。夜風が頬を撫でる冷たさは、外から来るものか、それとも内側から溢れ出すものか。答えのない疑問だけが、闇の中で重く沈んでいった。
「じゃ、がんばってな」 背後から響いたニールの声は軽く投げられたようでいて、不思議な重さを帯び、背筋をひやりと撫でた。振り返れば、ランタンの赤い光に照らされたつぎはぎの顔が、意味深な笑みを浮かべている。
「いいか、今回はお前の魔力を試すんだ。人を操れるか、幻覚を見せられるか……出来なかったら、迷わず逃げろ」
低く響く声が、胸の奥に冷たい刃を沈めていくようだった。それでも私は小さく頷き、荒ぶる鼓動を押さえるように深く息を吸った。指先は湿り、背中にはじっとりと汗が貼りつく。
従者――あの夜、私を踏みにじった男。その家の前に立つと、夜は濃く沈み、外壁を覆う蔦が風に揺れ、ざわざわと音を立てた。玄関前で目を閉じ、呼吸を整え、低く通る声を作る。
「ごめんください」
数秒後、きしむ音とともに扉が開き、赤子を抱いた女が現れた。頬には疲れの色が刻まれ、肩は僅かに下がり、目元は眠気と倦怠に曇っている。
私は一歩踏み出し、柔らかな笑みを浮かべながら意識の底から魔力を引き上げた。視線が絡んだ瞬間、空気が淡く揺らぎ、女の瞳から警戒心が溶け落ちていく。
「……ああ、あなた……」
その声には、夫を迎える安堵と甘さが混じっていた。幻覚の中で、彼女は夫が早く帰宅したと信じ込んでいるのだ。
「お前、ずっと起きて世話をしてただろう。今日は俺が面倒を見るから、少し休んでおいで」
夫が妻を気遣うような口調で告げると、女の表情にほっとした色が差し込み、ためらいなく赤子を私の腕に預けてきた。その仕草には、産後の疲れ、夫への信頼、そしてひとときでも眠りたい切実な願いがにじんでいた。
腕の中で伝わる温もりと柔らかな重み。その瞬間、胸の奥で何かが静かに軋む音がした。背後の闇では、ニールが薄く笑う気配が漂っていた。
夜の帳が街を覆い、石畳を冷ややかに撫でる風が、私の頬をかすめていった。腕の中の赤子は小さな体を温もりの塊のように寄せ、かすかに吐息をもらす。その重みが心臓の鼓動と重なり、妙に現実味を帯びていた。
「やるじゃないか、セリーヌ」
背後から響くニールの声は低く、しかし弾むような調子を含んでいた。つぎはぎの顔が街灯の光に照らされ、口角が大きく吊り上がる。
「まんまと手に入れたな。初任務にしては、最高の出来だ」
私は視線を下げ、赤子の頬に触れる産毛を見つめながら小さく頷く。言葉を返せば、この静かな寝息が乱れそうで怖かった。
館の重厚な扉が軋みを上げて開く。薄暗い廊下の奥、黒革の椅子に深く腰掛けるヴァルセリアが、薄笑いを浮かべていた。私と赤子を順に見やり、その瞳が深い闇のように細められる。
「久しぶりの御馳走だ」
赤子が目を覚まし、か細く泣き声を上げる。その声を耳の奥で転がすように楽しみながら、ヴァルセリアは赤い舌で唇を舐めた。
その夜、私たちは奇妙な祝宴の席に着いた。食卓の中央には、瓶詰めの新鮮な赤が置かれ、ヴァルセリアがゆったりとグラスに注ぐ。立ち上る鉄の匂いが蝋燭の炎に照らされ、暗赤色の液面が妖しく揺れた。
「今夜は祝うべきだ。セリーヌの初仕事成功を」
グラスを掲げる三つの影。口に含むと、温かく濃い鉄錆の味が舌を支配し、今夜の獲物の存在が全身に染み込んでいく。
食後、ヴァルセリアが愉しげに指先を翻した。黒い霧が広がり、宙にひとつの映像が浮かび上がる。
「見たいだろう、あの家がどうなったか」
映し出されたのは従者の屋敷の一室。従者は顔を紅潮させ、妻の肩を強く掴んで揺さぶっていた。
「赤子はどこだ!?」
妻は涙で頬を濡らし、嗄れ声で叫ぶ。
「あなたが……あなたが面倒を見るって言ったじゃない!」
その瞬間、従者の目に混乱と恐怖が走る。怒りではない、どうしようもない無力さが浮かび、彼の姿を小さく見せた。
ヴァルセリアが微笑み、囁くように言う。
「赤子のおかげで、あいつは命を取りとめたね」
私は映像を見つめたまま、静かに息を吐く。本命の復讐ではなかった。だが、確かにこの混乱と恐怖は、従者への深い傷になったと感じる。
胸の奥に、ひそやかな満足がじわりと広がっていった。




