ゆうれいみたい
海沿いの町に、昔から「ふしぎな浜辺」があった。
町はずれの小さな入り江で、昼間は誰もいない。けれど夏になると、夜な夜な光が揺れ、ひとの声が聞こえてくるという。
子どもたちはその場所を「幽霊海岸」と呼んでいた。
名前の由来は単純だった。誰も見たことがないのに、「夜になると白い影が歩いてる」とか、「海から手が出てくる」とか、そんな話が、どこからともなく聞こえてきたからだ。小さな頃は、そういうのを簡単に信じてしまう。そしてそれが、どこか誇らしいことのようにさえ思えた。
その年の夏、僕は十歳だった。
学校は夏休みに入り、暑さと退屈にぐったりしていた僕たち数人は、夕方から集まっては、町を探検した。近くの神社の裏山に登ってみたり、古い井戸の中をのぞいてみたり。そんな中で、誰かが言った。
「なあ、幽霊海岸、行ってみようぜ」
誰が言い出したかなんて、すぐ忘れてしまった。でもそのとき、僕の心の奥に、くすぐったいような興奮が走ったのは覚えている。行っちゃダメ、と言われている場所ほど、なぜか行ってみたくなるのが、あの頃の僕たちだった。
その夜、懐中電灯を手に、僕たちは浜辺へと向かった。
月は雲に隠れたり顔を出したり、波音はしずかにリズムを刻んでいた。
砂浜を踏みしめるたび、ざくっ、ざくっと音がして、心臓の音と混ざって聞こえた。
僕たちは、だれも声を出さなかった。
ただ前に進み、光の先を見つめていた。
やがて、小さな岩場を越えた先。
入り江の奥に、ぼんやりと光が見えた。
それは、浜辺に広げられたレジャーシート。
その上に座る何人かの人影。
小さなランタン、缶を開ける音、笑い声。
僕たちは言葉を失って、じっとその光景を見つめた。
人がいた。
でも、それは“幽霊”ではなかった。
それでも、なぜかその場から動けなかった。
白いワンピースの女の人が海を見つめていて、シャツの男の人が誰かにお酒をついでいた。
夏の夜の音に包まれたその場所は、たしかに“ふしぎな”空気を持っていた。
ふと、誰かが言った。
「あれ、なんか……きれいだな」
その言葉に、僕たちは静かにうなずいた。
帰り道、僕たちはあまり話さなかった。
けれど、なぜか心はとても満たされていた。
数年が経ち、僕も気づけばあの頃の大人たちの歳に近づいてきた。
夜の海を怖がらなくなった代わりに、あのときの“わからなさ”が少し恋しいと感じるようになった。
大人になった今ならわかる。
あの浜辺にいたのは、ただの人たちだった。
仕事終わりに、夏の夜を楽しみに来ていただけの、少し先を生きてる人たち。
だけど、子どもの目には、それが“この世のものではない”ように映る瞬間がある。
誰かが照らすランタンの光が、まるで別の世界から届いているように見える夜がある。
大人たちは、それを否定しない。
それが勘違いだとわかっていても、わざわざ訂正しない。
なぜなら、そうして自分たちもこの町の“ふしぎ”を通ってきたからだ。
いつか、僕も言われるのかもしれない。
「ねえ、夜の浜辺に幽霊がいるって本当?」って。
そのときは、笑って「へえ、いるのかもね」と返すだろう。
それがたとえ、真っ赤な嘘でも。
だって、あの夜、子どもだった僕にとって、あの光景はたしかに“何か”だった。
何かを信じていたし、何かを見た。
その記憶は、今も心のどこかで、波の音と一緒に眠っている。
そしてきっと、あの夜を一緒に見た誰かと再会できたら、僕たちは同じ笑い方で思い出すだろう。
あの海のことを。
白いワンピースの幽霊のことを。
そして、子どもだった僕たち自身のことを。