第四話「世界の裏側」その2
「ふわー」
「なに、その大あくび」
眠い目をこする甲斐に梨乃は不満そうだ。夜が明けて四月一九日、ようやく目覚めた梨乃に甲斐は心から安堵していた。
「昨日は色々あってあんまり寝てなくて」
鷹杜から知らされたこの世界の真実が、そして自分の運命がずっと頭から離れず、昨晩はほとんど寝ることができなかったのだ。
「……大丈夫なの? なんか元気がないような」
「眠いだけだ」
妹を心配させたことを反省し、甲斐は強がって笑う。梨乃は納得したわけではないようだがそれ以上追求しなかった。
「それより身体は大丈夫なのか?」
「風邪引いたときみたいに頭が痛い」
熱はないか?とその額に手を当てて熱を測ろうとし――膨大な情報がいきなり脳へと流し込まれた。その衝撃で甲斐は身体をふらつかせ、その拍子で手を放し、
「お兄?」
「……ああ、いや」
数瞬のためらいを経て、甲斐は今一度梨乃の額に掌を当てた。今度は何も起こらず、首を傾げるしかない。
「冷たくて気持ちいい……」
「そりゃよかった」
甲斐はその額に掌を当て続け、やがて梨乃の呼吸は安らかな寝息となっていった。
梨乃が寝入ったのを確認した甲斐はその部屋を出、
「あ、甲斐君。梨乃ちゃんは?」
その前には待っていたようなカナリアが。おそらくは梨乃が眠っていたら起こさないようにと、様子をうかがっていたのだろう。
「頭痛がするって言ってましたけど今眠ったところです」
「そう。ひとまずは安心?」
ひとまずは、と甲斐は同意する。そして、
「……あの、カナリアさん」
「何?」
それから数分を経て。二人は今、宿舎の屋上にいる。今日は天気も良く、眼前には巨大な富士山という絶景が広がっている。青い山肌と山頂の白雪のコントラストは壮麗で、ただ一つ残念なのはカナリアがその美しさを見られないことだった。
二人がフェンスの側に並び、
「それで、話って?」
「昨日のことです。隊長の話」
どこから何を話すべきか、カナリアに何を訊きたいのか、甲斐は今になって整理しようとしている。そのまま沈黙が続き、カナリアから話を振ってきたのはしばらくしてからだった。
「後悔している? 『聖剣の勇者』になったこと」
「考えが甘かったとは思ってます。でも後悔はしたくありません」
そう、とカナリアが応え、二人は再び沈黙した。
「……わたしが『宝珠の聖女』になったいきさつ、甲斐君は知ってるかな」
「あまり詳しいことは。確か歌手をしてて、逃げ遅れた人達を守るためにパルマになりきって聖歌を歌ってレイスを撃退したって……」
あはは、とカナリアが軽く笑う。
「信仰を集めるための表向きの話と実際は全く違うのよね、今なら想像つくだろうけど」
「はい」
「いい機会だからわたしのことを全部しゃべっちゃおうか。わたしはね、歌手になるのが夢だったの。こんなちっちゃな頃からずっと歌を歌っていて、ずっと歌手を夢見ていた。生まれたのがド田舎で家も裕福じゃなかったからすごく苦労したけど親に必死に頼み込んで音楽のレッスンを受けて、音楽の勉強をして。本当は音大に行きたかったけどお金がなくて進学できなくて、それでも歌手になりたかったから家出同然に実家を飛び出して東京に出てきて、フリーターをしながらレッスンを受けてオーディションを受けて。でも、箸にも棒にも引っかからなかった。動画配信もやっていたけど見ている人はほとんどいなくて、少し前の甲斐君ともいい勝負ができる零細配信者だったよ?」
「零細ぶりなら誰にも負けるつもりはありません」
そう胸を張る甲斐にカナリアがまた笑った。
「そんなとき……アルバイト先の工場の事故で洗剤が目に入っちゃって、しばらく両目に眼帯をしていたの。そのまま歌の動画配信をやっていたら『ハンデに負けない盲目の歌手!』とか誤解されて、大手に取り上げられて、すごくバズった。チャンネルの登録者がものすごい勢いで増えて、ネットニュースで取り上げられて、大手レーベルからも声がかかって……でもそれも、『盲目の歌手』って美談、話題性があってのことなんだよね。目が治ってハンデが何もなくなったら、きっと誰にも見向きされなくなる。だから――わたしはこの目を自分で潰した」
息を呑む甲斐にカナリアが顔を、眼帯に覆われた目を向ける。
「塩素系の洗剤を自分で目にぶっかけて、ぐりぐりこすって浸み込ませて……死ぬほど痛かったなぁ」
そう言って笑うカナリアに、甲斐は幽霊でも見るかのような目を向けている。
「……どうして、そこまで」
「そんなの歌手になりたかったからに決まってるでしょ。歌手になれないなら死んだ方がいいって、あのときは本気で思っていたよ」
「でもそんなの……」
「うん、馬鹿のやることだって言いたいんでしょ? わたしもそう思うよ? ほんの目先のことしか考えられなくて、勢いだけで行動して、後になって死ぬほど後悔する。わたしはただの馬鹿なんだよ」
「盲目の歌手」という話題性だけでメジャーデビューとしたとしても、そんな美談はすぐに消費され、すぐに飽きられて、すぐに忘れ去られる。あとに残るのは「盲目の元歌手」だけである。カナリアだってその程度のことは理解し、予想していたが、それでもメジャーデビューすることを優先させたのだ。一度でも聞いてもらえさえすれば、盲目などという付加価値とは関係なしに、歌手として評価してもらえる――何の根拠もなくそう信じて。
「でも、メジャーデビューした直後に冥王が出現して戦争が始まって、世間は戦争一色になってしまった。わたしのことなんて戦争の話題に埋もれてしまって、わたしの歌もほとんどろくに売れなかった……あの頃が一番つらかったかな。目を潰したことを死ぬほど後悔して、毎日ずっと泣いていたよ」
ロシアから始まった戦争はほんの数ヶ月で中国、北米へと拡大。冥王軍の勢いは止まらず、わずか半年で日本にも襲来する。北海道に上陸した冥王軍は瞬く間に東日本を制圧し、東京へと迫ってきて、
「あのときはまだ冥王軍への対抗手段も大結界もなかったし、遠からず日本全土が支配されるって思っていた。東京から避難したところで冥王軍は追いかけてくる、逃げても無駄だって。それにこの目じゃ逃げるに逃げられない、きっとどこかで見捨てられるって。要するに自棄になっていたんだよね、わたし。もうじたばたしてもしょうがないからどうせ死ぬなら冥王軍と戦って死んでやろうって。で、パルマのコスプレをして――友達に大手の同人サークルの人がいて、コミケで売り子の手伝いをするのにコスプレをしたことがあったの。衣装を作るのも手伝ってもらって」
ところどころ知らない単語が出てくるがわざわざ確認はせず、甲斐は話の先を促した。
「元々あのゲームもアニメも大好きで、パルマの聖歌も全部覚えていたからね。パルマの格好で町に出て、周りの人に誘導してもらって冥王軍と向き合って、聖歌を歌って……そうしたらレイスが浄化しちゃったの。ちょうどその様子をテレビの報道が撮影していて、それを見た人達の『一縷の望み』っていう信仰を集めたことで冥王軍に対抗できる力を得たんじゃないかって、後で鷹杜隊長が言っていた」
その後カナリアは拉致同然に自衛隊に身柄を確保され、撤退戦、遅滞作戦に従事させられることとなる。鷹杜と知り合ったのもこのときで、彼はカナリアの力を検証する中で冥王軍への対抗手段を見つけ出したのだ。
「……カナリアさんは本物の英雄、本物の勇者だと思います。俺みたいな即席のハリボテとはわけが違う、本物の」
甲斐の心からの賞賛に、カナリアは珍しくちょっと苦そうな顔となった。
「わたしが本物なら甲斐君だってそうだし、甲斐君がハリボテならわたしだってそうだよ。知ってるでしょ? 本物の『宝珠の聖女』パルマは幼い頃の事故で盲目になってしまって、光を取り戻したい一心で修行して、聖女と称されるくらいの力を得た。わたしとは全くの正反対」
「カナリアさんが実際どういう人かは、この際どうでもよくないですか? 大事なのはカナリアさんがどれだけの人を救ってきたかでしょう」
「あー、うん。あはは」
てらいのないその賞賛にナリアは笑って照れをごまかした。
「甲斐君だってこれからいくらでも誰かを救える。あれだけ戦えるんだから。きっとすぐに『聖剣の勇者』に相応しい実績をあげて」
「そうして冥王に自爆特攻するんですよね」
甲斐が他人事のように言い、カナリアが沈黙。両者はそのまま長い時間口を閉ざしていた。
「……カナリアさんは後悔してないんですか?」
「ふっ、舐めないでくれる?」
不敵に笑うカナリアは偉そうに豊かな胸を張り、
「わたしほど自滅と後悔と泣き言をくり返してきた人間はそうはいないわよ?」
「威張って言うことですか?」
と呆れる甲斐。カナリアはフェンスの手すりに腕を乗せた。
「……目を潰したからメジャーデビューできて、でも戦争が始まって全てがご破算になって、自棄になって冥王軍に突撃したら聖女に祀り上げられて、でも自爆特攻をする羽目になって――禍福は糾える縄の如し、人間万事塞翁が馬ってね。目が見えるままだったらきっと普通に西日本に避難して、でもフリーターのわたしにできる仕事なんて何もなくて、多分今頃身体を売って日銭を稼いでいたんじゃないかな。それが今よりも望ましい選択かどうかは判らない、たとえ死ななくていいとしても。それに何より――世界中の人がわたしの歌を聴いてくれる」
両手を重ね、うつむいて微笑むカナリアの姿は一枚の絵画のようで、まさしく絵に描いたような「聖女」そのもののように思われた。
「全世界一六億の人達にわたしの歌を届けることができる。今のわたしは世界で一番有名な歌手で、この先も人類が続くならわたしの名前が歴史にきっと残り続ける。わたしも歌も聴かれ続ける。ずっとずっと、千年先まで。その引き換えに自爆特攻をしろって言うんなら――そこまで悪くない取引かなって思っている」
もちろん進んで死にたいわけじゃないけどね、とカナリアは笑って結論付けた。それを受けた甲斐は、翻って自分はどうなのかを考える。
「俺は……」
「聖剣の勇者」であることに、英雄となって歴史に不滅の名前を残すことに、そこまでの価値を見出しているわけではない。甲斐が「聖剣の勇者」となることを選んだのは生活のため、妹のためだった。死ぬつもりなど欠片もなく、きっと何とかなるという楽観には何の根拠もなく、結果として彼は重すぎる交換条件を前に、今立ちすくんでいる。考えなしに愚かしい選択をしたと、後悔がじわじわと胸を蝕んでいる。
「わたしは自分で選んだことだから、いい。でも翡翠ちゃんは違うの」
大きく見開かれた甲斐の瞳がカナリアへと向けられた。
「あの子は血筋と家柄が『神鏡の巫女』に相応しかったから、年齢的に手頃な子が他にいなかったから、『神鏡の巫女』に選ばれた。本人の意志とは全く無関係に。あの子自身は戦うのが嫌で、戦うのが恐くて、英雄になって死にたいなんてこれっぽっちも思っていないのに。それでもあの子の周り全てがあの子に強要しているの――『冥王と戦って死ね』って」
顔を背けた甲斐が舌打ちしそうになり、ぎりぎりでそれを堪えた。自分は何も知らなかった――彼女のことを。彼女に課せられた宿命を。
きっと彼女は相当早く、おそらく五年前から「神鏡の巫女」となることを求められたに違いなく、そのときから最終決戦ではその生命を捨てなければならないことも判っていた。他の方法、生き残る方法もずっと探していたに違いなく、それでもそれは見つかっていない……いや、他の方法がないわけではないのだ。だが「人々がそれを信じないから」という理由で生きる方法は潰され、「人々がそれを信じているから」という理由で死を強要されている。その恐怖と絶望がどれほどのものか今になって甲斐はようやく理解し、実感している。わずかでも望みがあるように見える分、それはより質が悪いと言えた。
「櫛名田と……話をしないと」
「うん、それがいいと思う」
行こうか、とカナリアが手を差し出し、甲斐がそれを取る。二人は屋上から立ち去り、階下へと向かった。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ!」
孔雀明王の真言を唱えるマユールが三鈷杵を振るう。霊力が光の剣となり、刃となり、骸骨騎士を紙のように切り裂いた。「乙」のハンターが、「丙」の兵士が冥王軍と戦う姿を、甲斐は後方から眺めている。
「見える範囲は全部倒したかな」
敵を一掃したマユールが戻ってきて周囲を見回し、甲斐も「そうですね」と頷く。マユールは鮮やかなオレンジの袈裟を着ていて、それが彼の戦闘服だった。
「それじゃ移動しよう」
甲斐達はオペレーターの指示に従い、次の敵を掃討するため歩き出した。
鎌倉の鶴岡八幡宮に敵集団が接近、という一報が入ってきたのは翡翠と話をしようとした、その直前だった。込み入った話は棚上げにして甲斐達は鎌倉に急行、冥王軍を排除して回っているのが今である。なお翡翠やカナリアとは別行動。時刻は昼を過ぎ、間もなく夕方になる頃だった。
「敵の目的がよく判らないな。四天王は『東京で待つ』と言っていたんだろう?」
「ええ」
「こんな雑魚ばかりで今の鎌倉を落とせるはずがないのに。何を考えている?」
マユールが首をひねってハルベリンの思惑を考察する一方、甲斐の脳裏を占めているのは全く別のことだった。
「……調子が悪いみたいだけど何かあったのかな」
「ええ、ああ、いや」
一瞬ごまかそうとする甲斐だが「甲」のメンバーには情報は開示されているという話を思い出し、
「……隊長に教えてもらいました。裏側の話を」
「そうか」
そのまま二人は沈黙し、マユールが口を開いたのは少しの時間を置いてからだった。
「それなら僕のことも聞いたのかな」
「いえ、カナリアさんのことは本人から聞きましたが……マユールさんのことは表向きのことしか知らないです」
「表向きっていうと、僕がバラモンの僧侶だって話か」
と苦笑するマユール。甲斐は「ああ、やっぱり実際とは違うのか」という顔になった。
「母方がそういう家の血筋だったそうだけど僕の家は普通の庶民というか、貧乏人だったよ。日本に来たのも出稼ぎのためだったしね」
「え、大学に留学したんじゃ」
「留学生ってことで日本に来て頑張ってアルバイトをして、実家に仕送りをしていた。卒業してからは阿佐ヶ谷でカレー店をやっていた」
美味しいカレーで評判だったんだよ?とマユールが笑う一方、甲斐は頭を抱えそうになっている。
「日本人の女性と結婚して、娘も生まれて、店も順調で、弟を日本に呼び寄せることを考えていた。あいつは僕とは違って優秀な子で、エンジニアになりたいって言っていたから、日本でちゃんと勉強させてやりたいと思っていた。でも……」
マユールが暗い顔で目を伏せ、甲斐は「冥王軍ですか」と問うまでもないことを問う。
「妻は敵の砲撃で大怪我を負って、見捨てて逃げるしかなかった。避難用の列車に何とか乗り込んだけど後から後から人が入ってきて、娘はまだ一歳で……」
ああ、と甲斐が慨嘆する。甲斐と梨乃も避難用の特別編成列車で西日本に逃げたからよく判るのだ。一般的な満員電車で乗車率は二百パーセント程度だが、そのときの避難用列車の乗車率は五百パーセントにも六百パーセントにもなっていたかもしれない。四方八方から圧し潰され、身動き一つ取れず、窓ガラスが割れ、列車の上にも人が乗っているありさまだった。しかもその状態で度々長時間停車し、トイレに行くこともできないので糞尿は垂れ流し。降りたときに気が付いたら肋骨が折れていたとか、何らかの疾患を持っていた人は耐えきれずに死んでしまったとか、そんな話はいくらでも起こっていたのである。
「結局娘は助けられなかった。僕の故国も、家族も……」
現在冥王軍はインド亜大陸の北半分を支配下に置いており、当然ネパールもその勢力圏下だ。冥王軍が攻めてくる前にインド南部に逃げていれば生きている可能性はある……などと、無責任な憶測は言えなかった。インドに限った話ではないが、逃げられた人間よりも逃げきれずに殺された人間の方が何倍も多いのだから。
「僕は全てを奪われた。妻も、娘も、家族も、故国も。僕に残っているのは……復讐心だけだ」
表情はほとんど動かない。なのにその瞳だけがギラギラと異様な光を放っている。憎悪に燃え上がるのと同時に絶対零度近くまで凍てついている。その憎悪を直接向けられたわけでもないのに、甲斐は背筋が凍る思いを味わっていた。
「それで……ハンターに」
「ああ。バラモン僧だってはったりを利かせたら何故か信じてもらえて、気が付いたら『甲』部隊に入っていた」
そう笑うマユールは普段の好青年に戻ってきて、つい今までの憎悪が嘘のようだ。だがどちらかと言えば嘘なのは「好青年」の仮面の方だった。仮面の内側は完全な空洞で、凍結した真空の中に灼熱する憎悪の炎だけが充満している――それがこの青年の正体なのだ。
「君にはまだ家族がいる。大切にした方がいい」
言われるまでもない、とは彼の背景を知ってしまった今では口にできなかった。甲斐は素直に「はい」と頷く。
「妹さんの具合は?」
「大分よくなっているって言っています。原因が判らないのがちょっと心配ですけど」
「そうか。できれば一緒にいたいところだろうけど」
「そこまで深刻じゃないですし、任務はちゃんとこなさないと」
そこで会話が途切れて、マユールは何かを思い出そうとしているようだった。
「妹さんは今一二歳だったかな。隊長の娘さんと同い年だね」
「そうなんですか」
「隊長の娘さん――淑佳ちゃんとは何度か会ったことがある。そのうち会う機会もあるだろうけど……あの子は『聖剣の勇者』候補だった子だ」
初めて聞く話に甲斐は目を見張った。
「本当ですか? でもそんな話一般には」
「そりゃあ、『もしこのまま「聖剣の勇者」が見つからなかった最悪の場合はそういう風に持っていく』って話だったからね。そういう『もしも』のときは、まず鷹杜隊長が戦死する手筈になっていた」
驚きに息を呑む甲斐。
「戦死って……」
「伝説的な英雄・勇者が戦死し、その一人娘が力に目覚めて『聖剣の勇者』となる――大衆が好みそうなストーリーだろう? これならきっと信仰を集められる、何の力もない普通の女の子を勇者に仕立てることができる。そう計算されていた」
そうして無理矢理勇者にさせられたその子は冥王軍との血みどろの戦いに投じられ、最後には自爆特攻して冥王とともに死ぬことを強要されるのだ。その救いのなさに、悪辣さに、甲斐は唾棄したい思いを懸命に堪えている。
「そんなの……一体誰が考えて」
「鷹杜隊長が自分で提案したと聞いている」
甲斐の呼吸が一瞬止まり、思考は十数秒にも渡って固まった。一体どれほどの覚悟をもってこんな非道を計画したのか、思いを巡らそうとし……判ったのは想像が到底及ばないことだけだった。
「幸い、と言っていいのか、あの子はまだ小学生、今年ようやく中学生だ。勇者に仕立てるには年齢が低すぎて、せめてあと二、三年待つ必要があった」
「でも今は俺がいますよね」
「そう、今は君がいる。淑佳ちゃんの成長と人類滅亡がチキンレースをする必要はなくなった。でも、もし君が戦死したなら『聖剣の勇者』の役目がまたあの子へと回されるかもしれない」
その推測に甲斐は舌打ちをする。
「死にませんよ、俺は」
「うん、君は死んじゃいけない。君達三人を絶対に死なせないため盾となり、必要があれば身代わりで死ぬのが僕と燕さんの仕事だ」
「そんなの!」
つい大声を出してしまった甲斐は、声と感情を抑えようとした。
「俺は誰かに俺の身代わりになってほしいなんて思いません」
「僕も進んで死にたいわけじゃないけどね。でも、君は君の役割の重さを理解しなきゃいけない」
冥王を倒せるのは甲斐達三人だけ、冥王を倒せなければ人類は皆殺しになる――そんなことは百も二百も判っている。理屈では。全人類の未来を背負っている、その重みは、正直に言えば完全に理解の外だ。甲斐に実感でき、担うことができるのは梨乃一人分の生命の重みくらいのものだった。
「それともう一つ。嫌なことを言うけど、君が死んだ場合の『聖剣の勇者』候補は淑佳ちゃんだけじゃない。梨乃ちゃんも入っていると考えた方がいい」
「……っ」
怒り、恐怖、疑問、理解、それらの感情が刹那の間に押し寄せ、渦を巻く。怒りで血が昇り、恐怖で血が引き、それらがほぼ同時に起こったため甲斐は眩暈の感覚を覚えている。
「……認めない」
搾り出すように吐き出されたのは恨み言のような言葉だけだった。
「梨乃ちゃんは第二候補だろうけどね。いずれにしても、君が絶対に死んじゃいけない理由、理解できたかな」
「はい、ありがとうございます」
顔を上げた甲斐の瞳は鋼のような輝きを放っている。それは決意の光であり、「生きる」という意志の光だった。もとより死ぬつもりで戦ってきたわけではないが、今は絶対に死ねない理由ができてしまった。
「四天王だろうが何だろうが絶対に死なない。最後まで戦い抜いて、冥王のところにまで――」
そこまでたどり着いたなら「聖剣の勇者」の役目が梨乃へと回されることはないだろう。それは今の甲斐にとって救いのように感じられた。
その夜、鶴岡八幡宮。
「それで、話って何?」
「えーっとだな」
甲斐が翡翠を呼び出し、今二人は社殿の横で向き合っている。昨晩は夜遅くまで鷹杜の説明を聞き、その夜はろくに眠れず、今日の午後は鎌倉を歩き回って敵と戦闘と、甲斐もかなり疲れていた。謝るだけで長々と話をすることはない、さっさと謝ってしまおうと意を決し、
「……『俺は死なない』って、今も言える?」
口火を切ったのは翡翠の方が先だった。その問いに甲斐は「いや」と首を横に振る。
「『何か他に方法がある』って、『探したのか』って言える?」
「いや」
「……受け入れたの? 自爆特攻することを」
その問いに甲斐が答えたのはかなりの時間が経ってからだった。
「……何億人いようと、見ず知らずの他人のために死ぬのは嫌だけど、梨乃を死なせないためなら」
自分がそれをしないなら妹にその役目が回ってくるかもしれない――それは甲斐が死を受け入れるのに充分な理由だった。
「悪い、ごめん。何も知らないくせに好き勝手」
甲斐の謝罪はそこで途切れた。翡翠がいきなり甲斐の襟首を掴み、強く引き寄せる。翡翠は深くうつむいていてそのつむじしか見えず……それが小さく震えている。襟首を掴むその手も、その身体も。
「どうして……諦めたの?」
顔を上げる少女の瞳から、真珠のような涙がいくつもこぼれた。
「言ってよ……! 俺は死なないって。他に方法があるって。死ななくていいって……信じさせてよ!」
「櫛名田……」
――あるいはこの少女に希望を与えてしまっていたのか? 根拠のない自信だけで自分は死なないと確信していた、何も知らなかった自分が。自分が何かを変えるかもしれないと、この袋小路の突破口を作るかもしれないと、ありもしない希望を見せてしまったのか? それはある意味、「他に方法はない」と死を受け入れさせることよりずっと残酷な仕打ちだった。
今、彼女に何を言えばいいだろうか。口を突きそうになるのは謝罪の言葉ばかりで、彼女はそんなものを望んではいないだろう。では「他に方法がある」と言えばいいのか? 何の根拠もなく、わずかばかりの自信もなく、今この場限りの慰めにしかならない、そんな空しい嘘を。
甲斐は何も言えず、何も言うことが思い浮かず、呪いで石になったかのように立ち尽くしている。翡翠の瞳の色が悲しみから失望へと移り変わり、その手が襟首から離れた。
翡翠が背を向け、その小さな背中が遠ざかっていく。彼女にかけるべき言葉を、今の甲斐が持つはずもなかった。
「ふわー」
「どうしたの? 調子悪い?」
その夜も充分に眠れず、翌日の甲斐はずっと眠い目をこすっている。
「ちょっとあんまり眠れなくて」
そう、と頷くカナリアはわずかに顔を曇らせた。見れば翡翠の方も元気がなく、昨晩二人で話したことが悪い方に作用したらしい――甲斐が翡翠を呼び出して話をしたのは知っているがその内容までは知るところではなく、こんなことなら盗み聞きすればよかったとカナリアは考えている。
元々翡翠は周囲に強要されて「甲」部隊に入隊し、義務感だけで「神鏡の巫女」を続けている人間だ。感情を殺すことで死の恐怖から逃れ、そのために人形のようになってしまっていたのだが、甲斐が来てからは普通の少女に戻ったかのよう――それがまた人形へと戻っている。周囲の望むままに戦い、死んでいく、人形かロボットに。
「でも、わたしにできることって何もないのよねぇ」
できることがあるとするなら、死にたくないと、なんでわたしがこんな目にと、一緒に怖がって泣いてあげることくらいだった。少女の気持ちを、絶望を、誰よりも理解できるのは自分なのだから。
そのとき、携帯端末に着信音。甲斐達がそれぞれ自分の携帯を見て、
「隊長が到着、集合?」
三人は視線で三角形を作って顔を見合わせる。
「集合場所は……ここでいいみたいね」
「待っていればいいか」
彼等がいるのは社殿横の、キャンピングカー前だ。そのまま待っていると燕が、マユールがやってきて合流。それからさほど間を置かずに鷹杜が姿を現した。だが彼は一人ではない。同行者がいる。
「え?」
鷹杜に続いて歩いている小さな少女は、梨乃だ。疑問で頭がいっぱいになり思考が回らない。そうしているうちに二人が甲斐達の目の前までやってきて、足を止めた。なお梨乃は普段の地味な格好ではなく、白いブラスシャツと濃紺のキュロットパンツという、年頃の女の子らしい可愛い服装だ。
「隊長、どうしてこいつを」
「お互い見知った顔ではあるが」
鷹杜は甲斐の詰問を無視して話を始めた。
「改めて紹介しよう。彼女は白鳥梨乃君、今日をもって彼女を『甲』部隊に配属する」
次回・第五話「七人目の勇者」その1は8月8日12時更新です。




