バイス鳥
腕時計は袖に引っかからないものが好きだ。薄型で四角い…レクタンギュラ―…の、装飾が控えめな物が相応しい。この際、値段は気にしない。安くても、高くても。過不足なく使えること、それから私が気に入っていることが重要なのだ。
腕時計を見ると、夕暮れ時だった。金の時計を腕に巻き付けているのは使い込んで柔らかくなった革バンドにDバックルだ。時差が生まれることも屡々だが、機械式ならではの世話だ。この世話を焼けるだけの甲斐性があればこそ、腕時計に相応しい人間でいられるのだろう。
私の腕時計の世話は家人のジャックが担っている。ジャックは運転手でもあり、メカニックでもあり、私の仕事の助手でもある。これだけでも彼が如何に器用な人間なのか伝わるだろう。彼は実に手先が器用なので、私の腕時計の世話を頼んでいるという訳だよ。
ジャックは私に忠実な人間だ。付き合いも長い。彼の肉体にエンバーミング手術を施してから、かれこれもう百七十年くらいになるだろうか。
彼のあの屈強な身体。精悍な顔つき。青い瞳。金色の獅子のような髪の毛。どれをとっても完璧な人間だった。だから、私は彼を雇い、関係を構築した。そう言うのは得意だったからね。彼とも直ぐに打ち解けたよ。愛し合う仲になって、それから尋ねたんだ。君に死なれると困るから、私の世話をこれからもずっとして貰えないかとね。彼は快諾してくれたよ。
エンバーミング手術をしたおかげで色々な利点はあったが、外見が衰えない点と、排泄する必要がなくなった点が特に嬉しかったそうだ。ジャックは私に忠誠を誓ってくれた。私はジャックを心底可愛いと思っているからね、彼の期待には常に応えてきたつもりだ。彼も同様に、私の期待を常に大きく上回る結果を出してくれる。素晴らしい存在だよ。
…ジャックの話はこれくらいにしよう。そろそろ時間だ。二キロ先から巨大な何かがこっちにやってきているのがわかるかい?アレが今晩の獲物だ。とびきり丸々と太ったバイス鳥だよ。翼を広げれば三十メートルにはなるだろうなぁ。あれはなかなかの大物だ。夕暮れ迄待った甲斐があったというものだよ。
「旦那様っ!そろそろご準備を!」
そら!ジャックが私を促した。私はその通りに準備をしなければならないのだ。あの大きな獲物を撃ち落とすためにね。その為にもまずは、ジャックが入れてくれたロイヤルミルクティーを飲み干さなければ。私は優雅に足を組みかえて、それから日傘を捧げ持つジャックに言う。
「今日は大きなものを使おう。スウェーデンのボフォースを持って来てくれ」
「お砂糖は如何します?それから砲門数は?」
「今日も丁度さ。あと、連装砲で構わないよ」
「承知しました、では少々お待ちを」
私はカップに残った茶を飲み干すと、えいと力を込めて折り畳み椅子から立ち上がった。日傘はもう片付けられていた。ジャックの手でお茶道具のセットが手早くトランクに仕舞われていくのを眺めていると、丘の手前に沿って敷かれている泥濘んだ農道を滅茶苦茶にしながら、装甲トラックが対空機関砲を牽引しながらやってきた。
いや、いや、大したもんだ。こうしてみると随分と大きな銃だなぁ。この前ブーガロイ…巨人…を撃つのに使った対物ライフルよりも巨大じゃないか。私はワクワクしてきた。そして、装甲トラックをひいてきてくれたお方の顔を拝みたくて仕方なくなった。
「出ておいで、リリー、ジャックを手伝ってあげなさい」
トラックから出てきたのは可憐な少女だ。彼女はリリーと言って、私の家人の一人だ。この子も実に器用だから、偶に私の祐筆として手紙を書かせたりもしている。庭の花に水やりもさせているし、象を撃つときはその身に余る長大なライフルを見事に御して見せた。大した子だ。優秀な娘である。家人の中では最後にエンバーミング手術を施した子でもある。まだ二十年ほどしか一緒に暮らしていないが、彼女も私の立派で大切な家族の一員だ。
白髪に青白い肌をした彼女は、地球でも物珍しい存在だったし、この世界でも同じだった。何度か奴隷にしたいと言われたが、私は野蛮な言語を聞く耳を持っていないので話にもならなかった。地球では差別の対象だったようだが、私にとってはどうでもいいことだった。彼女は賢く、美しい。しなやかで背が高く、堀が深く、鼻の形も気に入っている。私は私にできる愛情をとりあえず、思いつく限り注いだが、それが彼女を満たしたのかは知り得ないことだ。とはいえ、こうして今も対空機関砲のセッティングを手伝ってくれている所を見れば、私の事を見放したわけではなさそうである。私はこういう時に、しばしば安堵を覚えるのだ。
「旦那様、ボフォースの用意が整いました。いつでも撃てます」
リリーとジャックが軍隊のように二人並んで敬礼をした。私は可笑しかった。
「よせよせ、軍隊じゃないんだから」
「うふふふ…そうですね」
「僕はもともと軍隊にいましたからね、つい…」
そういえば、ジャックは軍隊にいたんだったか。ジャックは屈強な体躯にパリッと糊の付いた執事服を着ているし、リリーもメイド服を着ていた所為で忘れていた。そうだ…そういえば、このボフォースだってジャックのツテで手に入れたものだったか…。
「まあいいか…さあ、そろそろ降って来るぞ」
「今日はどうされますか?」
「リリー、君が撃て」
「畏まりました」
私は空を見上げた。ジャックは腕ほどもある弾薬をボフォースに詰めていた。リリーは銃座に座って砲身の向きを調整した。その間もずっと私は空を見上げていた。
ケダモノの鳴き声が響く。あの巨大な怪鳥の声だ。バイス鳥の鳴き声だ。濡れた泥のような色をした鉄のように硬く分厚い羽をもった大鳥だ。こいつは見境なく村や町を襲い、人も家畜も食ってしまう。同じバイス鳥同士でも共食いするそうなので、それはそれは恐ろしいのだ。大抵は羽を広げれば十メートルくらいなのだが、今日のはとびきりデカいやつでなにせ三十メートルはある。これは豪い大物だ。私はワクワクドキドキしていた。
遠くで響いていた鳴き声が近づいてきた。夜を背負ってやってきたようだ。夕暮れが沈むのと、奴が私たちの目の前に姿を現すのは同時だった。
「曳光弾はたっぷりあるな?」
「五発に一発ずつ。一千発は用意しました」
私が問うとリリーが答えてくれた。
よろしい。
ならよろしい。
「来たぞ!バイス鳥だ!」
私は興奮して声を上げた。大きく体を持ち上げる様な風。ジェット機が迫りくるような勢いで、巨大な真っ黒くて生臭い鳥が鉤爪を顕わに突っ込んできた。林をひょいと飛び越えて。
瞬間。瞬く。瞬く。瞬く。燐光だ。
ボフォース六十口径四十ミリメートル機関砲が火を噴いた。噴き上がった。撃ち上げた。
ぐわぁぁぁぁっと赤色と緑色とに光りながら、腕ほどもある弾が怪鳥めがけて突き刺さった。二筋もだ。
リリーはボフォースをピアノを弾くみたいに見事に操った。連装砲を一人で巧みに操作して、微調整して、決して鳥の事を逃がさなかった。その間、ジャックは少しの焦りも見せずに淡々と弾薬を供給し続けていた。見事な連携だった。
花火のように、うす暗い空に数千の小爆発が起こっていた。鉄と薬品染みた臭いの煙が辺りに充満した。間もなく鳥は堕ちて来るだろう。下からたらふく撃ち上げられて、蜂の巣にされたのだから。ぼだぼだと重たい血の滴が降ってきて森を濡らした。泥雨のように。
「旦那様、御夕飯は何にいたしましょう?」
リリーに問われてバイス鳥は嫌だと答えた。
「では農村から買い上げた鴨肉はいかがでしょう」
それがいい、と私は言った。
ボフォースの吐き出した空っぽの薬莢を拾い集めて箱に仕舞うのは大変な作業だった。リリーとジャックの二人だけではとても手が足りず、私は諦めて外套とスーツを脱ぎ、シャツの袖を捲くった。私が雑務を熟すことに二人は恐縮していたが、私は家族なのだからと言い含めて最後まで手伝った。いくつかの薬莢には、空から降ってきた鳥の血がべったりとこびりついていた。臭い血だった。私は不愉快に想い、その場で重たい溜息を吐いた。まったく…汚いのは嫌いだというのに…。
リリーとジャックがボフォースの解体作業をしている横で、一仕事終えた私は葉巻をふかすことにした。細長いものを一本とりだし咥えた。歯で軽く噛んで確かめる。それから金のライターで葉巻の先を炙った。軽く含む。肺に入れずに流してやると、ふんわりと味わいが広がった。何の味だろうと煙の味に違いなかった。
ぼんやりしている内に、夜になっていた。高層建築物が王城や見張り塔、教会の尖塔、大聖堂とかくらいしかないこの世界では夜というのは恐怖の塊のような物だ。空も然り。森も然り。だが、私にとっては明かりが灯る場所も、明かりが灯らない場所も等しく素敵な遊び場であった。私は半分ほど燻らせた葉巻を適当に投げ捨てた。靴の裏で念入りに磨り潰してから、私はスーツに袖を通した。
「寒くなってきました。さ、コートを」
ジャックに促されるままにコートを羽織る。このコートも、代わりになるものは買えないのだ。ブランドも無ければ、店も無ければ、素材もないだろうからな。さっき半分だけ喫んだ葉巻もそうだ。早いうちに、こっちでも楽しめるものを用意する必要があるだろう。
とはいえ、今日の所はこれくらいにしておこう。私の口の中は既に鴨肉の舌になっていたのだ。
「リリー、ジャック、お家に帰ろう」
私が言うと。
「はい旦那様」
二人は声を合わせてそう言った。
私はコートの襟を立てた。濃い血の匂いがむっときた。私は嫌になり、さっさとリリーが運転する装甲車の後部席へと乗り込んだ。解体されたボフォースが、防弾板を隔てて後部席の真後ろの貨物室に格納されているせいで、がちゃがちゃいう音が鈍く聞こえた。気合の入ったエンジンの猛る音が聞こえて、装甲車が動き出した。泥濘に足を取られながらも、家に着くまでの間の車内で私は快適に過ごした。ジャックに命じて音楽プレーヤーからカントリーを流させた。好い調子だった。リリーが口ずさみ、ジャックがコーラスを被せた。見事な連携だった。
私は拍手して二人を褒め称えた。気分が良くなったので、車内収納から箱に入ったブランデーの瓶を取り出して飲むことにした。これだって、飲み切りのものだ。次はない。新しいブランデーを、私の好みに合わせて作るか、既存の物を大事に大事に飲むしかなかった。それはスリルだ。小ぶりのブランデーグラスに少量注ぎ入れ、私はそれを大事に舐めた。窓をみれば、撥ねた泥と土埃で汚れていた。両脇は深い森の中で、空はもう真っ暗だった。車の中にはブドウのいい匂いが漂っていた。