甘えるという事
慎一郎の指摘にも楽羅は全く意に介さない、
「それって一般的にまともな常識人としてって事でしょ?そんな常識なんて、人前だけの見せ掛けで十分よ。さっきも言ったけど、もし私や慎の本質がまともな常識人と同じになってしまったら、あっという間に潰されるわ。
っていうかどうしてこういう話になってるのよ?
いい?今は私と慎、お互いに愛情を深めるとこなの!」
「…愛情?…俺今言った通りに、楽羅の事をこれ以上無いくらいに大切だと思ってる。
それに楽羅が俺の事をどれだけ…」
「う〜違う…合ってるけど微妙に違う…慎の気持ちは私にも十分過ぎるほど伝わったけど、私が言ってる愛情を深めるっていうのは、言葉じゃ言い表せない気持ちをお互いに深めるって事なのよ。
要するに、イチャイチャするの!
キスしたりセックスしたり頬ずりしたり、お互いに相手に甘える事で、より相手を好きになるの!」
楽羅は慎一郎に説明しながら、イライラするほど歯がゆかった。
(ああもお!何でこんな事口で説明しなくちゃならないのよ?雰囲気を考える必要すら無かったでしょ?
今の、私が泣き止んだ時にキスするって、自然な事だと思うのに…
ん〜…どうしてかな?
私に対する愛情を慎はきちんと持ってるし、あれだけ悩んで後悔してた私を、これ以上無い言葉で繋ぎ止めてくれた。
しかも繋ぎ止めてくれただけじゃなくて、私の心が壊れそうになるくらいに、今まで以上に慎に対する想いが強くなった。
こんな凄い事ができるのに、スキンシップっていうか触れ合って甘えるのに関しては、ひょっとすると誰より鈍い…かも…?)
急に楽羅は抱き締めていた体を離し、慎一郎の顔をまじまじと見つめながら呟く。
「…慎?あなた…もしかして…」
「どうした?」
少し首を傾げて聞いてくる慎一郎を見て、楽羅の中で不安が形になっていく…
「…甘え方が…分からない…の?」
(慎は私を守ってくれて…
私の心を繋ぎ止めてくれて…
私の我儘を聞いてくれて…
私が泣くのを抱き締めてくれて…
…じゃあ…慎は?
オオカミの時も…
軍港の時も…
さっきまで毒で苦しんでいた時も…
それだけじゃなくて、今まで…私…知らない…
慎が自分から我儘を言った?
慎が心からの弱音を吐いているのを聞いた?
慎が泣いているのを見た?
…無かった…本当に…たったの、一度も…)
強く在ろうとする事、強くなるという事、それがどれだけつらく苦しい事か、それを楽羅は誰よりも分かっている。
しかし強く在る事と、時には自分の心を解放して誰かに【甘える】という事が、矛盾しない事も…それどころか甘えや安らぎは、強く在り続ける為には必要不可欠であるという事も、身を以て知っている。
楽羅は天切の令嬢として己を律する事には慣れていたが、能力の訓練に関しては家族や周りに居た信頼する執事や侍女に甘えてしまう事もあった。
能力の成長が思うようにいかず、苦悩し続けた時。
無理をして急激に大きな能力を発現させた時の反動で、全身が痙攣しその痛みに朝まで眠れなかった時。
そういう苦しみや痛みや悩み、それがどうしようもなくなった時、人は誰でも側に居る誰かに甘えるものだ。
ただ抱き締めてもらうだけで…
泣き止むまで手を握っていてもらうだけで…
そうしてもらえる事で、どれほど心が楽になるか…
もし苦しいままでいれば、どうしたって心や意志が折れてしまう。
そうならない為にも、心を開いて誰かに甘え、あるいは安らぎを得るという事がどれほど大切か…それを楽羅は知っている。
(慎は私よりも遥かに【強い】…でもそれなら…甘え方も分からずに、慎がそこに至る為には…いったい、どれだけの…苦しみで、その心を…)
楽羅はいきなり立ち上がり、慎一郎の頭を自分の胸に押し付けて、両腕でしっかりと頭を抱え込んだ。
「うお?ちょ、楽羅お前胸が当たって…あれ?俺の腕が上がらね!」
「無理よ、腕だけじゃなくて体全部動かなくしたから」
「…何でだ?これもイチャイチャの内に入るのか?」
「違うわ、それ以前の事を教えてあげるの。
いい?私の言う通りにするのよ?
まず喋らないで静かにして、それから私の心臓の音を聞いて」
「楽羅の鼓動を聞くのか?」
「そうよ、別に心拍数を数えたりしなくていいから、何も考えないで…ただじっとしたままで音を聞いてて」
いきなりで慎一郎は戸惑ったが、楽羅の能力で体の動きが利かなくされている為、おとなしく言う事を聞くしかなく、抵抗は諦めて楽羅の言う通りその鼓動に耳を澄ます。
しばらくそうしていると、楽羅がゆっくりとした声で、
「どう?そうしてると安心するでしょ?」
楽羅の言う通り、慎一郎の心も感情も次第にゆったりとなっていき、身体の力も自然と抜けていくのを感じる。
楽羅の温かい体温、その体の奥から聞こえてくる確かな鼓動、その鼓動と共に楽羅の胸から伝わってくる穏やかな振動。
そしてその音を聞いている慎一郎の頭は、楽羅の腕でこれ以上無いくらいに、優しく大切にその胸に抱きかかえられている。
「ねえ慎、オオカミから私を守ってくれた次の日、私が言った事覚えてる?
何でもいいから、慎のお願いを聞いてあげる…
って言ったでしょ?
でも慎はあの時、お願いじゃなくて約束をしただけだったよね。
慎は今まで、私の我儘ばっかり聞いてくれた…
だから、ね?
慎からも何か我儘を言って欲しいの、そうしたら慎に掛けてる能力を解いてあげる」
「我儘?あ〜…いきなりそう言われても…あ、そうだ!
それなら、文化祭でやって欲しい事が有る。
文化祭の当日にいろいろ見て回るだろ?その時にコスプレして回って欲しい、ってのは?」
「コスプレ?良いけど…慎てそういうのする女の子が好きだったの?
だったら、早く言ってくれればこの部屋でいくらでも…ってちょっと待って」
楽羅はそこまで言って、慎一郎の表情が変化しているのに気付いた。簡単に表現するなら、一仕事終えた後の達成感みたいな感じの、決して自分の個人的欲求を満たすだけでは無いというのが、ありありと表れて…
「…コスプレして欲しいってのは、誰に言われたの?」
「ああ、長浜と吉野に、あいつら実行委員だろ?
ちょっ…何で体全部が締めつけられてっ…!」
「あら大変毒がまだ残ってるのかしら?」
「ものすげえ棒読みだな、何で怒ってんだよ?
我儘言っただろ」
「私が言ったのは、慎が個人的欲求を満たす為の我儘よ。…今のそれって唯の頼まれ仕事じゃん」
そう言って楽羅は大きく溜息をついてから、慎に掛けていた能力を解いて、その体を離す。
「まあ最初だし、いきなりっていうのは無理があるかもね…いいわ、慎の我儘は徐々にレベルアップさせていくとして、文化祭のコスプレはやってあげる」
「おお、マジか…ありがとな。
正直楽羅みたいな御嬢様にさせる格好じゃないから、多分無理だと思ってたんだ」
「我儘を言えって言ったのは私だし、相当おかしな格好じゃない限り別にいいわよ。
で?どんな格好をお願いされたの?」
そう聞かれた慎一郎は、珍しくボソボソと歯切れ悪くその内容を言う、
「…メイド服…それと、できればでいいんだが、その格好でその…ミスコンにも出てもらえると…俺のミッションはコンプリート、なんだけど…」
それを聞いた楽羅は、眉間にシワを寄せて悩み始めた、
「メイドなんて、私の場合屋敷にリアルな人達が居るから、全然新鮮な感じがしないわ…それはこの1ヶ月この屋敷で生活してきた慎にとっても同じだから…私がメイド服を着たところで、そんなにインパクトを与えられない…
どうせなら、慎が見て興奮…は無理ね。
他の人に見せられるような格好じゃ、せいぜい慎を困らせたり照れさせるぐらいが精いっぱいかな…
なんかこう……そうだ!
あの格好なら、慎にも周りの人達にもそれなりの効果は与えられるはず。
ンフフフ…しかも慎にアレを持ってもらえば…完璧よ!」
自分の思いつきに楽羅がニヤニヤしているところへ、慎一郎は何気無く聞いた、
「メイド服は着ないのか?」
「着て欲しいの?」
「まあ見てみたくはあるかな…それに楽羅にとってはメイド服なんて見慣れてるかもしれんが、学校の奴らにとっては楽羅のメイドさん姿なんて見たこと無いから、結構インパクトあると思うけど…」
「慎が見たいなら、この部屋でいろんなタイプのメイドさんになってあげる。
でも文化祭の時にはその格好じゃ不十分。
どうせミスコンに出るなら、1位にならなきゃ意味が無いわ。
だから確実に、ダントツで勝てる服を着るのよ。
それから、ミスコンに出る時は慎も一緒にステージに上がる事、それが出る条件よ」
「…分かった、楽羅が見せ物になるんだ…俺もそのぐらいは我慢する」
そう言った慎一郎の鼻を、楽羅は指でつつく、
「それよ、その我慢するっていうのを少しでも治す為に、慎も一緒にステージに上がるの。
初めは無理だろうけど、人に見られてるからって緊張しなくていいの、気後れする必要も無いわ。
それも少しずつ私が教えてあげる」
ワクワクするような笑顔で楽羅はそう言った。
「じゃあ先ずはご飯ね。
ここに運んでもらってもいいけど、固まった体を動かす為に食堂まで行きましょ。
屋敷に居る皆にも、慎が動けるようになったのを見せてあげなきゃ。
皆本当に心配してたんだから」
「ああ、本当に…申し訳なかったと思ってる」
慎一郎の手を握ったまま部屋の扉に向かっていた楽羅は、急に振り向いて、
「それも慎の悪いとこよ…
この屋敷に居る皆は、慎の事を大切に思ってるから心配したの。
でも同時に心のどこかで、少しでも慎の手助けができた事を嬉しく思ったはずよ…勿論悪い意味では無くてね。
慎はこの屋敷に来てからも何でも自分の責任として捉え、極力誰かに頼ろうとしなかった。
だから慎の為に何かしてあげたいと、皆多かれ少なかれ思ってたはず…
だから皆に会ったら、謝るんじゃなくて…ありがとうって言ってね」
その言葉を聞いた慎一郎は、一度顔を伏せてから目を閉じ、やがて顔を上げてから嬉しそうに目を細める。
「…そうか、そうだな…
当たり前の事を言うようだが、そう思える楽羅は…屋敷の皆を大切に思ってるんだな」
「そりゃあね…産まれた時から、私を支えてくれた人達だもの…」




