慎一郎の回復
慎一郎が毒に侵されてから3日目の夕暮れ、部屋の全てがその光に染まる頃、慎一郎の呼吸が次第に穏やかになり、やがてゆっくりと瞼を開いた。
目を開いてから少しの間、その瞳はただ真上を向いていたが、意識がはっきりし始めるとその視線を楽羅の方に移し、僅かに開いた口から声が漏れた…
「…楽羅?」
かすれた声で声を出した慎一郎に対して、楽羅は泣きそうになるのを堪える為に強く唇を噛んでから、何も言わずにコップに水を注いで慎一郎に渡した。
痛みを感じる喉を潤しながら、慎一郎は不審に思う。
(?…おかしいな…前に俺が目を覚ました時には、楽羅の方からやかましく声を掛けてきたのに、今回は随分おとなしい…)
水を飲み何度か咳払いをして喉の調子を確かめた慎一郎は、幾分マシになった声で楽羅に声を掛ける。
「俺ってどのくらい意識が無かったんだ?」
「3日よ」
楽羅は静かに答えるだけで、慎一郎の目を見ようともしない…
「…楽羅?なんか元気ないな、大丈夫か?もしかして俺が寝てる間、ちゃんと飯食ってなかったんじゃないだろうな?」
「…できるだけ食べるようにしてたから、大丈夫。
慎が落ち着いてた時には隣で添い寝してたから、睡眠も少しは取れてると思う」
楽羅の言った事は、強がりの嘘ではない。
看病するにも体力が必要だと自分に言い聞かせ、食欲など無くとも無理やり食事を腹に入れていたし、慎一郎が苦しんで暴れていない時には、隣で横になってもいた。
きちんと眠れていたかは別だったが…
「そうか…ちゃんと飯食ってたならいいけど…ごめんな楽羅、ずっと付いててくれたんだろ?
ゆっくり休んでくれ、俺の方はもう大体大丈夫だから、飯食って親父さんとこ行ってくる。
できるだけ早く智英についての方針と戦略を…」
慎一郎はそう言いながらベッドから降りようとして…
その手を楽羅に強く握って引き留められた。
「待って…私…慎に言わなきゃいけない事があるの…大事な事だから…」
そう言いながらも、視線を合わせない楽羅を見て、慎一郎はベッドに座り直し、
「どうした?」
真剣に、しかし穏やかに楽羅に言った。
楽羅は思い詰めた顔で、慎一郎の顔を見ないまま話始める…
「苦しんでる慎を見て初めて…私は自分がどれだけ浅はかだったか気がついたの…
今更ながら…だけど…
軍港で起きた件の後、慎が目を覚ます前に…お父様と慎を婚約者にしたいって事に関して話し合ったの…
慎を家に送った後に車の中で快諾してもらってたけど、慎を私の部屋に運んだ後で改めてね。
その時お父様に言われたのは、
『慎一郎君ならば天切の次期当主としてふさわしい』
って事だったわ。
言葉通りの意味ではあるんだけど、詳しく言うのはちょっと説明が必要よね。
慎には言ってなかったけど、私は慎に告白するまで一度もお父様やお爺さま達から、結婚についての相手を勧められた事が無かったの。
慎には分かりにくいかもしれないけど、これってちょっと普通じゃないのよ。
陳腐な言い方をするなら、天切のような財閥の令嬢っていう立場であれば、いろいろな相手を紹介されている事が普通なの。
現にいろいろなパーティーで知り合った他の同年代の財閥の令嬢達は、結婚相手を無理やり決められるとこまではいかないまでも、結構な数のお見合いをこなしたりしているそうよ。
それについて、前はお父様達が私を可愛がり過ぎてるんだろうって思ってたけど、実際はそうじゃなかった。
私が可愛がられた事と、相手を誰も紹介されなかったのは別の事だった。
単純にね、相手が居なかったのよ。
天切の家を継ぐのに必要な資質は、地位、家柄、学力、権力、社交性、道徳や倫理観、社会性、そういう下らない常識なんて、はっきり言ってどうでもいいの。
最も必要なのは【強さ】よ、あらゆる意味でのね。
具体的に上げるなら、意志、感情、身体、自己制御、胆力、信念、物事の本質とその先を見る聡明さ…その全てが飛び抜けてないと、そして常にそれらを高める努力を怠らない者でないと、確実に押し潰されてしまうわ。
一々例を上げるよりも、軍港や今回の件で分かるでしょ?
率直に言うなら、それだけ私や天切の家に関わるのは危険で異常な事なの。
そんな当たり前の事を、私は忘れていたのかもしれない…
だって、軍港の件の時の慎はあまりにも自然に周りの脅威を受け入れて、私以上の機転と判断力と意思の強さで、それを打ち壊していくんだもの。
お父様が二つ返事で慎を受け入れるのも当然よね、天切の家を継ぐ者としてこれ以上無いほどの【強さ】だもの。
でも今言ったのは、私やお父様の視点で見た慎で…慎はただ、自分を貫こうとしただけだったのよね。
…だけど、今回は…死んでもおかしくなかったのよ?
いいえ、慎でなきゃ絶対に助からなかった…
そして私は…また何もできなかった…
慎が倒れるのを目の前で見ていたのに…慎が毒で苦しんでいる時も…ただ側に居る事しかできなかった…
オオカミの時と一緒…あの時も私は、ただ見ている事しかできなかった…
今更謝っても、どうしようもないけど…
ごめんなさい…
あの時私が我儘を言ったせいで、慎が大怪我をして…
そのせいで能力を発現できなくなってしまって…
しかもそのせいで、慎はずっと独りだったんでしょ?
あの時私が慎を無理やり引っ張って行ったりしなきゃ、そんな事にならずに済んだのに…
私が学校で声を掛けたりしなければ、軍港での件で慎を巻き込まずに済んだのに…
私が告白なんてしなければ、こんなにも慎は苦しまずに済んだのに…
全部…私の我儘のせいなの…
ごめんなさい…
これ以上、私や天切に関われば、慎はこれからも…こんな苦しみを…」
顔を伏せたまま、苦悶に満ちた声を絞り出すように呟く楽羅。
それを静かに見つめていた慎一郎は、楽羅を抱き寄せて、その顔を自分の肩に押しつける。
「なあ楽羅…聞いてくれ…俺は、前に言ったろ?
人は生物である以上、常に死と隣り合わせだ。
そして同時に、弱肉強食の掟からは逃れられない。
そうである以上、俺自身だっていつ死ぬか分からない…もしかしたら、明日には死んでるかもしれない。
それが当然なんだ…だから楽羅が気に病む事は無い。
これが俺の信念なんだが…この言い方だと、楽羅の想いをはねつける事になるな…だから…」
そこまで言って、慎一郎は楽羅の肩を掴み、その顔を上げさせて無理やり自分の方を向かせてから、
「いいか楽羅、俺はお前に感謝してる。
オオカミとやり合った時に、俺独りなら多分逃げてた。戦ったとしても、負けてたかもしれない…
でもあの時楽羅が一緒に居てくれたから、俺は勝つ事ができたと思ってる。
あの時初めて爺ちゃんの言ってた事の意味が分かった。
誰かを守る為に強くならなきゃいけない、っていう事の意味が。
あの時一緒に居た楽羅が、それを教えてくれたんだ。
それに…楽羅は俺を好きでいてくれた。
その想いは俺にとって、何物にも代え難いもんだ。
だから、あの時楽羅を守って…その結果今の俺がある事を、俺は誇りに思ってる。
楽羅は前に言ってただろ?
今の楽羅があるのは、俺に憧れたからだって…
だったら、楽羅も誇りにしてくれよ…その気持ちを持ち続けたからこそ、今の楽羅がある事を…」
楽羅の目から一度も視線を外す事無く、そう言った慎一郎。
その言葉を聞いた楽羅の顔は、今まで苦悶に満ちて曇っていたのが嘘のように、顔から力が抜け落ち、涙をその双眸に溢れさせ、そして顔中くしゃくしゃにして、感情を押し出すように声を上げて泣いた。
「くううううっくうぅあああああああぁっううぅあああああああっ!」
声を上げて泣きじゃくりながら、楽羅は慎一郎にしがみつく。
その背中を、楽羅の告白を受け入れた時と同じように優しく叩きながら、慎一郎は言葉を続ける。
「楽羅は何もできなかったって言ったけど、俺が倒れた時に楽羅や藤原さん達が居なきゃ、俺はあそこで殺されてるか、そのまま死んでたはずだ。
楽羅はちゃんと俺を助けてくれたんだ。
俺はどんな事になっても、後悔なんてしない…
だから、楽羅も俺に関わった事を悔いる必要はない…
そうじゃなきゃ、10年近く俺の事を想ってくれた事も…
その為に必死に楽羅が努力して手に入れた強さも…
楽羅自身が否定する事になる。
そんな事しないでくれ…」
楽羅の異常なまでの能力は、普通の人から見れば天才だ何だともてはやされるだけかもしれない。
しかし、楽羅の能力も最初からここまで常軌を逸したものではなかった。
幼い頃、慎一郎と初めて会った時には、自分の小さな手の平にも満たない、そういう大きさの氷や火を発現させるのが精いっぱいだった。
それだけしか無かった小さな力を、どうやって今のレベルにまで到達させたのか…
周りの人達、同年代の生徒や学校に教えに来る講師、あるいは天切の令嬢として顔を合わせてきた多くの著名人や権力者達は、楽羅が能力者として異常なまでに特化した才能を持つ天才だから、今の力を得たのだと…そういった羨望の眼差しで見ている者がほとんどだった。
しかし、慎一郎はそうは思わなかった。
確かに才能も有るだろうが、唯単に天才という言葉で納得できるほど、楽羅の能力を甘く見てはいなかった。
なぜなら…幼い頃から【逆神の意志を継ぐ者】として、歯を食いしばって唯ひたすらに修練を積み重ねた慎一郎には、楽羅がどうやって今の力を手にしたのか…それが手に取るように分かるから…
楽羅が一体どれほどの意志を以て努力してきたのか…
友達と楽しく遊んでいられるはずだった放課後や休日、その穏やかな時間と引き換えに、一体どれほどの時間を苦痛と苦悩に費やしてきたのか…
どれだけの想いを持たなければ、辿り着けない強さなのか…
一体何度意志が折れそうになり、その度に己を奮い立たせなければならなかったのか…
唯単に天才という言葉で片付けられるような、そんな甘い表現で言い表す事自体が、楽羅にとっては侮辱にも等しい。
それほどの意志と苦しみと努力と時間…それでも楽羅が強くなる事を求め続けたのは、慎一郎との繋がりが欲しかったからだ。
幼い頃に見た慎一郎は、楽羅にとって最も大きな心の変化をもたらしてくれた存在だった。
そして同時に、自分が持っていないモノを持っている憧れだった…
普通なら、憧れは憧れのままで終わってしまうかもしれない…しかしその時の楽羅は、自分の心が軋んで壊れてしまいそうになるほどに、強く心に誓った。
その憧れに近づきたい、と…
その想いは、月日が経つに連れて…そして苦しい事が有る度に強くなっていった。
弱いままで再会したくない…
少しでも慎に認めて欲しい…
こんな所で立ち止まったら、慎はどう思う?
意志が折れてしまいそうになる度に、何度も何度も慎一郎の顔と言葉を思い浮かべて、より強く自分を奮い立たせてきた。
その慎一郎が、今まで楽羅がしてきた事を、誇りだと言ってくれた。
慎一郎にしがみつき、声を上げて泣きながら、楽羅は心の中で何度も慎一郎の名を叫んでいた…
(慎!慎っ慎っ!ありがとうっ…ありがとうっ…私の側に居てくれて…
ねえ、どうして私の…ずっと欲しかった言葉をくれるの?
どうしてそんなに私の心をふるえさせる事ができるの?
これ以上、慎を好きって気持ちが大きくなったら…どうすればいいの?
もう、こんなにも…心も感情も…壊れちゃうくらい好きなのに…
私…本当におかしくなっちゃうよ…)
しばらくの間、恥も外聞も無く声を上げて泣いて…
やがて楽羅は泣き止んだが、慎一郎にしがみついたまま、一向に離れようとしない。
「なあ楽羅?…そろそろいいか?」
慎一郎は楽羅が泣き止んだのを見て、体を離そうとするが…
「ヤダ、ダメ…しぱらく離してあげない…慎が悪いんだからね?私の心をこんなにめちゃくちゃにして…
おかげで今の私は、全人類だろうと神様だろうと、余裕で叩き潰せるぐらいの超無敵状態になっちゃったんだから」
「それって、ますます俺にとっての危険度が増してるぞ」
「言ったでしょ?私をこんなにしたのは慎なんだから…それにしても、どうして慎てばここで私を離そうとするのよ?ここで泣き止んだ私の顔を見つめて、そこから最高のキスって場面なのよ?
っていうかキスするでしょ普通。
そのままあっさりと体を離すとか、これ以上無いぐらい有り得ないんだけど」
「いやちょっと待て、俺としては早く親父さんと相談しなきゃ、智英が相手についたかもしれない以上、俺の感が正しければ世界規模の動きまで想定しないと…」
「はァ?世界ぃ?今はダメ、そういうの無し。
今の私には世界が破滅しようがどうしようが、知った事じゃ無いし関係無いの。
本当にそうなったとしても、私と慎なら生き残れるし、実際に私達ならそれが可能だわ。
それに世界が滅ぶって言っても、滅ぶのは現代文明だけよ。
人類が絶滅するとか言って騒いでも、どう考えても1割以上は生き残るだろうし、ジャングルの中に住む古くから続いてきた部族や、モンゴルの遊牧民なんかはそういう騒ぎ自体知る事も無く、国家や社会が全て潰れた後も、昨日と変わらない今日をずっと続けて生きていくわ。
何より、現代文明に依存してる人達が全滅すれば、この星や人間意外の生物にとって、これ以上無い環境改善よ。
ね?否定できないでしょ?」
「…楽羅、なんか考え方が俺に似てきてるな…」
「嬉しい?」
「いや、嬉しいとかよりも、俺に似てきたって事は…人としてダメになりつつあると思うぞ」




