楽羅を変えたもう1つの過去…
楽羅が自分の手で初めて人を殺めたのは、10歳の時だった。
その日の夜、天切の屋敷では3人の来客を招いていた。それが起きたのは日付が替わった深夜の1時過ぎ、来客の内2人が信彦を狙う刺客だった。
自分の部屋のベッドでぐっすり眠っていた楽羅は、突然の爆発音と、部屋の窓をガタガタと揺らす衝撃に飛び起きた。
その当時、屋敷にはアンチコーティングが張ってあった為、楽羅は枕元にあった護身用のリボルバーを掴むと、部屋のドアの前まで駆けて行き、ドアのすぐ側にうずくまった。
爆発音と衝撃が屋敷に走ってから、楽羅がその場所にうずくまるまで、時間にして12秒。
これほどの早さで楽羅が的確に動けた理由は、日課と呼べるほどに繰り返された身を守る為の訓練によるもの。
楽羅がうずくまってすぐ、部屋のドアが壊れるかと思う勢いで開き、1人の人影が走り込んで来た。
楽羅はとっさに身構えるが、
「御嬢様!ご無事ですかっ?御嬢様っ!」
その声はいつも一緒に遊んでくれる侍女、麻倉末代だった。
「みよ!」
楽羅はその声に駆け寄って、大好きな腕に抱き着く。
末代は抱き着いてきた楽羅をそっと抱きしめながら、声を潜めて、
「御嬢様、ここは危険です…護身用の銃はお持ちですね?今から私と一緒に、旦那様の所まで行きますよ。
できるだけ静かに、声を出してはいけませんからね」
そして部屋を出た2人は、慎重に、できるだけ素早く屋敷の中を移動して行く。
1階に向かう為の隠し階段、普段使われる事のないその扉の前まで来た時、末代は聞こえるかどうかという小さな声で、楽羅に声を掛ける。
「御嬢様、扉の影に隠れていて下さい。出て来ては駄目です」
その言葉に、楽羅が扉の側にしゃがんだ時、右側の廊下からいきなり大きな影が飛び出し、末代に飛び掛かった。
とっさにナイフを抜いた末代の腕は、大柄な男の手で壁に叩きつけられ、床にナイフが落ちる。
それを見た楽羅は、自分の持っているリボルバーの銃口を男の背中に向けて…愕然とした。
人に向けた銃の撃鉄が、これほど硬く重いものだと、その時楽羅は初めて知った。
それまで楽羅は有事の為の訓練として、銃の扱い方も撃ち方もさっきの部屋での動きと同様、体で覚えるまでに幾度も繰り返しやってきた。
だから撃鉄自体が重くなった訳では無い、人を撃つという事実に、楽羅の指が震えてしまっている。
上手く動かせない指でどうにか撃鉄を起こし、引き金に指を掛ける。
しかし、楽羅がその引き金を引く前に…
ズ…
僅かに音が聞こえて、それまで激しく手足を動かしていた末代と男の動きが、止まった。
動きを止めた末代の足下に、ヒタヒタと赤い血溜まりができ始めて…歯を食いしばる末代の口の端から、よだれと血が垂れ…
それを目にした瞬間、楽羅の中で躊躇いも恐怖も震えも、その全てが消えた…
「っあああああああっ…!!」
ドンドンドンドンドンドンッガチガチガチガチ…ガタッ
弾丸の全てを男の背中に叩き込み、弾の切れたリボルバーをその場に落として、壁に背中を押し付けたままズルズルと倒れ込んでいく末代に駆け寄り、その胸に抱き着いて、
「みよっ!みよっ!」
悲鳴のような声を上げてその名を呼びながら、力の抜けていくその体を必死に抱きしめる。
その楽羅の頬を伝わる涙を、末代の指がゆっくりと撫でて、
「…御嬢様…泣いては…ダメ…です、よ…」
「泣かない!泣かないからっ!だからっ…」
どうしようもなく溢れてくる涙を、手の甲で必死にぬぐう楽羅に、今までで一番愛おしく、優しい笑顔を見せたまま、末代の体が重くなって…
「いやだっ!いやっ!みよっみよっ!あいさつもおじぎもちゃんとする!だまって部屋も抜け出さない!…ちゃんと全部守るからっ…っうっくうっ…おねがい!
いなくならないでっ!!」
末代の体にしがみついたまま、泣きすがる。
…気がつくと、楽羅の背中に信彦の手が静かに乗せられていて、
「すまない、楽羅…末代が死んだのは私の…」
「…お父様」
楽羅は信彦の言葉をさえぎり、そのまま顔を上げずに言葉を続ける。
「みよが刺されたのを見たら、いつの間にか引き金を引いていた…もっと早くそうしていれば…私が怖がらなければ、みよは死ななかったのに!
私はみよを助けられたのにっ、それができなかった!!」
自分の歯を力の限りに食いしばりながら、
「だからもう二度とこんな事はさせないっ!
もう二度と目の前で大切な誰かを、助けられるのにそれを…そうでないと…みよがっ!」
その襲撃があった夜から今にいたるまで、誰かを守る為に、あるいは自分の身を守る為、楽羅は幾度か自らの手で人を殺めてきた…
天切という立場上、そうしなければ殺されるのは自分達だったから…
法律や良識、道徳や倫理、それらの常識や正義を例えどれほど並べたところで、あの夜末代の命は救えなかった。
あの時、楽羅が麻倉末代に対して誓ったのは、
覚悟と強さ。




