転校
「転勤?」
その日の夕方、慎一郎が昼間に買ってきたマンガを部屋で読んでいると、母の声が聞こえた。
2階のここまで声が届いたのだから、よほど驚いたのだろう。
そういえば、さっき親父が帰って来てから、何か話してたな…
そう思いながら、慎一郎は部屋を出て階段を下り居間に顔を出す。
「お、慎も家に居たのか、ちょうどいい。ちょっと来てくれ、大事な話があるんだが…」
「何だよ……親父、どっかに飛ばされるのか?」
父親である将文に呼ばれた慎一郎は、鷹揚に応えながら居間に入っていく。
「なんだ、聞こえていたのか」
「だから顔出したんだけど?」
慎一郎の横柄な口にも、将文はそうかそうかと笑顔で応え、
「なら話が早いな、来月から東京の本社に行く事になってな」
「へえ…もしかして親父、出世したのか?」
慎一郎は、素直に関心した声を出す。そこまではよかった…
母の転勤という言葉を聞いてから、慎一郎もそのくらいの展開は予想していた。
だが、次に将文の口から出た言葉が問題だった。
「すごいだろ?みんなで東京に行くんだ」
「え?…親父だけじゃないのかよ…」
「そりゃそうだ、何年本社に居るのかは分からんが、当分はあっちに居る事になるからな。俺だけじゃ正直無理がある」
それを聞いたからには黙ってはいられない、何故なら…
「俺が人混みとか嫌いなの知ってるだろ?」
慎一郎は基本的に、人がウジャウジャいるのが苦手というか、嫌いなのだ。
こればっかりは、他の人が高所恐怖症だったり、食べ物の好き嫌いがあるのと同様。
つまり、理屈ではないので克服しようというのが無理だと思っている。
だが将文は、そんな慎一郎の感情もきちんと考えていたらしく、
「心配はいらんよ、東京と言ってもウチの本社は都心からかなり離れているからな。前に一度行った時も、ここは本当に東京なのかと疑ったほどだ。
幸いその街には高校もあるから、慎もそこに通えるしな。ビルなんて、ウチの本社しか無いような所さ」
慎一郎はなるほどと思いながらも、今度は逆の疑問を思い浮かべて、
「だったら、引っ越し先のアパートとか探すの結構大変じゃないの?
話を聞く限り、田舎の方なんだろ?」
「それも大丈夫だ、本社の近くに空き家がある。慎が通う事になる高校も、3kmほどしか距離はない。自転車なら余裕だろ」
「なんか…えらく話がうまくいき過ぎてる気がするんだけど…」
慎一郎はちょっと訝しみながら言葉を返すが、
「いやいや、俺が会社にそれぐらいの条件を満たさないと転勤を断る、って断言したからな」
そこまでは得意げだった将文が、急に真顔になって、
「そんな事よりも…慎、大丈夫か?」
そう言われた慎一郎は、改めて思う。
飄々としている様に見えても、やっぱり親父は親父だ。俺達にこの話をする前に、いろいろ考えてたんだろ…
「ああ、大丈夫。何とかなるさ…」
親子なのだ、そう言っただけでお互いの考えはある程度分かる。
「分かった。お前がそう言うのなら、口は出さない」
将文はそう言って、自分の妻であり慎一郎の母でもある華澄を見る。
華澄は一度大きく頷き、仕切り直すように言った。
「なら決まりね。かなり急だけど、来週中には引っ越しを済ませてしまわなければならないわね!
慎の学校の転校手続きとか、あと役所に出す書類とかもあるし。
早く済ませてしまわないと、慎が二学期の始業式に間に合わなくなるかもしれないし」
そう、幸いにも今は8月で夏休み中。なんの問題も無く順調に手続きを済ませられれば、二学期の始業式には間に合うだろう。
そして、慎一郎にとっては転校に関してもう一つ幸いな事がある。
いや、これは幸いとは言えないか…
なぜなら、高校に入学して約4ヶ月、未だに慎一郎にとって別れを惜しむべき、友達が1人も居ないのだから…