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その後、とりあえず解散になることになった。この日は全ての部活が休みだということを思い出した。せっかくリュックサックに忍ばせたスティックは必要無いようだ。
「じゃあ、また今度」
そう言って帰ろうとした。そうすると
「ちょっと待って」
柊が声を出した。
「途中までいい?」そう聞いてきた。
ここで断ったら、入部後に何があるかわからない。渋々、と言った様子を見せないように頷いた。「いいよ。帰ろ」
靴箱にて柊が
「喋れない花木先輩がボーカルやるってどう言う意味なんだろう」
と声を出した。声のトーンで察するに独り言では無いようだ。
「手話してなかったし、喋れなくなってまだあまり経ってないんじゃない」
彼の疑問に納得のいく答えだったようで
「そうだね」
それ以上蓮のことは聞いてこなかった。
他愛のない会話を交わす。
「そういえば、浅木君、今日クラスメイトの男子にキスしたって本当?」
思っても見なかった質問だったため、一瞬呼吸を忘れた。
「…噂になってんのソレ」
「まあ、うちのクラスの女子が話してたよ」
「まじか」
そこまで回っていたとは迂闊だった。そう思いながら、訂正をし始める。
「キスはしてないよ。ちょっと怖がらせるために顎クイだけ」
彼は顔を引きつらせながら、苦笑いをした。明らかに引いている。
「その男子君のこと好きなの?」
「ないない」
多様性も随分と認められてきたな、そう思った。自分が山田のことを好きだと想像したところで鳥肌がたってきた。
「ふーん」
社交辞令にすぎないその質問の答えに興味を示すこともなく彼とは曲がり角で別れた。
彼が行く方は駅だろうか。方向的には駅だが、そうではないかもしれない。
そういえば彼の眼、見えなかったな。そう思いながら、彼の後ろ姿から目を離した。
帰る時間は、緊張と喜びの二つの感情を天秤にかけながら歩く。
家に着き、天秤が緊張に傾いたことは一度しかなかった。しかしその一度がどれほど自分にトラウマを植え付けたのかよく知っている。
そして、アパートの部屋の前に着く。恐る恐る鍵を差し込み、回す。気配で気付いたのか彼はこちらを向く。真顔だが、嬉しいと言う気持ちが顔から溢れている。声を出さない彼は手で伝える。
『おかえり』
『ただいま』
そう言葉が交わされた。
いつも思う。君には幸せでいてほしいと。
この日々が特別でないと感じていてほしい。俺のことを鬱陶しい兄とでも思っていてくれ。
唯一の肉親、弟よ、君は自分の声が聞きたいか?