天使にキスを
「やっと終わった」
もう時刻は零時を越えただろうか、そんな時間。あかりひとつ無い階段を転ばないよう登り、ぎぃ、と木でできた古い扉を開ける。目の前に広がるのは大きな三角形の窓。中心には満月が見える。ここは屋根裏部屋。ぼろぼろで、歩く度に音が鳴る板。部屋の隅にはクモの巣だってある。それでも、生活するには十分だった。
色褪せたシーツをひいた少し小さいベットに横たわる。
「疲れたな、もう」
明日になるのがいつも嫌だった。扱き使わされ、誰よりも酷い扱いを受ける毎日。
前の世界でも同じだった。学校では虐められ、家に帰れば暴力は当たり前だった。精神的に病んで自殺したのだった。当時はやってた異世界転生なんてなったら、今よりは楽になるかも、なんて信じて。
でも、差程変わりはなかった。むしろ酷くなってる。
「誰でもいいから、私を救ってくれないかな」
救いの手を差し伸べて欲しかった。負の連鎖を断ち切って欲しかった。そんなこと、もうない、か。
……もう、寝よう。そうして、目覚めなければいい。
「ほんとうに寝ちゃうの? 」
いよいよ幻聴まで聞こえるようになったか。明日は来ないかな、そしたら、嬉しいな。
「君の声を聞いてやってきたのにさ」
都合のいい幻聴だな。死ぬ前にいい事あったな。
いよいよ眠くなってきて意識を手放そうとすると
「ねぇ怒るよ? 」
思い切り顔を両手で潰された。
「!? 」
眠気が覚め、目の前には見たことの無い男性? の美しい顔面があった。意味がわからなくて、フリーズする。
「だ、だれ……? 」
やっと顔から両手が離れると、彼はすこしのため息を付く。
「はぁ。……君が呼んだから来てやったのに、その態度はないんじゃないの? 」
私が呼んだ? どういうこと?
「意味わからないって顔してるね。いーよ、教えてあげる。……僕はね、救いの手を差し伸べてあげるために来たんだよ」
え?
「そ、れは嬉しいけど、何者? 」
「うーん、悪魔? 」
にこっとする悪魔は格好が良かった。スラリと伸びた体躯に、さらさらしている灰色の髪。目は悪魔っぽく紫色をしていた。
「綺麗」
見上げて、まるでどこかの王子様のような外見に呟く。
「ありがと」
悪魔は言う。
それが私、ラフィリアと悪魔、ヨシュアのはじめての出会いだった。
ヨシュアと出会って私の生活には変化が現れた。一日の仕事がおわり、へとへとになって屋根裏部屋に行くと、必ずそこに彼がいてくれるようになった。大したことではない、けれど、私にとって大きな変化だった。
今日も屋根裏部屋に帰ると、彼はそこにいた。
「おかえり、ラフィリア」
ふんわりと笑う彼は美しくて、紡ぎ出される言葉は暖かくて、自然と笑顔になる。
「ただいま、ヨシュア」
持ってきた冷水で顔を濯ぎ、黄ばみ始めたタオルで顔を吹き、母親の唯一の手鏡で、肌をチェックする。うん、吹き出物もない。
「ラフィリアって肌、凄い綺麗だよね。特別なケアとかしてる訳じゃないんでしょ? 」
「うん。ばたばた働いてるから余分な成分は使い切ってるんじゃないかな? 」
冗談交じりに笑って言った。
「いいねぇ。僕なんか丁寧にケアしてるのに、ラフィリアには負けそうだよ」
肩を落とすヨシュア。
「いいじゃない、ヨシュアは。すんごく綺麗な顔立ちなんだから」
ほんと、憎たらしい程に綺麗な顔立ちなんだから。まったくもう。
「やっぱり? 」
ヨシュアはそうやって茶目っ気を見せた。
こうやって話すようにやってヨシュアについて分かったことは、美容に力を入れていて、お茶目なところもある人間以外の美形なナニカっていうこと。
人間でないのは恐ろしいことだけど、ヨシュアは不思議と怖くない。むしろ仲良くできた。男友達、みたいな感じで。まぁ異様に端正で、ムカつくところもあったりするけど。
最近は彼のおかげか、辛くて泣きたくなる夜も無くなった。
だから油断してた。
「何このスープ! 」
アンネリーゼが叫ぶ。夜食でも作って、と突然言われ、出したカボチャのスープが気に入らなかったらしい。
「ほんと、よくこの私に、こんなものを出せるわね! 」
「申し訳ありません。作り直します」
「そんなの要らないわよ! もういいわ、お母様に言いつけてやるから」
それはっ!
「それだけはっ! 」
ジュリアおばさんに言われたら、きっと……耐えられない。
「じゃあ、分かってるでしょ? 」
もうすっかり身についてしまったこの姿勢。深々と、頭を下げる。限界まで。そうして、立ってる足を叩かれ、痛みで足を折るのだ。頭を床にこすりつけて、アンネリーゼは私の頭を足で踏みつける。ぐりぐりと力を加えて擦り付ける。
「ほんっと、あんたって使えない。あんたなんかいなければ、こんっな不味い料理、食べなくて済んだのに」
ほら痛い? にぃとわらうアンネリーゼが目に浮かぶ。
気が済むまで、私はこのまま。足が退けられたら、最後はきっと
ばしゃ!
生ぬるくなった例のスープを頭にかけられる。髪から垂れる、上手くできたと思ったスープ。
「今度は絶対こんなの出さないで」
アンネリーゼはそう言い残し、部屋を出ていった。
……大丈夫。こんなのは前もあったじゃない。あれ、あったっけ。でも、ジュリアおばさんに言われないだけ、まだマシ。
カチャカチャと食器を流し所へ持って行きすすぐ。髪はスープのせいで固まりつつあるが、気にしない。
もうすぐヨシュアに会えると思ってたのにな。浮かれていた気分が地へと落ちる。
「ラフィリア? 」
ヨシュアの声が聞こえた。ばっ!と振り向くと案の定、彼がそこに。
「何で、ここに」
皿を洗っていた手を止める。
「スープかけられちゃったのか。髪も服も汚れちゃったね。綺麗にしてあげるよ」
すぐだからね、とヨシュアは言う。
「ちょ、ヨシュア、アンネリーゼとジュリアおばさんに見つかる」
それに、綺麗にするってどうやって?
「大丈夫だよ。僕はラフィリアにしか見えないからね」
穏やかにそう言って、あっという間に服も髪も、ついでに身体中がさっぱりとする。
「あり、がと。でも、何したの? 」
ふふふ、と笑うヨシュア。
「これは秘密だなぁ」
何よ秘密って! でも、仕方ないから今はこの顔に免じて絆されてやるか。
「それが終わったら早く来てね、ラフィリア。待ってるよ」
そう言ってヨシュアは消えた。きゅぅと胸が締め付けられた。
好きになりそう、そう思った。
「ジュリアおば様、なんでしょうか? 」
いつもの通り生活をしていると、急にジュリアおばさんに呼び止められた。黙って着いてきなさい、と言うので、ついて行く。この後ろ姿に嫌な記憶が蘇る。待って。この道、は……。
「あなた、最近アンネリーゼに反抗的なんじゃない? 」
ある部屋の前に来て、突然、後ろの私に向き睨みつける。それだけで、私は足が竦む。
「……申し訳ありません」
そんなつもりはない。でも、頭を下げて、丁寧に謝らなければいけない。そう教えこまれている。
「私の質問に答えられないの? 」
怪訝な顔のおばさん。心臓が恐怖でどっくんどっくんうるさい。何をいえばいいのか分からずに黙り込んでしまう。
「はぁ。あなたはそれだから、両親にも見放されたのね」
だんまりの私を見て、口元を隠していた扇で強めに叩く。
「それに、あの夜何をしていたの? 」
あの夜?
思いがけない言葉に戸惑う。
「流し所で私たちへの不満を放っていたでしょう。私は聞いたのだから」
ヨシュアと話していた時のことだ!
おばさんに聞かれていたなんて……
「ち、違います」
不満なんか言ってない。
必死に否定するが、ジュリアおばさんは聞く耳を持たない。
「とぼけるんじゃないわよ! 」
声量に、表情に、怒気に、恐怖が畳み掛けてくる。そして後ずさりする私におばさんはこう言った。
「反省として、この部屋にいなさい」
と。それは、いままで避けようとしていたことだった。
「い、いや」
それだけは嫌だ。
「あなた分かってるの? 自分の立場」
分かってる、痛いほど分かっている。
ずい、と迫るジュリアおばさんの顔を見ることが出来ない。
「私はあなたを消すことも出来るの。でも、この部屋に一定期間入れば、許してあげる、と言っているのよ? さっさと入りなさい」
嫌だ。そこには私がいるから、前の私が、いるから、どうしても嫌だ。
頑なに動かない私を見て、自分の意思で入ることがないのが分かると、おばさんは私の腕を掴んで引っ張り始めた。
「いや! それだけはいやなのっ! 」
大声で抵抗してみても、必死に踏ん張ってみても、おばさんを止めることは出来ない。どうしよう、このままじゃ、前と同じになる!
「いやぁあ! 」
塵芥を投げ捨てるように勢いよく、不気味な空間へと放り込む。私はどうしても入りたくなかった、その部屋に足を踏み入れさせられた。
おばさんは直ぐに扉を閉めて、鍵をかける。
「おば様! 私が悪かったです! 謝るから、出して欲しい」
「私がいいって言うまで鍵は開けないから。きちんと反省するのよ」
そう言って、カツカツと、おばさんの足音が遠ざかっていく。どうして、またこうなるの? それを避けるために、必死で色々やってきたのに。
この扉は開かない。そして、最早ずっと出して貰えない。そして、私は何度もここで死んだ。
まただ。私はまた、ここで死ぬんだ。あの辛さをまた、体験しなくちゃいけない。
周りに私のいくつもの死体が見えるような気がする。時には餓死。時には強姦されて、ボロボロになって死んだ。今度はなんなの?
絶望して、何もかもが無意味と化す。何も見えなくなって、倒れこむ。すると
「また、こうなるんだね」
「ヨシュア……? 」
暗闇の中、哀れみの表情の彼だけがなんとなく、見えた。
「知ってたよ、ラフィリアが前の世界から来て、この時間軸をループしていること」
なんで、知ってるの?
「僕天使だから」
天使? 悪魔じゃなくて?
「うん」
騙しててごめん、と言う。
「実は、空から眺めてた。ラフィリアのこと。一番最初は可哀想って思うだけだったんだけど」
ああ、この世界に初めて来た時のことだね。
「でも、何度もループするのを見て、これはきっと悪魔が絡んでるなって思ったんだ。だから、今回は助けに来た」
このループは、悪魔の仕業なの?
「そうだよ」
そうだったんだ。
「でも、助け出せなかった」
悲しげなトーンが何も無いこの部屋に響く。でもすぐに違う音が響く。
「だからその代わり、僕と一緒に天界へ行こう? 」
「なにを言っているの……」
思わず声が出た、この雰囲気に似つかない、呆れた声が。
「君をこのしがらみから救うには浄化しないといけない。浄化は天界でしか出来ないから。……それに」
「それに……? 」
「ラフィリアのこと、気に入っちゃったから」
それって。
「好きなんだよ、ラフィリア。だから、死なせたくない」
真剣な、でも少し熱っぽい視線を感じて、絶望に占領されていた心に少しずつ、温かさが広がる。一筋の希望が見えた気がした。
「ヨシュア」
彼に抱きつく。
「私を、連れてって」
私はその日、この世界から消えた。そして、第三の世界、天界に行った。
今までのことは辛すぎて、思い出したくもないけれど、ヨシュアと出会えたことは、本当に良かった。今は天界で穏やかに過ごしている。
ありがとう、ヨシュア。愛してる。
私は隣の美しい大天使ヨシュア・ガブリエスにキスをした。