第9話 お言葉に甘えて
週が明けて月曜、カレンダーは7月を終えて8月に入った日の夕方。
いつも通りのゆっくりとしたドアホンの音を受け、俺はドアを開ける。
「こんにちは、富士くん」
先日の酔っ払い姿はどこへやら。
そこには学校や補講のときに見せる凛とした表情の藁科先生が立っていた。
大きな赤いショルダーバッグは普段と変わらないが、今日は白ブラウスに黒のタイトスカート姿で、デキる女といった感が強い。
「お疲れ様です。どうぞ上がってください」
俺はドアを大きく開けて、藁科先生を部屋に招き入れた。
「先週は本当にごめんなさい。あんまり覚えてないんだけど、迷惑かけた……よね?」
部屋に上がってすぐ、藁科先生からの謝罪を受け、
「ああ、いや、まあ……」
俺はやや引きつった笑顔で返すしかできなかった。
「やっぱり迷惑かけたんだね……」
「まあまあ。あまり気に病まないでください。半分は多摩先生ですから」
「うう、慰めになってない……」
しまった。
ぼっちは国語が苦手だからな。
「これ、お詫びに買って来たの。よかったら勉強の合間に食べて」
藁科先生はキレイに包装された箱を俺に差し出す。
「美郷と二人から。『セシボン』て焼き菓子が有名なお店なの」
「すいません。じゃ、遠慮なくいただきます。今日の補講後にコーヒーと一緒に食べましょうか」
「お詫びで買って来たのに、私がお呼ばれしちゃったら意味ないんだけど……」
「かといって、一人じゃなかなか食べきれませんよ」
「……そう? それじゃ、お言葉に甘えて」
藁科先生が微笑む。
「そうとなったら頑張って補講を済ませましょう。この間出した宿題はやってあるかしら?」
「はい、やってありますよ」
「じゃ、そのチェックからいきましょう」
◇ ◇ ◇
「――うん、よくできました。それじゃ、今日はここまでにしましょうか」
藁科先生の言葉で、今日の補講は終了となった。
時計を見ると19時を大きく過ぎている。
今日は二時間近く、補講をしていたことになる。
ずいぶん集中して勉強できた。
さすがに少し頭の奥が重く感じる。
「藁科先生。それじゃ、コーヒー飲んでいきますか?」
「ありがとう。お願いしていい?」
「はい、もちろん。ちょっと待っててください」
俺は応えつつ、湯沸かし器に水を満たしスイッチを入れた。
「お菓子、開けますね」
藁科先生が持ってきた菓子折りの包装を開くと、中にはフィナンシェやクッキーなどの焼き菓子がいっぱい入っていた。
我慢できず、お湯を沸かしている間にフィナンシェを一ついただく。
しっとりとした感触に、バターの強い香りが口いっぱいに広がる。
うん、これは美味しい。
「あれ? 珍しい。彼から着信がある」
藁科先生がショルダーバッグからスマホを出してボソリと呟いた。
「珍しいって、普段はあまり電話しないんですか?」
「平日はね。彼も部活の顧問をしていたりして帰るのが遅いから」
言いつつ、藁科先生はスマホに耳を当てる。
留守電メッセージを聞いているのだろう。
「――え?」
留守電を聞いた藁科先生の顔が強張った。
「……どうしたんですか?」
藁科先生の声がひどく硬かったことが気になり、俺は尋ねた。
「う、ううん、大丈夫。――ねえ、富士くん。ちょっと彼に電話したいんだけどイイかな?」
「もちろん、いいですよ」
「ありがとう。それで申し訳ないんだけど……」
「はい、黙ってます。それともしばらく、外に出ていましょうか?」
藁科先生が夏休み中、この部屋で補講をしていることは彼氏に報告していないと聞いている。
ここで俺の存在に気付かれるワケにはいかないだろう。
「声を出さないでいてくれれば、そこまでしなくて大丈夫よ。ごめんね」
言いつつ、藁科先生は少し焦った表情でスマホを操作した。
「――あ、もしもし。留守電聞いたけど、どういうこと?」
「――どこにいる……って、美郷と食事して帰ってるところよ。なぁに? どうしたの?」
「――嘘じゃないわよ。だから、どうしたのよ。なんで急にそんなこと……」
そこで藁科先生はスマホから耳を離した。
「切れちゃった……」
「大丈夫ですか? 彼氏はなんて?」
俺の質問に、藁科先生はしばらく黙っていたあと、
「『いま、どこにいるんだ?』って」
ボソリと呟いた。
「え?」
「彼が『いま、男の家にいるんじゃないか?』って言うの」
……急に?
これまで、そんなことを疑ったこともない彼氏から?
「何してるの?」ではなく、そんな具体的な質問が?
藁科先生はもちろん、俺も言いようのない不安に襲われる。
なにか得体の知れない悪いことが起きている予感があった。
直後、藁科先生が手に持つスマホがバイブする。
「LINEだ……」
藁科先生は少しためらってから、LINEアプリを開いた。
「なにコレ⁉」
悲鳴にも似た叫び声を藁科先生が口から発した。
マナー違反とは知りつつ、居ても立っても居られず、
「失礼します」
俺は藁科先生のスマホの画面を横から見させてもらう。
「え?」
俺も、その画面を見て思わず頭の中が真っ白になった。
そのトーク画面には、俺がウチの玄関を開け、藁科先生を家の中に招き入れている瞬間の画像が貼られていたのだった。




