第3話 申し訳なかったわ
補講を行う場所で難航しかけた俺の個人補講は、俺の童貞のおかげ(?)で藁科先生に信用してもらい、夏休みに入ってから俺の家で物理の特別補講をしてもらうことになったのである。
補講の代わりに大切なものを失ったような気がするけど、童貞を失うことができたワケではないので割とどうでもいい。
「――じゃあ、次回の補講までにこのページまでの振り返り問題を解いておくように。わからないことがあったらメモしておいて。次回、解説するから」
「わかりました」
「はい、お疲れさま! それでは今日はここまでにしましょうか」
19時を過ぎたころ、藁科先生がその手に持っていた指導要綱を閉じた。
一回の補講は休憩なしのみっちり90分。
週2回の機会を無駄にしないよう、そしてあまり長い時間、藁科先生を拘束しないよう、短時間で集中して補講をしてもらっている。
「ありがとうございました。お疲れさまです」
筆記用具をしまいつつ、俺は座ったまま頭を下げた。
「富士くんこそお疲れさま。それにしても、さすが学年一の秀才ね、呑み込みが早いわ。このままならお盆休み前には物理基礎の範囲は終わっちゃいそうよ」
「ホントですか、よかった。あまり長いこと、俺の家に通ってもらうのも悪いですからね」
もう藁科先生には十分信用してもらっているが、最初にあれほど不安がっていたことを考えると、何度も俺の家に入れることは避けた方がいいだろう。
「えぇ⁉ そんなこと考えていたの⁉」
藁科先生が口元に手を当てて驚きの声を上げる。
驚き方も上品だ。
「あのときは本当に失礼なことを言って申し訳なかったわ。正直、普通科の男子って勉強そっちのけで違うことに夢中な子が多いから……。富士くんは違うと聞いていたけど、やっぱり、ね」
「いや、いいんですよ。そう考えるのが当然だと思います」
多摩先生《あの人》がとびきりおかしいんだ。
童貞だから安全だとか何とか。
だが、初めにそう言われると童貞ってやつはホントに手を出す度胸がなくなるんだな。
「信用してるからね♡」
とか言われたら、
「ぐふ♡ 俺ってば信用されてるんだ♡」
とか言ってホントに手を出さないんだろうなぁ、童貞って。
「それに彼氏のことを考えたら余計にそうでしょうし」
いくら学校の生徒とはいえ、一人暮らしの男の家に自分の彼女が週に何度も上がっていると聞けば、やはり彼氏としてはいい気持ちはしないだろう。
「……富士くん、高校生なのにいろいろ気を使いすぎよ? そんなんじゃ将来、ハゲるよ?」
「マジすか? ヤバ」
お母さんって言われたり、ハゲるって言われたり、俺は心配してるのにひどい言われようだ。
「そりゃあ、気も使いますよ。だって彼氏には報告してないんでしょう? この補講のこと」
初日の補講のときに気になって聞いてしまったのだが、この俺の家での補講のことを藁科先生は彼氏に報告していないというのだ。
「まあね。でも彼も同じ高校教師で、会うのはいつも週末だけだから。ここに来るときは美郷と仕事後に食事していることになってるし。第一、やましいことをしてる訳じゃないしね」
アリバイ作りまでして来てくれているのか。
なんだか間男みたいだな、俺。
童貞なのに。
ただ、藁科先生から彼氏に説明しにくいと言われてしまうと、そんなもんなのかと思ってしまう。
実際、俺が口を出すことではないしなぁ。
「あ、そうそう。今日は本当に美郷とこの後、呑みに行くことになってるの。ここで待ち合わせしているから、美郷がサッカー部の練習を終えるまで、もう少し待たせてもらっていいかしら?」
「それは構いませんよ。俺はコーヒーのお代わり淹れますけど先生はどうしますか?」
「ありがとう。でも、今から呑みにいくからやめておくわ」
藁科先生が微笑む。
母さんも家で美智子さんと呑むなんて日は、昼過ぎから水分を控えていたっけな。
俺がつまみを作って二人が笑いながらお酒を吞んでいる姿は、見ていて楽しかった思い出がある。
そんな昔を思い出しながらコーヒーのお代わりを淹れ、俺がそれを飲み終えるころ、ようやくドアホンが鳴った。
「はい、はい」
ドアホンの相手がわかっている俺は、気軽にドアを開けた。
「大丈夫? 私を待ってる間にエミに変なことしてなかった?」
ドアの向こうで開口一番、そう言って多摩先生が笑った。
「そんなワケないでしょう? なに言ってるんですか」
「そうよね、童貞だもんね」
「人ん家の前で大きな声で童貞とか言わないでください」
職員室や教室以外では下ネタが多くて困るな、この人。
「ごめんなさいね、富士くん。すぐ美郷、連れていくから。さあ、バカなこと言ってないで行くわよ、美郷」
ショルダーバッグを肩にかけて、藁科先生が帰る支度をする。
「ああ、いいのいいの、エミ。バッグを降ろして」
しかし、多摩先生がそんな藁科先生を引き留めた。
「え? 何を言ってるの? 今から呑みにいくんでしょ?」
藁科先生が尋ねる。
……だが、俺は二人の会話の途中で気付いていた。
多摩先生の両手を塞いでいる、大量のコンビニの買い物袋の存在を。
「いや~、考えてみたら今日って給料日前じゃない? 私、手持ちが少なくてさ。安い居酒屋でお金を気にしながら呑むぐらいだったら、コンビニでお酒買って安く済まそうかなと思って。でも、私の家もエミの家もここから遠いでしょ? だから――」
多摩先生の言葉を俺が受ける。
「俺の家で呑む気なんですね?」
俺は思わずため息をついた。
 




