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第1話 さっそく始めましょうか

 学校が夏休みに入って一週間が過ぎた7月末の17時半。


 俺の家のドアフォンがゆっくりと鳴らされた。


「はい、いま出ます」


 キッチンでコーヒーを淹れていた手を止め、俺は玄関ドアを開く。


 開かれた玄関ドアの向こうには、セミロングの明るい茶色の髪に、白Tシャツと黒のパンツ姿の女性が立っていた。

 身長はヒールを履いた状態で170cmの俺と同じぐらいの高さなので、素足で165に足りないぐらいか。

 胸はそれほど大きくないが、腰のくびれと細い脚が高校生読者モデルの梨華にはない大人の色香を漂わせている。



「こんにちは、富士くん」


 女性が微笑む。


 この女性の名は藁科わらしな 映見えみ

 理知的な顔に薄めのメイクを施している姿は相変わらず綺麗で、俺の家(ここ)で会うのはもう3度目だというのに、俺はいまだに緊張してしまう。


 

「こんにちは。今日もお仕事後なのにすいません」


 その緊張を隠すよう、俺は目線を合わせずに頭を下げる。


「いいのよ。じゃ、上がらせてもらうわね」


 俺の言葉を軽く受け、彼女は黒のヒールを脱いで家に上がった。



「遅くなっちゃってごめんなさい。ちょっと業務が押しちゃって」


 抱えていた大きな赤いショルダーバッグをソファーに置きながら言う。



「いえ、大丈夫です。バイトのない日に来てもらってますから、この後は用事ないんで」


「よかった。じゃ、さっそく始めましょうか」


 言いつつ、彼女は髪ゴムを口にそっと咥えると、長い髪の毛を素早く後頭部の下の方で一つに結わえた。

 白く細いうなじが見えて思わずドキッとし、俺はまた目を背ける。



「アイスコーヒーでいいですか?」


「ええ。富士くんが淹れてくれるコーヒー、美味しいから好きよ」


「そう言ってもらえると嬉しいですね」


 俺は先ほどのわざと濃くドリップしたコーヒーをグラスに三分の一ほど注ぎ、続いてグラスに氷をギッシリと詰める。

 氷がパチパチと音を立てて溶けていき、涼しげなアイスコーヒーの出来上がりだ。

 

 そのアイスコーヒーを2つ、学習机に置いて俺は席に座る。

 俺も彼女も、コーヒーの好みは同じブラックだ。



「お待たせしました」


「ありがとう。――それじゃあ、今日はまず一次元の合成速度と相対速度から勉強しましょうか。参考書を開いて」


「はい」


 言われて『物理基礎』の参考書を開く。



 俺は夏休みに入ってから週に2回ほど、俺の家(ここ)で彼女から物理を教わっているのである。



◇ ◇ ◇



 事の発端は俺の担任、多摩たま 美郷みさと先生である。



「富士くんは、大学は何学部を希望しているの?」


 夏休みに入る直前、期末試験の結果の振り返りという名目で放課後に職員室へ呼びだされた俺は、多摩先生から開口一番そう尋ねられた。



「……まだ具体的には決まってないです」


()()()というからには、()()()()()の希望はあるのね? 何学部?」


 グイグイくる。


 この人は女子サッカーの強化選手にも選ばれたことがあるほどの体育会系だから、こういうときは遠回りせずにストレートに尋ねてくる。

 俺はそれをこの一学期で身にしみてよく学んでいた。


「いや、ホントにまだボンヤリとですし、学費の問題もあるので……」


「いいから」


 グイグイくる(2回目)。

 まあ、仕方ない。



「……医学部です」


 俺は小さな声で答えた。

 そう、俺はいま、医学部を志して勉強をしている。



 俺の医学部志望には、大きく二つの理由があった。


 一つはもちろん、俺の義父である健太郎さんだ。

 昨年の事故のあと、小児科医だった健太郎さんの死を悲しむ子供たちが本当に多かったと、看護婦でウチの大家でもある美智子さんから聞いた。

 俺の子供じみた反抗にも怒ったことがない、穏やかな健太郎さんらしい話だ。

 そんな健太郎さんの姿を思い出すたび、俺の性格的に小児科医はムリだとしても、医者という職業は目指す価値のある職業に感じていた。



「医学部ね。4月ごろの富士くんからは、そんなヒューマニズム溢れる職業を目指すようには見えなかったけど」


「でしょうね」


「ん?」


「ああ、いえ。こちらの話です」



 俺が医者を志すようになったもう一つの理由が、死神との一連の騒動だ。


 俺は母さんや健太郎さんのこともあり、人の生死というものは人がどれだけあらがっても覆るものではないと決めつけていた。

 人というものはいつか、どうしようもなく、そしてアッサリと死ぬものだと達観していた。


 しかしこの春、自分が「イレギュラーな死」を経験したことにより俺は、人には死神さえ想定していない死があることを知る。


 それからしばらくして俺はふと、


「ひょっとして俺のような『イレギュラーな死』って、人の力で覆すことが出来るんじゃないのか?」


と思った。


 あの不可思議な経験をした自分だからこそ、その「運命を覆す」手助けをするべきなのではないかと幾分、使命感にも似た気持ちを持ち始めていた。


 消防士や警察官という命を救う仕事の選択肢もあるが、幸い、勉強だけはしてきている。

 それをムダにしないためにも、そういう仕事の中では一番難関と思われる医師を目指すのが俺には順当ではないかと考え、医者を目指すことにしたのだ。



 ……こちらの理由は絶対に人には言えないワケだが。



「まあ、いいわ。金銭的に考えれば私立大は避けて国公立大狙いよね。しかも富士くんの偏差値なら狙うのは……」


「いや、まだ志望大まで決めるのは早いと思うんですけど」


「とか言いながら、あなたの中では決めてるんでしょ?」



 グイグイ来るなぁ、今日はホント。



「となると共通テスト、二次試験ともに受験は理科が二科目必須よね」


 頭の中で考えている大学名は、どうやら俺も多摩先生も同じらしい。

 恐らく俺の学力的に、すでに入試について下調べをしてくれているとわかった。



「特進科なら一年から理科を二科目学べたんだけどね」


「そうですね」



 枳高校カラコーの理科の履修については、一年次は『生物基礎』が必修科目になっている。

 普段は6時間授業で夏休みも赤点以外の補講がない普通科では、一年生は『生物基礎』の授業しか受けられない。


 だが特進科は7時限授業だし、夏休みなどの長期休暇中には特別補講が一か月ほどある。

 そのため希望する生徒は、一年時から『生物基礎』以外のもう一科目『物理基礎』『化学基礎』のどちらかを学ぶことが可能なのだ。

 そして高二からは『生物』『物理』『化学』の専攻科目を学んでいくこととなる。


 つまり普通科の俺は来年、特進科に転科できたとしても、理科で特進科のクラスメートたちに一歩、二歩先を行かれることになる。

 国公立医学部に進学するつもりなら、俺も高一の間に基礎科目二つを抑えておきたい。



「一応、『物理基礎』の参考書を買って個人的に勉強はしてるんですけども」


「まあ、富士くんなら独学でもある程度は理解できるんだろうけどね……」


 多摩先生は俺が持ってきた『物理基礎』の参考書を眺めつつ言う。


「一応、夏休みだけでも特進科の補講に出席できないか、特進科に掛け合ってみたのよ」


「え、ホントですか?」


 多摩先生って頑張る生徒はサポートすると言ってくれてるけど、ホントに親身になって動いてくれるな。

 ありがたい。

 この間、失恋したらしいと風の噂で聞いたけど、どこの誰がこんないい人をフッたのだろう?


「門前払いされちゃったけどね」


 多摩先生は納得いかないように鼻から大きく息を吐いた。



 まあ、それも致し方ないだろう。

 特進科に普通科の生徒が混じるなんて聞いたことないしな。



「かといって、はいそうですかって引き下がっている訳にもいかないでしょ? だから独自に手を打ちました」


 そういって多摩先生が『物理基礎』の参考書を持ったまま椅子を立つ。


「物理準備室にいくわよ」



◇ ◇ ◇



 俺と多摩先生は並んで物理準備室前に立った。


 物理準備室といえばふた月ほど前、ここで梨華からとんでもない告白を受けた場所だ。

 そう考えると何となく縁がある場所のような気がしてくる。



 多摩先生が準備室の引き違い戸を軽くノックすると、中から女性の声で返事があった。

 それを確認すると多摩先生は勢いよく準備室の戸を開けた。



「エミー! 噂の彼を連れてきたよー!」



 いや、ちょっと。

『噂の彼』ってなんですか?

 しかも、なんだかクラスで普段見せてるキャラじゃない喋り方ですけど。



 そして、そんな多摩先生のペースを無視してキリッとした美人が机の書類から少しだけ目を上げた。



「学校でエミって呼ばないでって言ってるでしょう?」



 これが俺と藁科映見先生の出会いである。






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― 新着の感想 ―
[良い点] 暗示が使えるなら、精神科医とかなったら有利だね
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