第1話 どうかしてるのよ
夜の公園でクラスメートの矢作 梨華を救った騒動から二か月足らずが過ぎ、6月も終わりに近づいたある日。
窓の外では梅雨のジトジトした雨が、ここ数日降り続いている。
一時間近く徒歩で通学している俺にとって、雨の中での通学はとても辛い。
部屋干しでは洗濯物も乾かないし、気持ちまで暗くなりがち毎日である。
やれやれ。
そして、俺の気持ちが暗くなっている理由はこの雨のせいばかりではない。
梨華からの唐突な告白で大きくペースを崩されかけたものの、先月行われた中間テストでは無事、俺は普通科の学年1位を取ることができた。
しかし、以前、俺が在籍した成績優秀者が集まる特進科を含めた学年全順位では13位という結果に終わった。
まだ学校に通っていた昨年の中間テストでは学年全順位で1位が取れていたことを考えると、だいぶ成績を落としてしまった。
テスト範囲は昨年とほぼ変わりなかったので、やはり一年間のブランクが大きく響いていると見ていい。
「マジか……」
テストの結果一覧を見たとき、俺は思わず呟いたほどだ。
たしかにテストを終えたあとの手応えも、昨年までと違って不安な部分も多かった。
しかし正直、覚悟していた以上の順位下降である。
7月頭に控えている一学期末テストを前にして、気持ちが沈みがちになるのも仕方ないではないか。
◇ ◇ ◇
「学年13位だったら来年からの特進科1組への転科は問題ないと思うわよ?」
中間テスト後、職員室で成績の相談に乗ってもらった担任の多摩 美郷先生からはそう言われた。
特進科は一学年で5クラスあり、成績順に1組から50人ずつの生徒がいる。
簡単に言えば、俺は枳高校で成績トップの特進科1組50人の中にいたとしても上から13番目の成績だったということだ。
それだけの成績を取れていれば、来年高二からの特進科転科は問題ないとは言える。
「富士くんに一年間のブランクがあることは学校側も十分承知しているのよ。本来、特進科トップクラスの生徒にしか与えられない授業料免除を普通科になった今年まで延長しているのは、もちろん昨年の事情を考慮しているのもあるわ」
多摩先生が指の上のボールペンをリズムよく回しながら続ける。
「けど一番大事なことは、学校側も貴方に期待している部分が大きいということよ。だからよほどのことがない限り、今の成績のままいけば来年は特進科へ戻れるわよ」
たしかに今年一年間の普通科での生活は、両親を亡くした昨年の事故から立ち直り、また高校生活に馴染むための猶予期間のような位置付けだと俺を担任していた特進科の先生は言っていた。
そこまで学校が俺なんかに期待してくれているのは本当にありがたいことだが……。
「でもそこまで期待してもらってることを考えると、今回の成績は学校側にとって物足りない結果だと思われたりしないですか?」
俺は多摩先生に尋ねる。
昨年1位だった俺の成績が13位まで落ちているのだ。
学校上層部の期待を裏切っているとも言えるのではないか?
「それに、俺にとって本来の目的は転科ではなく授業料免除ですから」
枳高校は私立なので、一般学生の授業料は高額だ。
特待生の授業料免除のおかげで親のいない俺でも枳高校に通えている。
これでもし来年、特進科への転科が実現出来なければ、いや、もし転科が出来たとしても物足りない成績のせいで授業料免除が中止されたりしたら……。
いくら医者だった健太郎さんからのまとまった遺産があるといっても、分不相応な授業料を避けるためには公立高校への転入まで視野に入れざるを得ない。
授業料免除が受けられるから枳高校を選んだのだ。
別に勉強はどこでだってできる。
どうせぼっちなのだ。
どこに行こうと変わらん。
「なに言ってるの。一般生徒を相手にしている普通科担任の私から言わせてもらえば、昨年の特進科1位って成績自体がどうかしてるのよ。しかも何よ、この成績。特進科の中でもぶっちぎりの1位じゃない。マサチューセッツ工科大にでも行く気?」
多摩先生が、俺の持ってきた昨年の中間テストの結果一覧を手の甲で叩きながらボヤいた。
成績が良くてどうかしてるって、その言い方もヒドいと思う。
ていうか、この程度の成績でMITはムリだ。
ああいうところは俺のようなガリ勉のおかげで成績がいいような人間ではなく、もっと根本的に頭がよくて、それでいて努力できる人間がいくものだ。
「ウチの特進科の偏差値知ってるでしょ? その特進科の生徒も含めて13位よ。全国でも余裕でトップクラスの成績じゃない」
「そうでしょうか……」
俺の不安はなかなか拭うことが出来ない。
「まあ、特進科は毎日7限目も授業があって細かいところまで授業を掘り下げることができるからね。6限までしかない普通科の授業だけでは、特進科の生徒よりも不利な部分があることは仕方ないことよ」
多摩先生が俺の成績表を見ながら言う。
先生に言われた通り、俺の今回の中間テストは細かい部分での失点が多かった。
昨年の特進科の授業では、その辺りの知識不足やケアレスミスを徹底的になくす指導が多かったことは記憶している。
そうなると普通科の授業や個人の頑張りだけではカバーしきれないから、塾や予備校に通わざるを得ない。
かといって塾や予備校なんかに金を使っていては本末転倒だ。
なにより『飛行艇』のバイトと両立して予備校なんて通えない。
「久しぶりの試験で少し硬くなっていた部分もあると思うわよ。あまり気にしなくて大丈夫!」
俺の肩をバシンと叩いて大笑いしながら先生は俺を励ます。
英語の先生なのに励まし方が体育会系。
さすが女子サッカー日本代表の元強化選手だ。
「ただ中間よりも学期末テストの方が結果を重視されることは間違いないわ。気を抜かないように頑張ってね」
「わかりました、頑張ります。それじゃ、失礼します」
頭を下げて職員室を去ろうとしたところ、
「あ、富士くん!」
多摩先生がもう一度、俺を呼び止めた。
俺が立ち止まると、先生は手元のメモに素早く何やら英語を書いて俺に渡した。
「……なんですか? これ」
「英語の期末テストの長文問題に出る原文が載っている洋書のタイトルよ」
「え⁉ いいんですか、そんなの教えてもらって」
「答えを教えるんじゃないし、どこの部分が出るかまでは教えないわよ。でも一度、原文を読んでおくだけでも違うでしょ。本はウチの図書室にあったはずよ」
「あ、ありがとうございます……」
俺はメモを見ながら言った。
「頑張る生徒は徹底的にサポートするのよ、私は。さ、教室に戻りなさい」
「はい。失礼します」
俺は再び頭を下げた。
今度は、さっきよりも深く。
先生の期待に応えられるよう、頑張らなくては。




