第13話 ごめんね
「ごめんね、翔悟。明日から私たち、苗字が興津に変わるの」
俺が小三の夏の終わり。
親父との離婚が成立した母さんは、俺たち親子が母さんの旧姓に戻ることを申し訳なさそうに俺へ告げた。
「ごめんねなんて言わなくていいよ、母さん。『興津 翔悟』ってカッコいい名前じゃん! 母さんも『興津 ゆき』になるんだもんね!」
俺は、当時まだ火傷がなかった額を大きく見せた笑顔で答える。
子供心に両親がすでに修復不可能なほど不仲であることは感じ取っていたし、酒を飲んでは母さんを殴るクソ親父なんか大嫌いだったから、両親の離婚を悲しいという想いは本当になかった。
しかし、悲しくはなくとも問題はある。
「この家は出なくちゃならないし、たぶん転校もしなくちゃいけないの……」
俺たち親子にとって親父はクソであったが、仕事面においては外資系企業でバリバリ働いていて収入は結構あった。
また母さんも看護士で働いていたので、当時のウチは親子三人で住むには不釣り合いなほど、広くて家賃の高い家に住んでいた。
だがいくら仕事ができようと、下半身はトコトンだらしなかった父親は、よそに女を作って家を出て行き、離婚が決まると連絡が取れなくなっている。
そのため養育費などはとうてい期待できなかったし、かといって母さん一人の稼ぎでそれまで住んでいた家の家賃は賄えない。
俺と母さんは早急に引っ越しすることを余儀無くされていた。
そして収入に見合った土地に引っ越すとなると、俺が当時通っていた小学校はそれまで住んでいた高級住宅街に近い学校だったので、恐らく小学校も転校せざるを得ない。
今ほど人と話すことが苦手ではなかったこの頃、俺にも数人、親しい友達がいた。
その友達とも別れることになる。
母さんは、それらのことも含めて「ごめんね」と言ったのだ。
正直、友達との別れは嫌だった。
だが――
「構わないよ。転校だって平気!」
それを理由に母さんへ負担を強いるのは、もっと嫌だった。
「ありがとう、翔悟」
言いながら、母さんは俺を強く抱きしめてくれた。
親父から受けた覚えのない愛情を母さんは二人分、いや、それ以上俺に注いでくれた。
友達と離れ離れになろうとも、母さんがいてくれればそれだけで俺には十分だった。
◇ ◇ ◇
「富士さんって、前は興津って名字だったんですか?」
矢作が尋ねる。
「ああ。母さんの旧姓だけどな」
「じゃあ、富士って名字は……お父さんですか?」
「そうだな。父さん、だ」
◇ ◇ ◇
そんなある日、母さんが職場の病院で同僚たちに引っ越しの相談をしていたところ、
「あら。ゆきさん、やっと離婚するの? じゃ、ウチのアパートに来なさい」
当時、看護士長だった美智子さんが横から急に母さんに声をかけてきた。
「……え? ウチのアパートってどういうことですか?」
「どういうこともなにも、私の持ってるアパートよ。両親から生前分与でもらったアパートがあるの」
「ホントですか⁉」
「こんなこと、冗談で言ってどうするの。私の資産で主人もノータッチの物件だから家賃も勉強するわよ」
美智子さんが母さんに提示した額は相場の三分の一ほどだった。
「ええ⁉ こんな金額でいいんですか?」
「構わないわよ。私はこの仕事が好きで働いてるから、今からそんなに不労所得があっても意味ないの。かといって空室のまま置いてあると維持管理費もかかるし」
「ホントなら、すごく助かるんですけど……」
仕事ができて厳しい先輩でもあった美智子さんだったが、当時、まだ母さんとはそれほど親しいわけではなかった。
そんな美智子さんからの、ありがたくも突拍子もない提案に母さんがためらっていると、
「このままじゃ息子さんと二人、路頭に迷っちゃうんでしょ? 選択肢はないはずじゃない」
美智子さんは笑いもせずにハッキリと言った。
「ゆきさんのこと、仕事ができる割に男を見る目がない子だと思っていたのよ。でも別れる別れないは本人の決めることだからね。結論が出るまで私の出る幕はないでしょ」
「……見る目がないって」
ハッキリ言われた母さんも、心当たりがあるだけに反論が出来なかったらしい。
「でも離婚が決まったのなら私が出来ることはしてあげるってだけ。あ、外観は古いけど、中はキチンとリノベーションして綺麗にしてあるから心配しないで」
「なんだか至れり尽くせりで恐縮してしまいますけど……」
母さんの言葉に、
「あなたのような優秀な看護士を失うことはこの病院にもマイナスでしかないし、私も仕事が増えて困るもの」
美智子さんはそう言って、初めて笑ったそうだ。
数週後、俺たち親子が美智子さんの所有するアパートに入居する日。
俺は大家さんとなる美智子さんと、その後ろに隠れる女の子と初めて出会った。




