第18話 どこにもいけない
「アイツだわ! 翔悟くん、とりあえず寝室の方に隠れて!」
俺を寝室に押し込んで戸を閉めると、くるみは玄関ドアのカギを開けに走った。
ここから先の描写は、寝室の俺にはもちろん見えていない。
引き戸越しに隣のリビングから聞こえる音で想像しているだけだ。
「チッ……開けるのが遅かったな」
玄関から入ってきた男の声には、神経質そうな尖った響きが含まれていた。
これが課長の声か。
こういう言い方と声の先生、いるわー。
生徒のミスは糾弾する癖に、自分のミスは棚に上げるタイプ。
もう声だけで嫌いだわー。
だってまず、人の家に舌打ちから入ってくるなんて頭おかしいでしょ。
何様なんだよ、コイツ。
母さんから生前、女性には優しくするように散々言われてきた俺としては、課長の態度は一番嫌いなタイプのものだった。
「……別れる相手を簡単に家には入れたくないですから」
くるみがボソリと言った。
「もう一度、言います。課長、私と別れてください。これまでのことは私にも隙があったのだから、仕方なかったと思います。でももうこれから先、こんな関係は続けられません」
くるみが言葉を続ける。
しかしその声はか細く、絶対に別れるという強い意志を感じられなかった。
……仕方ないか。
このクズと別れると必然的にくるみは会社を辞めざるをえなくなるんだし。
なかなか決心はつかないよな。
「ハッ! どうせ口だけだろ? 俺と別れたら自分がどうなるか、わかってるはずだ」
ほら、クズにもくるみの苦境はバレてる。
現状、彼女の力ではどうすることもできないってことをクズは見透かしてやがるな。
「うちの会社で働きつづけたければ、俺の言う通りにしていればいいんだ。気持ちイイ思いもさせてやるよ」
クズが下卑た声で言う。
ホントにクソだな、コイツ。
不倫云々は別として、会社を盾に脅迫しなきゃ女性も繋ぎ止めておけないのかよ。
――ま、俺なら繋ぎ止められるのかというと、そんな自信はまっっったくないけど。
「……だったら私、死にます」
くるみが呟いた。
「ああ? 何を言ってるんだ」
クズの声に、怒りの空気が混じった。
予想の斜め上をいくくるみの言葉にイラついているようだ。
しかし、くるみも今度は怯まない。
「このままあなたとこんな関係を続けていても、結局、私はどこにもいけない。だったら、自分で死ぬことだけは選ばせてもらいます」
おいおい。
段々とくるみもヒートアップしてきちゃったよ。
さっきの自殺未遂の経緯もあるから、ちょっと自暴自棄になってるのか?
でも、自殺したら三途の川永久放浪コース確定なんだぜ?
せっかく死神とリリィが救おうとして、俺が一度死んでまで守った命なのに。
「ど、どうせ、それも口だけだろ!?」
課長が強がったが動揺は隠しきれていない。
くるみの口調が、さっきまでの自信なさげなものとはガラリと変わったからだ。
彼女の声は激しくないものの、強い決意を感じさせる声色だった。
「そう思うなら、それでいいです。私がどれほど苦しんできたか、そのときに課長にもわかってもらえるでしょうから」
くるみの言葉は、ついさっき事情を聴いたばかりの俺にも重く響いた。
それは、形を変えたくるみの悲鳴だった。
知らぬ間に不倫の相手にされ、別れたくても別れることができなかったくるみの、まさに命を懸けた訴えだった。
ここで課長が反省して、くるみと別れる選択をしてくれればいいんだけど……。
「クッ……! そ、それならそれでいい! お前が黙って死ぬのならば、お前との不倫が明るみに出ることもない。また、お前のような世間知らずのお嬢様をつかまえればいいんだ!」
こいつ……。
自分でクズっぷりに磨きをかけている。
だが、くるみも負けていない。
「まさか、私がただ黙って死ぬと思っているんですか? そのときには会社の方にも、課長にされたことを告発して死にますよ。あなたの役職に影響はなくとも、今後、私と同じ目に合う女性はいなくなるでしょうね」
くるみはとどめの一言を放った。
く、くるみさん!
気持ちはわかるけど、ちょっと刺激しすぎじゃないかしら!?
こういうクズは逆上すると見境なくなるもんだよ!
「な、なんだと⁉ そ、そんなこと、ゆ、ゆ、許さんからな!」
案の定、クズが逆上した声を上げると同時に、物がガタッと倒れる音がした。
「キャッ! 離して! やめてください!」
くるみの抵抗する声が聞こえる。
その音は否応なく俺に、小学生の頃のイヤな夜の思い出を蘇らせた。
あの、母さんがクソ親父に殴られる思い出だ。
――この物音は暴力沙汰になる前兆だ!
マズい!
俺は慌てて寝室の引き戸を開けた。
そのとき、ちょうど目の前でくるみがクズに肩を押されて床に倒れこんだ。
「うわ! な、なんだ、おまえは⁉」
クズがオレに気づき、目を見開いて驚く。
俺もクズ課長を初めて見たが、その姿はなんだか予想と違った。
くるみの話を聞いて、てっきりチョイ悪親父風のモテ男を想像していたが、クズの外見はメガネ姿の冴えないおっさんでしかなかった。
きっと、外見で惹かれたワケじゃなくて、あくまで内面で好きになったんだろうな。
くるみらしいや。
悲しいかな、その内面が虚飾されていたことに気づけていれば……。
「お、おまえ、コイツの男か⁉ だから、コイツは俺と別れようとしたのか!」
いや、俺よりも先におまえが押し倒したくるみの心配をしろよ。
「違います。てか、そんなことより先に心配するべきことがあるでしょう?」
俺はくるみの傍に寄って、倒れたまま動かない彼女の上半身を抱き上げる。
くるみの小さな口からは静かな呼吸音が聞こえた。
ふう、よかった。
どうやら気を失っているだけか。
さっき死んだ俺と違って、打ちどころが悪かったなんてことはないようだ。
死神とリリィは、当分くるみが死ぬ予定はないと言っていたけど、やはりヒヤッとするよな。
「その恰好は、おまえ、こ、高校生だな!? 高校生と交際するなんて、この女、い、淫行じゃないか!」
クズは相変わらず吠えつづけた。
口角泡を飛ばし、俺を指さしながら騒いでいる。
「いい大人がキャンキャンとうるさいですね。いくら年下だからって、初対面の人間を指ささないでください。失礼ですよ」
俺の中ですでにこのクズは最底辺の評価だったが、一応、こちらはマナーとして丁寧語を使ってやっている。
さもなければ仮にも関係がある女性のことを、一度も名前で呼ぼうとしない男なんかと会話もしたくないのだ。
「高校生のクセに生意気だな!」
「尊敬できる大人相手なら、こんなことは言ってませんよ。くるみさんはケガをした俺を介抱してくれただけです。俺たちはあなたの疑ってるような関係ではありません」
関係しそうだったのは内緒だけど。
「そ、そんなワケあるか! いや、そんなことはどうでもいい。会社だけでなく警察にも通報してやる!」
「はあ? 本気で言ってるんですか? 警察に言ったって、俺たち何もないんだから恥かくだけですよ」
「本当に付き合っているかどうかなんて関係ない。『淫行していたのかも』と疑われるだけでコイツの立場は悪くなるんだ」
火のないところに無理やり煙を上げる気か。
「それがイヤなら俺と別れなければいいんだ! そうすりゃ、黙っててやるよ。お前とやってたって構わないしな。お前からもコイツを説得しろよ」
クズが俺に提案してきた。
ああ、コイツ、もうダメだ。
笑顔が歪んでやがる。
「……これ以上、あなたと話す気はありません」
俺は一言そう言ってから、自分の額にかかった前髪を掻き上げ、嫌々ながらクズと目を合わせた。
そして、大きく手を叩いたのだった。




