第29話 安倍 奈那の独白
「それじゃクオーレのみなさん、スタンバイお願いします!」
楽屋の扉を開けた番組の担当ADの方が声をかけにきた。
「はーい!」
私が在籍するアイドルグループであるCuoreの、私以外のメンバー三人が一斉に席を立つ。
「……」
でも私だけは、なかなか腰を上げることができずにいた。
「ナナ、行くわよ。どうしたの?」
クオーレのリーダーである関 陽菜さんが私の肩に手を置いて尋ねた。
メンバーで一番年上である二十歳の陽菜さんは私のよき先輩で、この世界でのお姉さんともいうべき存在だ。
「ちょっと不安でドキドキしちゃって……」
私は正直に答えた。
仕事を無断で休んだあの日々から二週間ほどが経った九月上旬の日。
今日は久しぶりの歌番組収録だ。
私が失踪したとニュースになった日の翌日。
私は事務所へ連絡を入れ、すぐにメンバーや事務所、そして仕事に穴を空けた現場へ謝りにいった。
みんな、怒るよりも先に私の身体を心配してくれた。
騒がれはしたものの期間が短かったこともあり、体調不良で病院に入院していたという話に収まった。
だが今日は、仕事に復帰して以来、初めてファンの前に姿を出す日だった。
無責任に仕事を放りだした私を、ファンの皆がどう思っているか。
ここ数日は怖くてSNSも見れていない。
「ファンの皆に受け入れてもらえるかどうか心配で……」
不安を口にすると陽菜さんは、
「うん。それはナナの自己責任だから覚悟しないとね」
ハッキリと答える。
「もちろん、私たちもフォローするわよ。実際、無断で休む直前のナナは本当に調子が悪かったことも、帰ってきてからのナナがとても頑張っていることも、そばにいる私たちはよくわかってる。あのときナナがああいう形であっても休んだことは、結果的に見て正解だったと思うわ」
陽菜さんの言葉に、他の二人のメンバーが頷いた。
「でも仕事を無断で休んだことは事実なんだから、そこでファンから否定的な意見が出たとしても仕方ない。それだけのことをしたと自分でしっかり反省をしなさい」
陽菜さんのメンバーにかける言葉はいつも厳しい。
でも陽菜さんは、その言葉に応えられる人にしか厳しく言わない人だ。
そしてクオーレは、そんな陽菜さんが一緒にやっていけると思えた子しかいないグループでもある。
この厳しさは陽菜さんの期待の表れでもあるのがわかっているからこそ、頑張らなくてはいけないと思う。
「……はい」
私は膝の上の手をグッと握りしめる。
その手を、陽菜さんや他のメンバーが上から握ってくれた。
「いくよ!」
もう一度、陽菜さんに声をかけられて、私は息を吸い込み、
「はい!」
と立ち上がった。
そのままの勢いで、皆と走ってスタジオに向かった。
◇ ◇ ◇
『収録、無事に終わりました』
私は収録スタジオから事務所へ戻る移動車の中で、お兄ちゃんにLINEを送る。
私が心配したのとは裏腹に、ファンの皆は私の復帰を心から歓迎してくれた。
申し訳ないという気持ちと、また頑張ろうという気持ちにさせてもらえたことは、本当に感謝しなくてはいけない。
お兄ちゃんへ送ったLINEメッセージの横に既読マークがつく。
しかし、返信は返ってこない。
お兄ちゃんとの同居を解消してから、私はことあるごとにLINEを送っている。
でも、返信が返ってくることはほぼなかった。
例え一方通行だろうと、お兄ちゃんへの連絡は届いている。
それが分かるだけでもいいと思い、私はスマホをしまった。
お兄ちゃんに仕事を無断で休んでいることがバレたあの日。
私はお兄ちゃんと、お仕事や父の話をしてから、急に疲れが出たのか眠ってしまったらしい。
夜遅くに帰ってきたお兄ちゃんに起こされたとき、私は自分が裸でお兄ちゃんに迫る夢を見ていた。
目の前でお兄ちゃんを見て、思わず私は顔が真っ赤になってしまう。
「親父と話してきた」
身体を起こした私に背を向けたお兄ちゃんがそう言った。
「え!? お父さん、どこにいたんですか?」
「玲奈さんが親父の行きつけの店を知ってたから、ダメもとで行ってみたんだ。そうしたら会うことが出来てな」
お兄ちゃんは洗面所で手を洗いながら続ける。
「もう親父のことで心配はいらないよ」
洗面所にいるのでお兄ちゃんの顔は見えないが、少し声に元気がないような気がした。
「父は……どうするって言ってました?」
「もう、玲奈さんのところには戻らないって言ってた」
「そう……ですか」
分かっていた。
お母さんとお父さんの間には、もう修復不可能なほどの溝があるということは。
「お母さん、寂しがるだろうな……」
私の言葉に、
「いや、大丈夫。玲奈さんも、このままじゃ奈那にもよくないと考えて離婚する覚悟を決めていたよ」
洗面所でまだ手を洗っているお兄ちゃんが答えた。
どこに行ってたんだろう?
なんだか、ずいぶん手を長く洗ってるけど……。
……て、ちょっと待って。
「え? 母も離婚すると言ってたんですか?」
私は、お母さんはずっとお父さんに帰ってきてもらいたいはずだと思ってたのに。
「ああ。今日の昼間に会ったときに、そう言っていた。奈那とお母さんはお互いのことを考えすぎて、逆にすれ違ってたんじゃないかな。一度、ゆっくり話し合ってみたらどうだ」
「……そうですね。そうします」
お母さんのために良かれと思って、お父さんからの「食事」の話を受けようと思っていた。
でもお母さんがお父さんと別れるつもりなら、もうそんなことはしなくて済む。
お兄ちゃんもその件でお父さんと話してくれたらしいし、私はここ最近、ずっと引っかかっていた心の重しが取れたような気持ちになった。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「いや、逆に俺の親父が迷惑をかけて悪かったな」
洗面台から手を拭きながら帰ってきたお兄ちゃんが、私に向けて頭を下げる。
「な、なんでお兄ちゃんが謝るんですか⁉ お兄ちゃんは何も悪くないのに」
慌ててお兄ちゃんに言った横で、私はお兄ちゃんの手を見て驚いた。
「お兄ちゃん、手が真っ赤ですよ⁉」
洗面台でずっと手を洗っていたから気になったのだが、やはり手を洗い過ぎたか、そのあと手を拭きすぎたのか、お兄ちゃんの手が真っ赤になっているのだ。
「ん? ああ、気にしなくていいよ。なんか汚れてるような気がしてさ」
私はそこで、ようやくお兄ちゃんの顔を見た。
お兄ちゃんは何やら虚ろな目で、とても疲れた顔をしていた。
「だ、大丈夫ですか?」
私がお兄ちゃんの手を取ろうとした瞬間、お兄ちゃんは自分の手を急に後ろへ引いた。
お兄ちゃんの手を迎えに行った私の手は、おかげで宙に浮いたような感じになった。
「お兄ちゃん……?」
まるで私を避けるようなその仕種に、私は正直、傷ついた。
それと同時に私は、自分がお兄ちゃんを異性として意識しているのだとわかった。
傷ついた、と感じたその心自体が、私の恋心を証明していた。
「あ……ご、ごめん。いや、俺、汚れてるからさ。――奈那が触ったらよくないよ」
お兄ちゃんは私の目を見ることなくそう言った。
「今日はもう遅いからアレだけど、明日には玲奈さんのところへ帰った方がいい」
「は、はい……」
お兄ちゃんに何か良くないことが起きたのは、私にもよくわかった。
でも、お兄ちゃんは当然、私にその内容を言うつもりはないらしい。
私の好きな人がとても傷ついて、とてもショックを受けて帰ってきている。
それなのにその相手から拒絶されて、私は何の力にもなってあげられない。
お兄ちゃん。
あなたは、父とどんな話をしてきたんですか?
私が迷惑をかけたんですか?
私はあなたのために、何かしてあげられないのでしょうか?
私がそう言葉をかける前に、
「じゃあ、おやすみ……」
お兄ちゃんは、私のいる居間と自分の寝室の間の襖を静かに閉じた。
それは、それ以上自分に踏み込むな、というお兄ちゃんの強い意思のように感じた。




