9.神秘
間抜けな自分が、ほとほと嫌になる。
彼女は器用に駆けてくれた。枝がひゅんひゅんと顔を掠めて、私は首を上げられなくっても、彼女はやっぱり駆けてくれた。駆けて、跳ねて、駆けて、歩いて……気がつけば、止まっていた。
川が、彼女の俊足を躊躇わせたらしい――濡れたら、エマちゃんだって冷たいです――振り返らずにはいられなかった。
森の中、彼を置き去りに!
先に行け、と言われはして、どこまで行くべきかわからない。でも置き去りはダメ、彼をひとりにしてはならないのだけ、わかる。
だから私は、彼女の背を降りて、引き返すつもりだったのか。これまでやった試しもなく、上手な降り方も知らないで。
彼女が進みを止めたのは、彼女が一息に跳ぶのも簡単そうな川のほとり。澄みきって何をも見通せる、ひとすじの川。鐙を滑らせた私が、落ちた川。
水底で足を捻って私は、大きな悲鳴を、とっさにあげた。
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フラン、いっそうのびしょ濡れである。助言にしたがい手綱を握っていたのが幸い、頭から降りるのは避けられた。川底につく尻もちだった。
さんざ雨に打たれての始末。いまさら水気に何を怯えよう――想像以上の冷たさである。春来たりて間もない森の小川だ。長く浸かっていたくなどないが、あたり濡れた苔に手が滑る。痛む足をかばって、砂利に転げた。うまく抜け出せず困っている。
「フランーっ!」
まごつく間にも聞こえてくる、既に親しむあの声だ。彼が来たなら助けてくれる、つい浮かぶのに首を振った。
――これくらい、自分の力で。
むりに立とうとするからいけない。舐めるくらいの流れはきっと雨の子ども。這いつくばれば、ひとりだろうと。
「フランッ!大丈夫!?」
繁みを蹴散らしゼンは跳び出でた。見つけるのが、泥と落ち葉にまみれたフランである。きょとん、と息つく一時だった。座り込むほか、異常はなさそうだ。傍に駆け寄る、どうしたのっ。
「ちょっと、足を滑らせて……」
「えっ!どこかぶたなかった!あたりに何か出なかったっ?」
尾を振るエマにも事情を聴いた。納得してゼンは、フランの足首を診る。
痛む?曲げられそう?ここを触ったらどう?さっきよりずぶ濡れだ、冷たいでしょ。前の冬が寒かったから、とくにね。ほら、水筒の中だってまだ。
ゼンはよごれを落としてやる。震えきってしまわないうち、相棒の背から毛皮をおろして被せてやる。かぞえるほどの荷のひとつだった。冬の間のエマの馬着で、まるまる一頭茶熊の皮だ。フランもすっぽりおさまった。
「川のつめたさは……ふれても痛いほどじゃないね。まだ陽もあるし、風はしずかだ。火をおこすまえに場所をうつそう。気持ちのいい場所だけれど、動物たちも好むから」
葉を撫でてすべる滴りだけが、ふった試練の名残であった。ほとりの緑はさほど繁らずに、だいぶ傾いだ木漏れ日が、潺湲な小川を煌めかせた。
「ゼン、どうして私たちだけ……」
行けと追われた事情を知らない。熊にくるまったフランの頬で、神秘の赤が輝いた。濡れた黒髪とはりついている。
「"オキャク"がいたんだ。僕らにむかって来てたから、戦うことにした」
「オキャク?戦うって……」
「岩オオカミって魔獣だよ――」「ゼンっ、血が!」
無意識だった。戦いの跡をゼンはちらと見て、フランをいよいよ動転させる。まとわりついてみえるのは、木の葉でなくて、裂かれた袖だ。指先をつたう水が黒いのは、森陰がみせる錯覚ではない。
「怪我をっ?痛っ……!」
「あぶない!」
疾風のごとくゼンは抱き支える。足を悪くしたのも忘れて、転倒しかけたフランであった。
「つづきは休める場所でしよう。このあたり、なんだか見覚えがある……"聖域"が近いよ」
「え、あの"聖域"ですか――」
正しい少年がまた正しさを重ねるなら、いつの間にやら逆戻り。とっくに過ぎた場所のはずで。
「きゃっ!?」
動転に、困惑に、驚愕だった。フランをみまったのは浮遊感。ゼンのいかにも細腕に、いともたやすく抱き上げられる。
「これなら足も痛まない」
「お、重たくないんですか?」
「ふふ、鹿にくらべたらずっと軽いよ……つっ」
傷が相応に深かった。身に不相応の怪力は、歩み出してすぐ顔をしかめた。
「いけないっ!自分で歩けますからっ」
「せめて肩をかすよ。エマもほら、手伝って」
ちちちっ。舌を鳴らしてゼンは呼ぶ。清水をいつまでも啜っていたエマが、おや、と首を振りながらやって来る。
一行の旅立ちに、いちばんのろい歩みであった。
「……あんな簡単に道を見失うなんて」
「森の神秘でしょうか」
「神秘……森が神秘を使うの?」
「なんとなくですけれど……居場所もおかしいですし、もしかしたらって」
「そうだね……やっぱり、知らない森はこわいや」
ときどき立ち止まって薪の料を探してみるが、雨に沈んだあとの森である。乾いた枝など、見つかるはずもなかった。
「ほんとう……お昼と同じ場所ですね」
「むしろよかったかも。夜だって、ここなら心配ない」
空が橙に燃えはじめている。"聖域"の印象もちがって見えた。足跡、蹄跡、枝をあそんで作った模様が、湿気た土に残るから、同じ場所だと知れはして、ご機嫌な陽もそよ風も、碧空とともに去っていた。夕冷えの時間であった。すぐにもっと冷たい、夜闇の暗黒が訪れる。
「まずは火だ。うまくいくかな……」
そこらに転がる平たい石は、老商人も使った台座だ。組み直し、枝をのせ、どう熾そうかとゼンは迷う。どこも湿り気たくさんだ。自前の火口を持ち出したとして、火の気が勝ってくれるかどうか。
「火なら私が!」
フランは張り切り、かってでた――今こそ私が役立てます。
火の神の村の、火の神の子は、"火の神秘"をその身に宿している。神子が擦った指先には、小さな火が灯っていた。大きくはない、されど炎である。風がそよいでも揺らがない。芯の強い輝きであった。
神秘の火は、つまれた濡れ枝と触れ合ったなら、あっという間に赤く飲み込んだ。ふつうの火なら、こう燃え盛れるか。
ばちばちっ。炎がはじけ、脅かしてくる。料の水気がふんだんだからだ、怖くない。
「たすかるよ」
「あなたの怪我を早くみないと……」
「布を巻いたから平気だよ。血も止まってる、骨も折れてない。動くんなら大事ないって――」
「いけません!ちゃんとみせてください」
「フランだって怪我したでしょ」
「ゼンが先ですっ、私のは血も出てませんっ」
フランは座りをずらして、ゼンにぴたりとくっついた。破れた袖をまくって、黒く染まった布をそっと剥がす。思ったよりも出血が多い。傷口が、露わになる。
言葉も何も失った。まさか噛み傷だとは聞いていない。
「……引っかかれたんじゃ、ないんですね」
「コテをつけてたんだけど、枝がちょっとね、食い込んで」
「こんな、こんなになって、どうしてそんな……」
なんでもないよう笑うのが、フランにはとても信じられない。
なんだってそうだ。
この少年は、無茶苦茶なことを、誰だって泣いて叫んで、逃れたくなることでも、ぜんぜん平気だという顔でいる。
わかったつもりでいたけれど、まったくわかっていなかった。
ゼンは信用できる。信用したい。でも、彼の具合について、彼が言う「平気」は、今かぎりぜったい、信用しない。フランは思った。
その腕にせよ、噛み傷なのだと知ったって、「オオカミ」とまで聞かなければ、一体全体なんのあとだ。惨たらしくて、ぐちゃぐちゃで。皮膚がなかった。肉がむきだしだ。血は、たしかに止まっていたけれど、ささくれた枝に抉られたままだ。
フランはちらり、顔色を見やった。少年の額を滴り落ちるのは、なんの名残だ。まさに苦痛の脂汗だ。ほうっておけば彼の腕は、腐って使い物にならなくなる。
「"治癒の神秘"を、使います……!」
今度はフランの番だった。言い放ってみて、安堵した。捻った程度の自分の足に、使わずにいて、心底よかった。日に何度も使えるものではなかった。
「これでも神秘で治せるの?」
「治せますっ、だから――」
「じゃあ、フランの足も治せるね。歩けないと、明日から困っちゃう」
「っ……!」
フランは面食らう。動揺を飲み込む――仕方ありません。火熾しの勝手だと、彼は思ってるんです。
「……ゼン。治癒の神秘を、知っていますか?」
「おばばにみせてもらったよ。曲がった脚に使ってくれた。痛いのはぜんぶとれなかったけど、向きがよくなったから、すぐ治った」
「そ、そうですか……」過ぎし日に彼の浴びた苦難を思うが、ひとまず今だ。フランは続ける。「ええ、治癒の神秘は傷を癒せます。ですが私のそれは、おばあ様のと違うんです……」
たしかにフランは授かった。"火の神の村"の育て手に、当代神子として授かった。しかし過程は苦いもので、得てなお苦く思っている。つまり性質だ、違えることを、育て手は褒めて良しとしたが、フランはずっと払拭できない。ゆえ、告げるのには気後れだった。
「……日に一度しか、使えないんです」
聞いてもゼンだ。あどけない。
「ふうん……」ときた。治せるんなら、なんだってすごいや。それから。
「だったら、フランに使おうよ」
など、使い手のこころを、よけいかき乱す。
「なにをっ!聞いてましたかっ。一度しか、使えないんです――」
「うん。明日になれば、また使えるってことでしょ?」
「そ、それは……」
「エマの乗り降りだって足が悪いと難しいし、いざというとき危ないよ」
「うう……」
そうじゃない!フランはすぐさま叫びたかった。
叫べなかった。
堪えていた。ひたすら劣等感だ。ただでさえひがな一日、足を引っ張った。
「足のけがって、ほんとうに大変だ」
僕もそうだったから、と苦くほほえんで、正しさを重ねる少年だった。
そうじゃない。フランは叫べなかった。
いつだって正しい少年が、いかにも正しそうな何かをまた、押しつけようとするからだ。
――どこから……どこからでしょう。彼の正しさが、あやまって重なりだしたのは。
整理する時が、フランには要った。
私はよりにもよって、足をくじいた。旅に不可欠なはずなのに、自分の下手で悪くした。
ただでさえ私は、彼の旅路を遅らせている。
私なんか置いて、ひとりなら彼は、どこへだって行けるのに。
ゼンは正しい。私を治せば、せめてもを取り戻せる。ひどい怪我を、ほうったままで。
どうして。
私は神子、彼は守手。
私が下手で負うあいまに、どうして彼だけがひどく負ったのか。
どうして、をここで明らかにしないと、きっとあやまりは重なり続ける。私はもどかしい、いつまでも。
だから。
彼には少しだけ我慢してもらおう。私じゃ耐えられない痛みを知り続ける彼に、ごめんなさい、ではすまないけれど。
私の治癒は日に一回。育て手とは違う、そのかわり、今日の内に負ったのなら、どんなひどい傷だって綺麗に癒せる――癒してみせます。
聖域に、炎が爆ぜた。
「あのっ」
「うん?」
「どうして、ひとりで戦ったんですか!」
「戦いになると、君やエマが危ないと思ったから」
また正しさを重ねる守手の少年。もっともであった。「戦い」なるものを、フランは知らない。本や人づてに覚えて知るだけ。生まれながらに、神子は神子である。火の神秘が使えて、治癒の神秘が使えて、それだけで、神子守の儀を通じて成った、村一番の戦士とは違う。
――だけれど。
戦い方など知らないが、戦う術なら持っている。フランは、いかにもな正しさに怯まぬよう、おのれを真っすぐつらぬいた。これだってひとつだ。
「それならそうと!危ないからと、まずはひとこと教えてくださいっ」
「彼らが近かったから、時間がなくって――」
「わたしはっ!ゼンと違って、どんくさいです。からだも強くありません。ひそむ危険に、あなたみたいには気がつけません……だけどっ、何かが迫るとわかっているならっ、私も一緒に立ち向かいますからっ!じっさい、どうやって戦うかも、私は知りません。あなたといても、ただの足手まといなのかもしれませんっ。それでも、それでもっ、私だけが逃げるのは違います!
私、火の神秘が使えます。村の誰だって扱えない、大きな火だって、熾せます……!
巡礼がはじまって……火の神様の御許から離れたからには、危険があるのは承知のうえです。あなたが退けたオオカミが、"試練"だったのかどうか、私にはわかりませんけれど、試練でも、試練じゃなくても、関係ないんですっ。危険と出くわしたときに、あなただけが犠牲になって、私だけを逃がそうとするのは、どうかやめてください……っ。私は神子で、あなたは神子の守手です。神子は、守手とともに、苦難を越えはしても、押しつけるっ、押しつけるようなことが、あっては、なりませんっ……だから、だから――」
「わ、わかった、わかったよフラン。だから、そんなに泣かないで……」
大泣きだ。ゼンは参った。とめどない涙を見るのは、朝から二度目にしたって慣れない。勢いよく話すうち泣き出してしまうのは、おばばにそっくりで――やっぱり似てる、家族なんだ――漠然と照らし、ちょっと羨ましくもなった。
「ほんとうに、わかってくれましたか……?」
「うん。次になにかあれば、まずは教える。かならずね」
「お願いします。私、役に立てるよう頑張りますから……!」
危険があれば逃げるのが良い。できず戦いを選ぶなら、まず守るべきものだけ逃がす。まったくゼンの癖だった。例の三人組が、エマばかり狙うので身についたのだ。岩オオカミにも、同じ要領を発揮したまで。戦いを知らないからと、フランをあなどるつもりはなかった。望むとなれば、こばめない。
ゼンが思うに、たいがいは慣れだ。なんにだって、はじめてはある。馬にまたがるのだって彼女ははじめてで、こわがりつつも――降り方はさておき――できるようになった。一緒に立ち向かうことだって、気持ちがあるならできたはず。納得しつつ、最後には浮かべた。あれ、どうしてこんな話に?
「それでですねっ……!」
もとはといえば治す順だ。じくじくとする左腕を、ゼンは思い出したくなどなかった。話の間、寄りそうあたたかさが、いくらも気を紛らわしてくれた。
「何度も言うよう、私の治癒は日に一度です。いま使うなら……次はまた明日の暮れになります。この足で、私はたしかに歩けません。でもっ、あなたの腕の方がずっとひどくて、痛そうで、とても長くは……次の夜までほうっておけません。だから、私のわがままを聞いてもらいます。先に治すのは、あなたの方です。エマちゃんがまた乗せてくれるなら、道ゆきだってなんとかなります。今日より手間取るかもしれませんが……」
「ぶるふん!」
「ふふ。きっと、いいよ!って言ってくれてますよね?あなたがダメっていっても、ゆずりません。森で逃がされた仕返しです」
「わかった、わかったよ。フランが言うなら、そうしよう」ゼンはとにかく、泣かせたくなかった。「僕はどうしたらいいの?」
「心構えを。神秘で傷は綺麗に癒えます。けれど治す間は、傷を負ったときほど痛むんです。驚いて私から離れないようにしてください」
「わかった。そういえば、おばばのもそうだったかな?痛いのは慣れてる、よっぽど平気だよ」
無邪気な笑顔に悲しくなるのを、フランはやめにしたかった。思うに――この旅と同じです。今日や明日では、なにも変わらないかもしれません。だから、これははじまり。さいしょの一歩。
フランは手を、かの無惨な傷口にかざしている。もう片方で、少年の手を握っている。
「……では、はじめます」
「うん、お願い」
治癒の神秘に、"諸人の御言"は伝わらない。育て手と当代だけで共有される秘術である。習得に要するのは、とにかく「互いの傷の治癒を試みる」、これの繰り返しであった。
治癒の鍛錬が、フランは大嫌いだった。育て手ネルラの治癒は、一日に何度も行使できるかたや、育て手自身を治せない。ネルラがみずから、しわくちゃの肌を、切ったり焼いたりしたあとは、フランでないと治せないのだ。
老婆の腕は傷だらけだった。どれほど練習してみても、フランの治癒は日に一度だった。やがて当代にあって然るべき制約なのだと明らかになるまで、つまり、「如何なる程度の傷であろうと、完璧に治せる」その代償なのだとわかるまで、どれだけフランが苛まれたか。
恥ずべきところはないはずだ。もしもネルラが居合わせるなら、きっと孫娘をよく励ました。わしゃにゃ治せん深手じゃって、よくやったねと、
並々ならぬ集中が要った。フランが瞑目するのに、ゼンもならっている。
ひとつ感覚を閉じきると、ほかの全てが研ぎ澄まされる。少年少女がともにいた。
フランは、焚き火のはねる音をよく聞いた。すえた臭いがして、気にならなかった。つよく手を握った。
もっと多くを、ゼンはとらえた。しげみを行き交う小動物。火のにおい。濡れた土のにおい。すぐ隣にある甘いにおい。ふれる、聖域の火のあたたかさ。ふれる、誰かのあたたかさ。つよく手が握られた。異変を認めた。まぶたは、開かないままでいた。
神秘とは何か、火の神の子は考えない。あるがままをただ受け取って、なせるがままに使う。ゼンの左腕に、それは現れた。
ささくれたザザの木片が、ひとりでにぱらぱら抜け落ちた。
とまっていた血が噴き出すも、ごく少量で、すぐにやんだ。
削れた肉が着実に、かつてのかたちを取り戻す。ゆっくり、ふくらみ、もりあがり、肌色がおおう、閉じきった。
傷痕は、すこしも残らなかった。
痛みが始終ともった。ゼンが感じたのは、逆順である。時と場面を、鮮明に結びつけられる。それらは。
聖域の炎の前にして、じくじくしだした執拗な痛み。
小川へ出でて、興奮になかば忘れつつあった、にぶい違和感のような痛み。
森を駆けながら、布を強く巻き、唸りも漏れた、不快な痛み。
敵が最後の力を振り絞って離さなかった、押しよせる熱のような痛み。
腕の中で大暴れをされた、もっとも鋭く、荒々しい痛み。
籠手が砕けて刺さった衝撃、来たるだろう痛みの予感。
そして、消えた。目をひらいた。
「すごい……」
「はい、おしまいです」
どうしてフランがふたたび泣くのか、ゼンには理由がわからない。困った。先ほど腫らしたのとは別だろうか。やっぱり足が痛むのか。わからないけれど少年は。
「ごめんなさい。守ってくれて、ありがとう」
やさしく抱きしめられると、何もかも安心できた。涙が自分のせいではないと思えた。それから、それから。
フランの方が背で勝った。包み込むような抱擁だった。
あたたかい。
焚き火の熱はもたらしてくれない、人の心のあたたかさ。
ひとつの陽が昇って沈むうち、これほど人にふれ、ぬくもりを感じたのは、焼けて色褪せた向こうにしかない。最後に抱きしめられた日を思い出して、胸の中、ゼンもしずかに涙した。