8.最初の試練
「いい調子だね、かたくならないで」
「はい!」
たかたかたかたか、と響く蹄音が心地よい。鹿毛の背にフランはまたがっている。にこやかに振り向く少年を、とっくに親しく思っている。
――おばあ様の言った通りです、なんて頼もしい子なんでしょう。
よもや出会いが今朝だとは。はじめこそ、ちょっとした恐れがあった。猛々しく聞こゆ戦士長を、ほかならぬ戦いで倒しめたその実力に、もしや苛烈にして人疎き性をかねるのではないかと。
杞憂であった。
ふれあえばわかる。彼に満ちているのは幼さ通りの純真だ。はかりしれない強さを秘めてこそいて、全てが、旅路に向けられている。
フランは見ている。エマの速歩も忘れさせるほど、ぐんぐん先んずる、小さな背中。疲労も、ためらいも、戸惑いも、これっぽちとして感じさせない。追えたなら、いずれ"さなかの町"、そして。
――もっとずっと先を、ゼンは見据えてます。強い気持ちが彼にはあるんです。私が"巡礼"を成し遂げたいのと、負けないくらい、強い気持ちが。
目的一致も重ねてだった。旅の道づれに抱くのは、姉たちもかくや信頼感。ゼンの存在は、ゆく道を照らす日向として、ぬくもりをもたらしてくれて良かった。もっと良かった。この陽を遮る、後悔の暗雲さえ膨れてこなければ。
――私は彼を……御許で助けてあげられなかった。
わずかだろうと、あらかじめ知れたはずではないか。イージス家の長男の、孤独と過酷の境遇を。今さらだろうか。今日のその人を、頼りにするせず関わらず、いかにかして救いの手を、もっと差し伸べられなかったか、などと。
――ゼンはひとりで過ごした日々を、なんでもないみたいに教えてくれました……。
エマがずっと傍にいた?鷲頭の狩人と一夏をともにした?結ばれる絆を知って、なお足りない、とフランは思った。真の孤独とは何かを語るのに、義祖母と義姉に囲まれた暮らしの立場とは、恵まれ過ぎで、決めつけるのが勝手で愚かだとしても、なお足りないとフランは思った。
ゼンは、村で迫害される存在だった。帰る家がなく、食卓に食べ物が用意されることなく、寒さや人に脅かされて、暖かく安心に眠るのも許されなかった。いったい、いくつの夏を重ねた少年だ。全部、なんてことないよう彼は言うけれど。ぜんぜん、苦しくなかったよと微笑まれたなら、本心かなと首を斜めに振ってしまいそうなほど、彼はたくましいけれど。
――彼の見たものが苦しみでなくて、この星の何が苦しみなんでしょう。
フランは馬上で、ずいぶん思い悩んだ――私は、謝るべきなんです、彼に。だけど、いつ、どうやって、どんな顔をして、どんな立場で?――唇を噛んでいる。
対してゼンは、見上げてやがて、フランのなんとなし浮かない面目に勘付くものの、まだまだ馬上が怖いのかな?と、すでに通りいっぺん終わらせた助言を、やさしく繰り返してやるだけだった。それは旅路にやっかいをもたらすだろう別ごとについて、野生の能で察知するまで変わらなかった。
というのも。
いつの間にやら、誰かの内面から抜け出してきたかのよう、空に暗雲が立ち込めつつある。
「雨の匂いがする。降りだすかも……」
正しい鼻だった。
ぽつり、ぽつり。かすかな雫が頬を打つ。このくらいなら平気かなとは、はじめの二人と一頭だったがしかし、徐々に、確かに、強まっていく。すでに空色を塗って重たく低く、満ちる窮屈な鈍色だ。なにやら不吉の予兆を蓄えている。
これからもっと強くなりそうだね――経験は、眉をひそめて振り向いた。
「脇の木陰をつたって行こう、葉っぱで少しでもしのげるよ。おいで!エマ」
冷ややかな春先の雨だった。続く一条の道は、幅こそいくらか開けてきても、見渡せる先に町影は認められない。それどころかいや、雨脚が強い、を通り越して激しい、にもなって靄靄と景色を支配する。先を掴むに掴めなくなる。
道端に、生い茂る枝葉をゆうに突き抜ける雨粒が、一行の肌をせめ立ててやまない。さながら夏の嵐の様相で、進む歩などは必然、遅くなる。
「よくないね。もうすこし、繁っている方によけようか……」
本当は深く潜りたくないけれど――不安げにゼンは言うけれど、一も二もなくフランは与した。まぶたもあかない豪雨であった。
ゆっくりと、繁みの奥へ。"一条"を横目にたもって一行は、木々の小径を探して行く。降り止む気配を、雨は見せない。
「ん……フラン、なにか言った?」
「え!いえ、何も言ってません!」
ゼンは額に手傘を作った。目を細めては辺りを見渡す。
「なにか、聞こえましたか!」
葉を打つ雨音、尋常ではない。夏の祝宴の鼓にも勝るか激しさである。張り上げなければ、互いの声も聞き逃す。
「――が……」
「なんですか!?」
「いや!なんでもない!気のせいだと思う!」
彼が言うならそうなのだろう。フランはそれ以上、気にかけなかった。ゼンは鼻が良ければ耳も良い、きっと彼方に雷でもとらえたのだ。
しばらく、ざあざあでは生易しい雨に打たれ続けながらも、火の神子フランが気丈にいられたのは、守手の少年が、町は遠くないはずだよ、と何度も励ましてくれるからだった。神秘の子として、ここまで一抹も感じずにいた、不穏が、忍び寄る気配を感じなかったと言えばまた、偽りになる。
事態が変わったのは、不意だった。
雨、森、どれほど歩んだ。
エマが嘶き、取り乱す。
「え、エマちゃん!大丈夫ですかっ?」
たてがみを暴れさす濡れた鹿毛。歩みをやめて地団駄を踏む。蹄で泥をこねだしている。
振り落とされこそしないでフランは、やさしい背中の興奮に、並々ならざる必死さを気取った――何か伝えようと……!?――解せるだろうゼンを見れば、まさにハッ!と。
「しまった!」
「どうして……えっ!」
降りしきっていた雨が、不気味なほど唐突にやんだ。
やむのは。
気味悪かろうと、良いはずだった。
より大きな、看過できない異変に、少年少女は目を見張ったのだった。
「道が、ない」
顔を上げれば、ここは、まるきり森のまっただ中だ。見渡す限り、木、木、木。"一条"、あの延々と切り貼りしたかの道は、どこと見つけるに、かなわない。前も、後ろも、右も左も、まるで最初から森であったかと、完全に、視界から消え失せてしまっている。
「ごめんっ、僕!ちょっと目をそらしたけど、まさか、それだけでこんな……」
ゼンはひとまずエマを撫でしずめる――これを教えてくれたんだね?――ぶふん、ぶふふん。
「私もずっと横目で見てました!ゼンのせいじゃ――」「待って!」
指を立てゼンは、すかさず瞑目。両の耳にそれぞれ手を当てがう。フランもわかった、聴きたがっている。固唾を飲んで、ただ見守る。
「なにか来る」
ぐるり。あたりを聴き澄ましたあと、森の子は唱えるのだった。
ところで。
"火の神の村"に、とある言い伝えがある。
村に掟が敷かれて当代、多くの夏が巡ったことだ。今や"火の神の御許"の人間は、一握の例外を除いた誰しもが「外」へと出るのを怯える為に、掟を知悉する老い人すら覚えずに、廃れてしまった、古い古い、言い伝えがある。曰く。
◆
火の神の子よ。
見知らぬ森に入ってはならぬ。
雨見て森へ入ってはならぬ。
雨産む瞬き、光を奪う。
雨音、打つ音、聞こえなくなる。
粒うてば、風、閉じられて。
雨、濡らし薫る。どこでも同じい。
拐かす。彼ら、拐かす。火の神の子を拐す。
悪戯の妖精、くすくすわらう。
火の神の子を食らわばわらう。
見知らぬ森に入ってはならぬ。
◆
居場所を転じて全部が済めば、どうにでもしよう、ゼン・イージスが。森にもまれた少年に、場所の都合など些事だから。どれだけ深い緑でも、進むべき道を見つけ出そう。雲が晴れるならなお容易い。しるべが輝き、こと欠かない。
だが、どうした。
不自然な闇に包まれた森だ。
――いつから?
ゼンは焦燥に駆られている。フランはこれで見えているか、はたまた自分だけなのか。まだ陽の時分であるはずだ。雨曇りの森であったとて、あまりに黒く、狭すぎる。
――夜でも、もっと見えるのに。こんな近くしか……!
目に頼れない。耳をとがらせた。わかる。遠くとらえた、生き物の集い。口にした――なにか来る。
どうしてわかる?森に暮らしてきたからだ。生き物の蠢く気配、普段と異なる音の集まり方、そうした要素にゼンはとても敏感だった。
「フラン、そっちの方向だ、そっちへ行くんだ」
「えっ、はい……こちらに道が、あるんですね?」
鷲頭の狩人は、見習いに教えてくれた。
たとえ言葉が通じ合わずとも、身振り手振りで伝えてくれた。
森に生きるなら、これだけは知らねばならぬと、らんらんと目を光らせた。
狩人は、戦ってはならない。
獣と戦ってはならない。
獣は、追うものか、罠にかけるものである。
獣同士がするかのように、人は、肉と肉とでぶつかってならない。
けして戦ってはならない。
もしも危険を感じたのなら、立場が転じたと察せたのなら、いち早く、力の限り、逃げるのだ。
――ああ。そうできたなら、良かったけれど。
「エマ、任せたよ。僕が追いつけなくっても」
「ぶふん?」
「ゼン?どういう……」
吐き出されかけの疑問たちをよそ、ゼンは愛馬の背から、銅剣の革鞘と矢筒をもぎとっている。「もう行って。できるだけ、速く」おぶった弓と、ずだ袋をおろす。重たく、まとわりつかれていた、雨のしみこんだ外套に。
「ま、待ってください」
「あとから僕も行くから」
「あとからって――」「行って!行くんだ!」「……!」
襤褸をその身から剥ぎ取って、少年のうちに、戦う自分が湧き立っている。
鬱蒼としたトグゥの向こうは、枝葉がなしえる影に増し、異様な暗さで満ちていた。音に掴むだけは遠くない、泥をはじいた爪の鳴り、しめって荒い息遣い――ひとつやふたつじゃない、たくさんだ――鼓動がはねる。全身を力が駆け巡る。
"オキャク"だ。彼らを躊躇わせないのは自信、いいや、きっと飢えなのだろう。留まれば、命の取り合いだ。選ぶべきは「逃げ」、ひたすらに。しかし。人の脚は獣を撒くのに鈍重で、馬もまた森を全速力で駆けられはしない。
――エマがいくら丈夫で速くたって、フランと荷をのせてちゃ無理だ。
森。気を抜けば根に躓くし、足元ばかりでは枝に眼をやられる。腹は括っていた。
――遅いか早いかだ。フランとエマ、どっちも守るには、やるしかない。ここで。
肌寒いはず。冬のあけて間もない、陽の差さぬ木陰に全身が、じりりと火照り、降られたのとは別に汗が滲み出て、つぅっと頬を伝う気がした。
雨露の滴る葉が香る。濡れた苔が澄まして香る。朽ちた落ち葉が澱んで匂う。混じって微か、花蜜のよう、甘い香りがする。異質で、咄嗟に、その源を見た。
エマにたどたどしく跨ったフランが、まだすぐ傍にいるではないか!エマが不服に鼻を鳴らす。語勢に気圧されてフランがまばたく――ゼンの観察と黙考は全て、まばたきの間のことだった。
――ここにいちゃだめだっ、早くやつらと反対へ!
「行けぇ!」
叩かれてエマがヒィンと嘶く。蹄がぬかるみを打ち抜いた。器用な駿馬だ、木立を縫っては駆けるだろう。馬首にしがみつく少女の悲鳴は、聴き取れたとて、戦士の意識の外だった。
猶予はない。けれど皆無ではない。まだ備えられる。ゼンは備えてみせる。
トグゥの群れにザザの木を見出していた。手頃な枝を何本か拝借する――トグゥの方が丈夫だけれど、太すぎるし、かたすぎだ。使える形には、すぐできない――ずだ袋のなかの麻紐は、いつでもすぐに取り出せる。あて布に、枝を五、六本ならべてまとめて、左腕へと巻きつけた。粗製ながらの籠手である。たいした強度を持っていない。巻きつけ方も適当で、ふるって解けねば上等だ。使うもしもに、はたしてどれほど役立つか――右もほしいけど……――距離をはかって諦める。
籠手を作りにしゃがんだ合間に、こぶし大の石に目星をつけた。しっかり硬い。たしかめて、すぐ足元まで引きよせる。
慣れない道具はない方がいい。譲られた鞘は、いかにも使いづらい。銅の刃を引き抜いて、トグゥのずんぐりした根の間にさしこむ。ほとんど直立してくれた。
三本が、旅に持ち出した矢の全て。必要ならいくらでも拵えよう、だが今ではない。手製のそれらを引き抜いて、ひび割れた矢筒をよそへ放った。
おろした弓を、手に取っている。足幅を取る。一本の矢を、軽く番える。あとの二本は、弓の持ち手に握っている。弦を引く。前へ、構えている。"オキャク"へおよそ、狙いを定める。
深呼吸。
匂いがした、ちょうど、獣の臭いだ。臭う距離まで、"オキャク"は来ている。
近いがしかし、間に合った。
備えとはしばし戦いより長く、生死の根ざすところである。
森の闇中へ、矢が放たれる。当たると射ち手が思っていない。目を瞑り、音を頼りの第一射だ。当たりを得ず、効果は得た。避けたのだろう、乱れた、獣の足音が。そして晴れた、視界が急速に広く取れる。溢れていた暗さが何の仕業か、定かにする術などゼンにはないが、明るさ、もとい薄暗ささえ、常に戻ってくれればそれで満足、集中、観察できた。"オキャク"たちの姿が今や露わ、遠目にしても狩人には判ぜる。
――岩オオカミだ。
御許にはいない、魔獣の類だ。老商人から聞いている。
ハイイロキツネほどの小柄な狼で、鼻根から尾の付け根、そして四つ脚に、かためた泥の鎧をまとう。知能が高く、好戦的。つがいの二組、計四匹で、群れ一つと成し、狩りをする。まさに迫る影、かぞえて四つ。
泥の鎧は硬いのだそう。頭や背に矢は通らない。ならばとてゼンは構わない。二の矢を、とうに番えている。狙いは鎧のない、鼻っ面か、眼だ。
定めて、放つ。
オオカミは根っこや段差を跳び越え、幹は躱して駆けている。絶え間なく描く無軌道だ、狙い通りとは到底いかず。
弾けた。
一匹の前脚にあたったのだ。けれど鎧は矢じりを取り合わない。雨でふやけたりはしていないらしい。
やはりとてゼンは構わない。すかさず番え、狙い澄ましてある。最後の矢だった。もう一本、多くがもしもあったとして、放つ機会は訪れなかった。
飢えた獣らが、迫りに迫る。跳びかかるにも、今や今か。
されど撃たない。
絞った。
左右に一匹ずつ散った。挟み撃ちを狙っている。正面が近い、二匹来る。
されど放たない。
待つ、まだ待つ、まだ絞る。
正面のうち一匹が、いっそう力強く地を蹴った――今!
射った。
矢が、正鵠に突き立った。跳んだ獣のひとみを抜いた。
――よしっ。
少年はよくわかっていた。地上に生きる動物はひとたび、大地から足を離したのなら、決まった軌跡にしか跳べない。飛ぶ鳥も射る狩人の端くれに、ここ一番は外せない。
剣も届かん距離にて弓だ。やっと仕留めたのが一匹。二匹目など、間髪入れずに跳びかかっている。矢はもうない、剣を取るには遅すぎて、弓なら既に握っていた。
叩きつける。鼻づら目がけ思いきり、弦が鳴りやまないような弓を。圧し折れ、手製が音をあげる。泥に転げる怯み鳴きがある。
遠からず、左右からも来る。
一歩、剣を握るため脚を運んだ。左手側から三匹目が来た。
喉笛めがけて跳ぶのだろう。ゼンは視界の端に影を認めると、素早く、首筋を腕で抱えて守った。直後に重たい衝撃だ。大人の木剣よりも堪えた。籠手のある左が先だったのは、幸運以外のなにものでもない。
首がだめなら腕を食らってやる。暴れ、暴れる三匹目。重心を奪われないうちにゼンは、右手で剣を引き抜けている。激痛が走る。易くなかった。荒ぶる力を、なんとか読んで利用した。前傾、腕ごと地へ抑えたら、獰猛が隙に見せた腹を、すかさず膝で踏みつけた。
「ぐぅッ!」
抵抗は苛烈。空をこれでもかと裂く爪々。服が破れる、擦り傷がなる。ツン、と強烈に鉄が匂う。火で焼かれるほど左が熱い。
全て無視だ。
意識は右へやっている。屈んだ己の頭上にまさに、降りかからんと四匹目。右の剣を、ゼンは掲げた。跳びかかって来るその腹へ、ほとんど添えるだけだった。よこされたのは、なまくらだ。斬るには能わず、鈍器に近い。だが、切っ先だけは、切っ先の形をしていた。あまねく剣と同じく、頂に備えるひとつの鋭点こそ、剣士の欲する必要十分だった――木剣よりは、ずっといい。
なまくらが深く突き立っている。オオカミの腹を貫いている。悲鳴が上がった、絶命の悲鳴だ。跳びかかろうと試みるから彼ら、無防備をさらす他にはないのだ。
どしゃり、剣と死骸が泥に沈む。
右手を遊ばす暇はなかった。なにせどうしてくれる、左に噛みついているのは。千切られる前に対処が要った。顎が暴れる、暴れている。抑えつけても、お構いなしだ。剣はなまくら、すぐ抜けない。ちょうどこぶし大の石なら、ここに転がっている。間に合わせた、最後の武器だった。
ぱっ、と握ってみたのが実際、ドロやフンの塊であったら、腕はこのまま食いちぎられた。得るのは、丈夫な石だった。
ゼンは打ちつける。岩オオカミの頭に、石を打ちつける。矢ならば弾こう泥の鎧は、打たれるのには強くなかった。二度か、三度で、骨がひしゃげて、岩オオカミはキュインと叫ぶも、手をゆるめずに殴り続けた。腕をくわえたままの叫びだ、いかなる躊躇が生じるものか。さらに五回は殴ったところ、頭骨が白くあらわになった。中身が飛び散り、頬に返り血、それからだ。もう暴れないのだとわかって、ようやく打つのを止められた。
慌てて顎を引き離す。左腕には感覚がない。構わない。忘れていない。
――油断するな。
言われるまでもない。
なぜなら一匹、殺していない。
跳ねて立ち上がる。振り向いては見る。最後、健在の一匹がいる。二番目とも言う、鼻づらを叩き返した岩オオカミが唸る。跳びかかるのに得意な距離で、跳びかかってやろうかの姿勢で、するどく睨みをよこしてくる。
対峙するゼンは空手であった。武器という武器はもう取れない。剣――引き抜くのに時間がかかる。石――拾うのにしゃがむ隙ができる。
どこまで左は動いてくれる。徒手、片腕落ち、相手は小型といえど立派な魔獣。跳びかかられたら、人はどうなる。
それでも。
岩オオカミを睨み返した。
来るなら来い、来るんだったら次はお前だ。相打ちになったって殺してやる。
滾るありったけの闘志を剥き出しに、深く吸って、深く吐いた。まなざしだけで射殺すつもりで、外さない。
殺意は、ひたすら本物である。少年にはもう、これしかない。
岩オオカミは、同族の血に滴る人間をさぐっていた。
知能のある獣だ。躊躇いがあった。つがいと仲間が死んでしまって、やみくも跳びかかるのに機を逸していた。
獣の本能に気が急いた。あれは手負いの小さな人間、自分だけでも殺せるはずだ。今どうしようもなく飢えていて、殺して食えば、腹も膨れる。
利口な魔獣としては、こう考える。進みたくない。あれがいる方に行きたくない。そう、あれは小さな人間だ。小さな人間は大きな人間より弱いはずなのに。
岩オオカミは、跳びつけなかった。小さな人間が同族を殴りつける背中に、爪も牙も立てられなかった。
あの小さな人間からは、とても人間が放つとは思えない、大きな動物の気が放たれている。獣の身にして、ひしひし感じる。
対峙のときをいくらか重ね。
岩オオカミは、利口に傾いた。この小さな人間は、独りで手に負えない。腹が空くのも仕方がない、出直そう。
できるだけ長く背を見せず、じりじり、木陰の奥へと、姿を消した。
「ふぅーっ……」
敵は、どうやら去ったらしい。遠ざかる岩オオカミの気配に、ゼンは膝をつく。安堵する。
――よかっ、た。死なずに、すんだんだ。見たかたちの生き物で、よかった。ひとつ足りなくて、気がつけて……なんとかなって、よかった。
束の間であった。今度は自分が追わねばならない。エマとフランを逃がしたのだ。
――どこまで行ったかな。さすがのエマだって森の中は苦手だもの、追いつけるとは思うけど。
さほど長くない戦いだった。まだほど近くてよいはずだと、意識を研ぎ澄ませば、まさしく。
(―――っ!)
聴き逃すはずがない。森で由来が何と知れる、女の子の叫び声である。
「フラン!」
ちらと抱いた危惧のひとつが、悪しくも的中してしまったのか。
守手は、"オキャク"たちから守り切れないと見て、彼女らを逃がす選択をした。たとえ自分が敗れたとして、少しでも先があるようにと。逃がした先に、また別の「敵」がありうる危険に目を瞑ったのは、ひとえに力の及ばぬせいだ。
ゼンは剣を引き抜いて、ずだ袋を地からひったくると、つんのめりがちに駆け出した。