6.出立
静かな出立だった。
まばらな見送りに混ざる、知った顔いくつか、知らない顔いくつか。指折り数えるまでもなく、儀式に集ったほどはいない。早朝の仕事に出たのかもしれない。穢れを嫌ったのかもしれない。うるさくないなら、ゼンはなんだってよかった。
「達者でな」
おばばは肩を叩くだけだった。小屋でたくさん話したあとだった。
「フラン様をどうかお願いします」
若い女のふたり組で、神子の世話役というらしい。ためた涙をこらえながら、おのおの熱心に手を握ってくるから、頷いて応じた。
村長が、訓戒なる要領を得ない長話をした。音だけは聞いた。穢れだ禁忌だ災いあれと、虚ろたちが奥でささやくのも、やはり音だけを聞いた。
遅れて、戦士長がやってきた。脚を引きずるのに、杖はつかない。なかなか大した戦士であった。神子守の役目のためだと、剣を一振り渡してくる。敵意は感じなかった。
神子のフランは、もの静かだった。"育て屋"の三人と別れを交わすおり、すこしだけ聴けたはじめての声は、衝かれるくらい綺麗だった。
晴れやかな空に雲少な、肌寒さはやがて霊峰の陽がやわらげるだろう。朝陽を背負ってくぐるのは、質素なつくりの門だった。村のはてを示して連なる木柵に、馬車幅ほどの切れ目があるだけ。それと知らねば、家畜用の囲いかとも見えた。エマとフランだけを、ゼンは伴う。労いの声が、神子を呼んでいる。
静かな出立だった。
広場からつづく一条の道は、門を越えてもさらにつづいた。地平の向こうの向こうまで、聞くに、迷いようもなく一本道。通じて目指すのが、"さなかの町"だ。
出立を済ませばしばらく、いっそう静かな時間であった。ふと、消え入りそうな声で「あのう、えと……よろしくお願いします」とはフランである。「うん、よろしく」と、ゼンは軽く返した。思いめぐらすのに夢中だった。まさに今、踏みしめる道に、見渡すあたりの光景に。
――外には出たけれど、きっとここはまだ"御許"なんだ。
両脇に繁る緑など、どれも見慣れたかたちばかり。トグゥやザザに、コニ、ネムラ。霊峰の麓にも、"見知らぬ森"にも、並びだけ違えて似たふうである。
――商人だってここを通る……あの二頭立てが行くんなら、ちょっときゅうくつそうだけど。
木々に覆われたこの細道こそ、たったひとつの出口だった。
旅立ちの高揚感も、やがて落ち着きをみせる。出よう、出ようとあれだけ思って、出てしまったなら、なんともない。覚えのある鳥のさえずりが、嗅ぎ慣れた風の香りが、見知った木々の影が、退屈じみた安心をくれた。
あらたな同伴者を気にせたのは、ひとめぐりしてその終着である。吐息のような呼びかけに先は、なにを返事としたのであったか。ちょっと遅れて、彼女はついてくる。振り返らずとも視線でわかる。振り向いてみる。ちゃんといた。
フランを見るのは手紙ぶりなる。大げさな袖裾は置いてきたらしい。日常服とさほど変わりない、麻の地の旅装が真新しい。背にかけた艶な黒髪の、先をふっくら束ねている。横髪にはしるひとすじの赤は、光の加減か、不思議にまたたく。さながら、生きた炎であった。生き物にみない輝きでも、おかしなしるしとは思えない。むしろうつくしく、どこか尊くて、大切にせねばならない気がする。並んで歩むのは、いつの間にやらで。
じぃ。持ち主と目が合った。くりっとして、赤茶色の瞳だ。鷲の目にも、おなじ色が宿った。ふいっ。顔をそらされる。気まずい――うつむく視線のふくみであった。
鼻筋の整った横顔がある。夏を重ねる前のおばばは、フランとよく似ていたのでないか、ゼンは思った。ふたりに血のつながりは、ないそうだけれど。
いくつの夏を神子は見たのだろう。成人はまだにせよ――僕よりは多そうだ。背が高いもの――そばにいて顔をよく見やるには、顎を持ちあげねばならなかった。
うんと良い印象である。フランは、虚ろたちとは違う。ちりちり睨まない。近寄っても顔を顰めない。汚く大声を出したりしない。"穢れ"の口利きにも怒らない人だ。ゼンは思えたから、まごつく唇が横目に知れたとき、先手をうってみることにした。
「気になるの?これ」
「あっ!えっと、その……はい」
「弓だよ。はじめて見る?」
あいまいに、フランの指はさしかけていた。いまさら"穢れ"を言わないのなら、あるのは、ずだ袋か、ぼろ外套か、担いだ弓かだ。
「矢をつがえて放ってね、動物を射るのに使うんだ」
至ってまじめなゼンである。フランが外を知らないとは、おばばが言った。「馬に乗れない」とも聞いて驚いた。伴とする馬をほかにつけるのを――エマとも相談して――やめた今朝であるから、学んだ。なるほど彼女は、野にあるものに馴染みがない。気になるとすれば、弓だろう。
「動物を……」
「うん、しとめたら、さばいて食べる。鳥とか、鹿とか……」
「すごい!」
赤茶色もまた、ときどき不思議にまたたくのだった。
「ほんとの猟師さんみたいですね……!」口火をきったら、饒舌である。「空を飛ぶ鳥さんにもあたりますか?おおきな鹿さんでも、射ってとれるんですか?」やはりか綺麗な声音であった。
「練習すれば、なんだってできるよ。あとは彼らのくせをちょっぴり覚えるんだ」
「くせですか?」
「そう。たとえば鳥ならね……」
話は弾んだ。
"育て屋"の外を、フランは知らない。これはほとんどまことであった。彼女の知った「外」といえば、せいぜい広場と、火の神の祠と、あいだを結ぶ林ばかり。生まれてこの方、会話の相手を、おばばと義理の姉たちしかもたなかったという。屋根の雨漏りがあるかないかだけ、似た暮らしだとゼンは思った。
フランは動物を好きがった。図鑑でながめたり、人づてに聞いただけの、彼らをもっと知りたがった。とくにお気に入りは、兎だった。
「御許の山にはいましたか?雪みたいに真っ白な毛並みのうさぎさん!」
「うさぎはたくさん見たけれど……白いのがすきなの?」
「はい!赤い目をして、ふわふわで……姉さまたちに聞かせてもらった白うさぎさんのお話が、私、ずっと大好きで。旅のどこかで、出会えるでしょうか?」
「それなら、森も覚えないとね。うさぎは耳がよくって臆病なんだ。タカやワシの影にもおびえて、しげみへすぐに隠れちゃう。ひょっとしたらこのあたり、はぐれた子が横切るかもしれないけれど……白いかどうかは、僕もわからないや」
「そ、そうですか……」
「角つきのだったら、よく見たよ」
「え。うさぎさんに、角ですか……?」
角兎が持つかたい角は、仕留めたそのとき自壊する。残ってくれるほかが有用だ。骨はもろいが楊枝には足る、身は食いでがあり、冬にもこもこ灰色毛皮は、手触りが良くてあたたかい。罠にかからないので、もっぱら射って、獲って剥いでは世話になった。もっとも、フランの興味は食うためではない。わかっていたから、ゼンはみなまで言わないでおく。かわりに意識をはりめぐらした――ナラ兎ならひょっとして……――ありふれていて大胆だから、道端のしげみにいてくれるやも。しかし残念、大小気配を感じない。まして白いのは、走りつくした御許でも見なかった。星のどこかにいるとして、会えるのは先になりそうだ。
「白いのが、やっぱりとくべつなんだ」
「はい、とてもかわいらしくって――」道ゆくにつれゼンも、多くのことをフランから学ぶ。赤目の白兎はたぶん、そのひとつめだった。「出会った人に、しあわせをくれるんだそうです。しあわせの……白うさぎさん」
「へぇ……」
いつかどこかで会えたらいいね。はたしてゼンは言い切れたどうか、だしぬけだった。
ぷつ。
と、おのれのうちで何かがはじける。不快感。
「ん」「あっ」
まるで、かたく張っていた弓の弦が、裂けてしまったかのような。はたまた同時に、蜘蛛の巣で全身をなでられたかのような。
ゼンはつい弓を見て、担ぎ直した。無事である。音は実際しなかった。
「フランも感じた?今の」
「ええ……」
足を止めたのは、少年少女ともにだった。手綱を握られないエマだけが、しばらく単身、すてすて行った。気がついて立ち止まる。首だけ振り向く。尾っぽをおおきく揺らしている――どうしたの?
「きっと、火の神様の御許から出たんです。この巡礼にご加護がありますように……」
神子は瞑目、うつむいた。組んだ手を胸にそえて、向いているのは来た道だ。
――ああ、そうだ。
かたわらにゼンは既視感を辿る。
――"見知らぬ森"が、こんなだった。見えない蜘蛛の巣にかかって、そのあと……眠くならない。なら、いっか。
あの日と今日では異なった。神子のフランがともにいる。守手の役目を授かっている。御許から去るのを、許されたに違いない。
抱くのは感慨、恐怖ではなかった。だからだ、ゼンは振り向けた。かつては決して振り向くものかと思って、今日は良いのだと心から思えた。
質素な門はかげもかたちもない。すこしひらけた緑を越して、"霊峰"の頭だけ、かつてないほど遠くに見えた。まだ目をつむるフランが横にいた。この少女がいてくれたからだ。窮屈を抜け出せた。前へ進める。
「ありがとう」
「え……?」
「もう、行けそう?」
「あっ、はい!行きましょう!」
二人と一頭、また歩き出す。"さなかの町"まで、まだまだかかりそうだった。
「あの……私の名前、知ってたんですね」
「うん、おばばに聞いたから」
かえってフランは「ゼン」と知るのか、思うばかりで言わぬがゼンだ。山野に長く暮らしては、名をなのってみる相手もなかった。けれども。
「あの!ちゃんと自己紹介をしてませんでした。これからきっとお世話になるのに」
よかれ、彼女が善良であった。
「遅くなってごめんなさい。私、火の神の村の、火の神子、フラン・フラムネルといいます。神殿聖国まで巡礼を成し遂げるのが、私の使命です。道中、どうかよろしくお願いします」
はつらつと、そしてこうべを垂れて。言葉に、おもてに、輝くばかり。雪のように白く、月のように明るいと、育て手は神子をたとえたのだ。今に知れていた。フランは"穢れ"を疎んでいない。口数すくない守手を思って、遠慮が勝る性ではあったが。
少年が応えた。
「僕はゼン。ゼン・イージス。神殿聖国には、僕のお父さんがいるんだ。いつか行ってやるって、ずっと思ってた。遠いところって聞くけれど、絶対にたどりつこう、ふたりで」
「はいっ!」
村を出られて、終着ではない。出立で、これがはじまりだ。
――この旅はきっとうまくいく。僕らは必ず、やりとげる。
守手と成りし少年の胸に、あらたな決意がみなぎった。