51.進め 上
かたく唇を噛んだ。
こらえる術を、ほかには知らない。
ふくれあがるのをおしこめる。腹の奥底へおしこめる。そいつに、のみこまれないように。
闇にも、かたちはあるものだ。
炎が暗いこともある。
強いられるのは痛みよりこわい。
晴れわたる夜ほど、ときに呪わしい。
理不尽はまとをえらばない。
厭うべきことを厭うべきだ。
差し伸べる手がなかったら?
魂がどこへ行くつくかを見た。
なんど克服したと思えても、かたちを変えて、そいつはやってくる。
しょった男が死んでしまえば、何がどうしてみえるのだろう。
進め、進め。
はりさけかねない胸の内から、ひっしで目をそらす。
父親代わりの男であった。
ほのあたたかくて、むくろのようだ。
むくろなどではあるものか。
フランは脈をとれないでいた。
おのれの頬を押しつけてみても、拍動をつかまえられなかった。
風鳴りのせいだ。厚い胸板のせいだ。
まだ生きている。絶対たすかる。
あいにく、祈るべき神の名をしらない。
背中の熱よ、冷えてくれるな。
脚はますますこわばった。
白銀の鎧は陽光に溶けた。
傷は癒えきっても、肉体がすでに限界だった。
対価である。
すさまじい倦怠感。あの大激戦も目ではない。
わななく脚を拳でたたく。
ひとりで立つのも、ヤになるくらいだ。
言ってられるか。
進め、進め。
フランがうしろを支えてくれた。
おんなじくらいに疲れていているのに。
心強かった。
ひとりではなかった。
ありつく空は意地悪をした。陽射しもつかの間、濃い鈍色を一面によこす。
岩場も道なき道である。くだる間に、降られなければいいが。
遠吠えをきく。
どうせなんたらオオカミだ。
一群に襲いかかられる。
フランを信じて、まかせきった。
剣士のおのれに剣がなかった。
"ガズ"は"長靴"の底に置き去りだ。
フランにあずけた"夜空"にしたって、いまではただの脆い刃。柄に触れるだけで、直感するのだ。
フランには、"光鎚"をうつ余力がなかった。
"緋矢"をふりまき、"明幕"でおどかす。
オオカミたちはいったん退いた。
「これでしばらく弾切れです……」
「……大丈夫だ。彼らは知らない」
くだりもおわりぎわに、土砂降り。
必ずすべる足元なのだと、山のぼりでは思うのがいい。
雨あしだったら、なおのこと。
意識はあった。
それでもだ。
踏みそこねた。
背中は守り抜かねばならない。倒れるのなら、せめて前へ。
三メルそこらの急勾配は、やりたい放題してくれた。
安いものである。
滑り降りるのに、フランも尻もちだ。"夜空の剣"を無理に守ってくれた。
どちらも脚は無事ですんだ。さいわいである。"治癒"が明けるにはまだかかる。
男を担ぎなおそうとしたら、腕が変に曲がっている。
眠ったまま、表情はやすらいでいた。
泣きたくなる。
人形みたいに力がない。長すぎるから結んでいた、脚もくちゃりとしてしまう。
拍動はやはりきこえない。
激しい雨音のせいにした。
もはや、ほのあたたかくもない。
とめどない雨のせいにした。
死なないで、死なないで。
雨も涙もくべつがない。
進め、進め。
進むしかない。
最寄りの町には、"商隊"がいる。
西だ。
陽のあるうちに方角は読んだ。
森をいく。
イトーと一緒に地図も読んだ。
この足並みだ、迂回したなら十日はかかる。
食い物がなかった。
サルヴァトレスには悪いことをした。お弁当も"長靴"の底だ。
だいぶもぐって、トグゥの木をみつけた。
「ツイてる……」
学んだのである。それは"魔木"だ。そうとう丈夫で、腐りにくい。
枝をおるのにも一苦労。ナイフでなんとか叩き落し、棒を一振り用意した。
いびつで、ささくれた百セルそこら。"剣気"は期待できないが。
「"オキャク"が近い」
森こそ彼らの主戦場。雨にまぎれて、あとをつけている。
「僕らは巡る正しき環にいる。"祝福"にはもう頼れない……」
フランは変な顔をした。
「……僕、なんて言った?」
ともかく時間は稼げた。フランの手柄だ。
羽根オオカミと呼ぶことにする。
とぼうと思えば、とべるのだろうか?襲撃は、泥を駆けるさまでおなじみだ。
打って打ってはしりぞける。威勢がいいのは復帰してくる。噛みつかれるのに、トグゥの籠手がある。もう片手で抜く"エドガー"ナイフは、戦闘向けの逸品だった。
連中は退いた。めった刺しと、雄叫びがきいた。掠れた"緋矢"を、フランも間に合わせた。
ノビたまま起き上がらないのを、数匹仕留めた。
全部で六匹やった。みかけた群れの半数にもならない。
夜目の利かない夜が来た。
休むしかない。
ねたきりの男をできるだけ快適にしてやって、トグゥのずんぐりした根のまに座り込んだ。
雨がやまない。火は熾せない。
生でくらうのに、死肉はよくない。
キャラメルを、男のポーチから拝借した。ぺしゃんこになった乾パンもみつけた。
「おこられますね」
「……ヴァンガードに?」
「歯を磨かないから」
「ああ、イトーに……ふふ」
身を寄せあってすこしなごんだ。
夜半。フランは起こさないでおいた。
獣の息遣いはやまない。
闘気がかけても、耳には自信がある。
ヤツら、絶え間なくうろついてる。
寝こける間にかじられるよりマシだ。短剣の鞘で土を掘りにかかる。トグゥがあるならザザもあるのだ。枝をけずってしっかり埋めた。
("狩人"がみたら、何ていうかな)
お粗末な罠だ。かかる獲物などいない。
それでもなるべくたくさん埋めた。
罠だとヤツらも思うまい。
夜襲はわかりきっていた。
なのに半分ねこけていた。
ずらり生やしたザザの棘を、オオカミたちは跳び越えてくる。すんでで目覚めた。
「フラン!」
ひとまず三匹、かえりうちにした。
どいつもザザの棘に沈めた。そうとも、重力はいつも武器になる。
あっというまに棘は埋まった。
棒に組みつかれる。短剣で刺す。次を打つのに紙一重。
フランがここぞで"煌策"をぬいた。跳びかかるのをまっぷたつにした。
超音速でうなる迫力だ。
オオカミたちは、おびえて退いた。
「頼もしいよ」
「私もです」
彼女の弱音をきいたことがない。
守手だった。
「回復したの」
「すこしだけです。"光槌"はとても……」
「もっとねむってよ、見てるから」
「見張りを代わります」
「ヤツら、今夜はもう来ない」
「代わりますから……起こしてください」
「うん」
「約束ですよ」
「約束だ」
明け方ごろに約束を守った。
夢の中だから、ヴァンガードと話せた。横たわったまま、彼は言う。
『諦めが悪いな、少年は』
『どうしてそんなこと言うの』
『わかってるだろう?置いてくのが賢いやり方だ』
オオカミがきたらどうするの。
言ったのに、口が開かない。
『俺は大荷物、かつぐだけ無駄骨さ』
ききたくない。
『このままじゃ、ふたりまで危ない』
ききたくない。
『もう間に合わないよ』
そんなこと言わないでよ。
『なんたって……』
愕然とする。
『動いてないだろ、この心臓』
とび起きた。
「心肺蘇生法……!」
まっさきに思いつけないでいた。今さらやって何になる。だからやらずにいられるか。必死でかかると、フランに止められた。
「まだ"治癒"の対象とみなせます……!」
生者にしかきかない技だ。
「……"術者にとっての直感"ですが」
信ずるに能うべきものが、ほかにあるなら教えてほしい。
大人が常備する落下傘用の縄と、一回分の"煌策"で、木皮のそりを、フランはつくってくれていた。
「これでふたりで引けますね」
おかげでかなり楽になる。
口数少なに森をゆく。"オキャク"の気配はおとなしい。
昼方に"治癒"が明けた。
もちろんヴァンガードに使う。
変に曲がった腕は治った。
「絶対生きてる……」
しかし目覚めない。
半端な夜に疲れていた。明るいうちに休むことにした。
夢をみるたび、男はしゃべった。
『"治癒"を俺に?もったいない。お前たちだってボロボロなのに』
声が出なかった。
首を振るしかない。
次も、次の次も、"治癒"は、ヴァンガードのために使ってもらうのだ。
『死人はな、どうやったって目覚めない。こいつは"星の理"だ』
"星の理"だ。
頭の中でわんわん鳴った。
目覚める。
頭痛がひどかった。
楽にしてやった男の様子をみる。ねたまま、何もかもされるがままだ。
(死んでるの?ほんとうに……?)
このまま腐ってしまうのだろうか。
フランが見ない隙に泣いた。
物事の順序があいまいだ。
なにをすませて、そうでないのか。
雨はつづいた。
冷えてこたえた。
夜はもっとだ。
連中が得意になる時間だった。
「かしこいな……」
そら襲撃だと思わせて、結局こない。
夜通しつづいて、ねむれない。
からだがいよいよおもたい。
立ち上がれるわけがわからない。
明け方に、大群をみた。
フランには"光鎚"があった。
覚悟を決めて眠ってもらって、やっと用意した一発だった。
「僕らの作戦勝ちだ」
消し炭だから肉は食えない。
森だからまだマシだった。食えるものにはおぼえがあった。
「数日だったら、これでしのげる……」
雨にも負けない毛虫をはらって、クワの実を食らう。
すこしでも力が必要だ。
男はかわらず目覚めない。
飲まず食わずで二晩越した。
大きなからだは、ずっと冷たい。
雨のせいだろう。
雨のせいであってくれ。
「せめて水を……」
雨の森だから、水筒は満ちていた。からだを起こして含ませる。難儀する。口の端から零れるばかり。
「のまないと、死んじゃうよ……」
教えてくれたのは誰だっただろう。意識のないものには、かえって危険だ。
指が震えて、水筒をとりおとす。フランは何も言わずに抱きしめてくれた。
夏を間近に凍える夜だ。
予定ならいまごろ、"魔法の居間"でごろごろできていた。
夜襲がなくともうまくねむれない。朝になって、雨はやんだが。
「……最悪だ」
気配がする。とびきり大きな群れの気配だ。"集団暴走"もかくやと思えた。
「……どうしてすぐ来ない?」
大きな力がすぐそこにある。あるいは数はそこまでかもしれない。統率されて、だんごになって、様子をみるのに、一歩引くのだ。ふさわしいだけの知性がある。
「"光鎚"は……?」
「一度なら。ほかは数発」
「……僕には棒と短剣だ」
できるできないではない。
やってやる。
一日一度の"とっておき"が、ようやく冷却期間を終えていた。
逃げきれなかった。
知れたことだった。
羽根オオカミの頭領がいた。
橙巨牛よりもおおきい。大群を率いてやってきた。
頭領は、ひょいと"光槌"を避けてしまう。
「フランは小粒を!」
同胞をひどい目に遭わせたのだから、頭領は怒り心頭なのだろう。棒きれでかなう相手ではない。
"煌策"で、なんとか左前脚をもらった。よじのぼる。"エドガー"を眼にお見舞いする。
頭領はおどった。ふりおとされる。
のこった前脚に一撃をもらう。
爪はかすった程度だが。
吹き飛ぶ。
泥にころがる。勢いを殺せない。木の幹にずっしりと打ちつけられる。
へたるまま思った。
フランは――?
"明幕"で群れの行く手をさえぎって、駆け寄ってきた。
視線で訊ねる。
――残弾は……?
――……ごめんなさい。
まさにヴァンガードを横たえた木のおもてだった。
「……どうにか、逃げて」
「で、でも」
"明幕"がおりる。もう手立てがない。取り囲むオオカミたちがうなっている。
くらくらする。
力が出ない。
それでも。
どうして立ち上がれるのだろう。おのれにも訳がわからない。
「はやくっ!"商隊"のいるとこへ……ッ」
最後の剣を手に執った。贈ってもらった短剣だった。
そのときフランは、振り向いたのであろうか。
ヴァンガードをどうするべきかと、見やったのかもしれない。それで気がつけたのだ。
「あっ……!」
よっぽどにぶくなっていた。
「ふんっ!」
投擲された。
それは槍だ。
掛け声のみなもとをみようとした。もう真横であった。
巨影がドン!と飛び跳ねる。
"瞬歩"にはちょっとおよばない。だからとて追いつく戦士はすくない。
ダルタニエン・サングリエは、とんでもなく槍の名手であった。
むかう頭領のあいた眼を、飛翔する槍がいまつらぬいた。ダルタニエンもすかさずとびつき、顔面をふむ。槍を執る。大きな首を刎ね切った。
あともはやかった。
最小限の足運びと、よゆうをもった槍さばきで、四、五十匹を殲滅した。
「ゼンく~ん、フランちゃ~ん、だいじょうぶぅ~!?」
駆け寄る巨体のまのびた声に、ひどく安堵したものであった。




