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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
目覚めの章:火の神の村
5/93

5.おばば

 ◆←文頭二字下げの代替です。


 薄明の野原を、鹿毛(かげ)の牝馬が心地よく駆けている。ときに風すら置き去り(はや)く真っすぐに、ときに存分と(かぶり)をゆらして円を踊るように。

 一通り走り回って満足した彼女、ふと笛の音を耳にする。透き通って高らか、さながら鳥の声、地の果てまでも届こうかひとすじの()――ああ、彼が呼んでいる。もう行かねば。

 鹿毛は見慣れた大山を一瞥。裾野に広がる森や、その手前に広がるもっともお気に入りの平野を、ぐるっと尾を振り一望した。この景色、もう見納めらしい。

 走り出している。

 音を目掛けて走って走って、だんだんゆるめ、歩んで、歩みもゆるめて、辿り着く場所には小さな人がいる。山の名も、野の名も、聞いて覚えてられないが、この子の名だけは覚えている。

 ゼン。


「うん、どうだった?今朝は。このへんの草はみんな食べちゃったかな」


 うんうん。前の冬は食草を見つけるのにえらく難儀したけれど、あたたかくなってもう大丈夫。食べごごちのよくない木の枝を食む必要もないよ。


「そう……さ、からだをふいてあげる。首を振らないでね、目に入るといけないから」


 ちょっとくらいの雪だったらさ、この蹄でかきわけて見つけだすくらい造作もないけどね。あんな積もり方をされるとちょっと難しいよ。


「だね、僕も大変だった……あ、そうだ!あとで黒糖をあげる。きのう商人にもらったんだ」


 黒糖!楽しみだ。それにしてもさ、この冬はまいったね。いつもなら立ち枯れた草がいくらもあるのに、雪にすっかり埋もれてしまって、ぜんぜん見つからないんだもの。


「外はどうだろう。村と一緒で春が来てるのかな?お前(エマ)がおなかを空かせなければいいけれど」


 春の陽が"霊峰"から顔を覗かせつつあった。エマの気が済むまで"御許"を走らせてやりたかった少年の、いっそう早起きな今朝である。小屋での休息が安心できなかった早起きでもある。以前に遭った()()は、ちょうど疲れて眠り込んだ、明け方くらいの出来事だった。戦士たちを打ち尽くして迎えた朝だから、疲れていたって目も覚めた。

「ん……しまった、黒糖がないや。小屋に忘れてきちゃったのかな……どうしようね、エマ」

 大きな体をすっかり拭き終えて、ずだ袋の中を探ってみても、思ったように見つからない。"御許"に散りばめた財産を回収するのに、走り回ったのが昨日の昼間、かさばる大瓶はいちど除けたのだった。

「しかたない、取りにもどろっか」

 エマの肩を叩いて歩き出す、ねぐらにしていたぼろ小屋へ。


 ――もう、戻りたくなかったけれど。


 冬は寒さを、夏は雨風を凌いでくれて、人の出入りまでは防いでくれない朽ちかけだ。出立を控えた今朝ともなれば、帰りたいとはあまり思えない。エマの楽しみがあってこそで、

「ぷふん」

「そうだね」

 忘れて行くのに、黒糖はちょっと勿体ない。

 まもなく見慣れた住処のかたちだ。ふきっさらしの野にぽつんと立ってよく目立つ。幸い、さすのは小屋の影だけ。村からだいぶ離れるので、訪れる用があるなら内容は限られる。

 目前にしてなお用心した。軋む戸を開けて中を窺う。見慣れた薄暗闇があるだけで、誰も待ち伏せしていない。足元を注意深く見やれば、一角の土がこんもりとしている。埋めて隠した大瓶だ。

「ちょっと待ってて。黒糖を食べたら、林ですこし休もう」

 ぶるん、と鼻息で応じたかと思えば、とかとか歩いて遠ざかる。窮屈な屋根へ戻るつもりは、エマもすっかりないようだ。

 (かが)んで土を掘り返していると、控えめに二度、戸を叩く音がした。

 不意をつかれる。飛び跳ねる。しゃがんだままの少年である。土堀りしながら寝こけたらしい。まさかエマが蹄で挨拶する訳もない、外に人がいる。気がつけなかった。

 こんこん。

 もう一度、たしかに鳴った。きちんと目は覚めている、風の音とも間違えない。どうやら深い眠りだった。あたりは先によく見渡して、人影がないのを確かめた。それで今そばに誰か居る。復讐なら頭にあったのに。

 けれど、穏やかに誰が戸を叩く?戦士団なら、蹴破るおまけに怒号をくれる。危険が迫るならエマが嘶く。すると、訪問者の正体も想像できる。

「だれ?」

 戸越しに訊ねる、一応だ。

「わしじゃ、開けてもらってもええか?」

「うん――わっ!すごいね」

 溢れんばかりの荷を両腕に、その訪問者は抱えていた。かろうじて目元を覗かせる、ちんまりとしたおばばであった。

「どうしたの、こんなに!」

「うむ、お()さんの預かり(もん)と、旅装なんかの要りもんじゃて」

 どっし、と置かれて一塊(いっかい)は、敷きわらの上でくずれそうだ。村から馬でもそこそこかかる、このぼろ小屋まで――おばばひとりで、こんなにたくさん?――思いながらも少年は、もっと気になる中身を言った。

「あずかり物?」

「そうじゃ」

 おばばはしるしの鷲の目を、ほそめて微笑みかけるのだった。

 夏を重ねてたるんだ頬が、落っこちないかと心配になる。瞼もまた垂れ、翳りをつくり、かつてはつぶらな瞳とあわさる。これが、おばばのしるしの鷲の目である。威勢のよい若い戦士たちも、ひと睨みにして縮こまらせる。昨晩だって、そうであった。

 恐ろしいとは、ゼンは思わない。なにせまず鷲が好きだった。"霊峰"の空に翼を広げ、人の手にはおよばない蒼を、どこまでも自由に()けゆける鷲が、大好きだった。御許でみかける動物のうち、とくべつ身近で、頼もしさすら宿るかたちだ。嫌うはずがない。

「おお、その前にな!昨日は言えなんだ。"神子守の儀"では、よくやったね。ゼン」

「うん」

「ああ、ああ。わしゃはな、もちろんわかっとったがな、それでもな、お前さんの戦いぶりを見て、感心したともさ」

「ありがとう、おばば」

 ゼンが頷くと、おばばはわなわな手を震えさす。よたよたとすがっては、膝から崩れ落ちた。

「今まで、本当にすまんなんだな。すまんなんだな、ゼン。ずっと苦しんどったお前さんの力になれなくて」両肩を掴んで老婆は、しわくちゃな顔をさらにしわくちゃにする。「なぁ、わしを許しとくれ。わしゃ、愚かな女だよ。おのが立場を捨てられん、呪いに縛られた、惨めなばばあなんじゃ。今まで助けになれなんで、ほんとにすまんなんだ。苦しめるばっかりで、助けになれんかった、許しとくれ」

「いいんだ、おばばは何度も助けてくれたよ。きのうの夜だっておばばがいなくちゃ、広場から追い出されてたかも」

 鷲の目は涙ぐむけれど、おばばの悪いところなんて、ゼンにはちっともわからない。おばばは、いつも味方だった。

 手紙を大声で読んでくれた。二度目の石鎚を止めてくれた。けがの手当てをしてくれた。動けない冬に食べ物をくれた。

 今やつぎはぎなぼろ外套の、下地はかつてふかふか毛布、初雪の明け方、小屋の前でみつけた。おばばはそうだと言わないけれど、ほかにくれる人などいない。とびきり凍えた前の冬である。これがなければ、もっとつらかった。

 今も昔も"育て手"は、穢れをきらう肩書きだそうに。おばばはいつも、味方に思えた。

「すまんな、すまんな……」

 それでも老婆はおいおい泣いた。やがてきりだす話には、少年の追いかける名があった。

「サンを――サンを思い出すね。悪ガキだったが、父親になった。村の誰より強くって、誰よりおおきな勇気があった。御許を出ることを、これっぽっちも恐れちゃなかった。ゼン、お前さんは、お前さんの親父そっくりだよ」

 おばばはのそりと足を運んで、荷の一山からあるものを手にとった。布で身を巻かれた、一振りの剣、に見える。

「預かり物ちゅうのはな、とくにこの剣さ、お前さんから預かってた剣を、持ってきたんよ。イージスの家が焼けた灰ん中から、なんでもない様子で出てきた、お前さんの親父の剣じゃ。お前さんはもう村を出るんから、イージス家のもんのこいつは絶対、お前さんが持ってかなきゃならん」

 忘れていたのは、どうしてのだろう。ゼンはひどく不思議に思った。黒糖の瓶も霞んでしまうほど、大切なもののはずだった。

 ぼろ小屋に住まいはじめたときには、もろもろの財産が一緒だった。家が焼け落ちるまさにそのとき、たまたま抱えていたものだとか、エマにまつわる道具だとか、あとで見つかった()()()だとか。雨漏りのする屋根にしたって、ざあざあ雨ざらしよりもいいかと。しかし例の三人組には困った。ひとつ居所を知られると、野山に出かけて目の届かぬまに、ものを盗まれ壊される。最初の悪さを、剣は運よく免れた。家族につながる大切な品を、みすみす失くしてはたまらないから、なんとかおばばに会いにゆき、こっそり預けておいたのだった。冬でかぞえて三つ前、ひとりで迎えるはじめての凍えに、身構えていた時分だった。

「見ない輝きの刃じゃてぇ……きっと家宝に違いねぇなぁ。わかっとると思うが、大事にせぇよ」

「うん」

 鞘を持たない剣だった。焼けて灰になったのか、そもそも用意されたかどうか。おばばは巻きつけた布をゆるめると、ちらと剣身をたしかめた。

 黒い刃。

 実直剣の(てい)をとりながら、いびつにでこぼこ、すらり平らな面が見当たらない。雲がちに、月も星もない夜空のようで、光にさらせば虹をかける。触れると硝子を思うだろう――いまならわかる、黒曜石だ――野山で過ごす間にゼンは馴染んだ。鋼の刃を惜しんでは、しばし活用したものだ。ただ、もっぱら薄い欠片であった。(せかい)のいずこかあるのだろうか、とくべつ巨塊な黒曜石を、ノミと金槌で削り出す。きっとそうして作られた。 

 戦うための剣じゃなさそう……――剣士の性に思わせる。黒曜石は鋭く一方、脆くもある。乱暴にあつかえば、いとも簡単に砕け散る。まちがっても、ゆうべの戦士長には預けられない。音を立て壊してしまっただろう。

「お前のもんじゃ、また今日からは」

 ゼンは"黒剣"を、しかと受け取った。おかしな作りでも、剣は剣だ――お父さんも、忘れ物をしたのかも……――じつは同じくらいに大切な、財産がほかに山に埋めてある。形見、とそれらは呼ぶべきらしい。旅の荷としては嵩張るだろうから、埋めたままそっとしておくことを、自分と相談して決めてあった。けれど黒剣は形見にあたらない。ふさわしい持ち主がいるのだと、ゼンは強く信じている。だからまた、決めた――これは大切に持っていこう。

 要りもん、と先におばばは言ったが、旅の荷としてより適切なのは、抱えてこられたあとのだいぶである。促されるままゼンがあらためると、清潔な麻の旅服に革靴、(くら)から(はみ)ほか馬具まであった。小山もひとつできあがるはずだ。

「ありがとう。服はどこかで着替えるね。靴もいい大きさだ……でも、馬具ならエマには必要ないよ。ぴったりなのが、むこうの林に隠してあるんだ。これから取りに行くつもりだった」

「おお、用意がええね」

 毎日はだかのエマだって、着こなし方を覚えている。ふだん使わず隠しているのは、体を拭くのに手間がなく、着ずとも不自由ないからだ。飛び乗る背中で求められるのは、呼吸をあわせることだけである。御許にいるうちは、そうだった。もう違う。

 旅に出る。

 エマに任すなら大事な荷だし、跨る機会も増えるやも。すると馬具にも頼った方が、互いのためになるのだと。

「長旅なら、ぜったいあるべきだって。とくに()()()()?は、町でつけてもらえって教わった」

「ほう……」

 教わった。何気なくゼンは言う。知恵の出所を、老婆はふかく掘り下げたりしない。


 ゼン・イージス、孤独な少年だ。穢れと呼ばれ、口利きをみなに拒まれる。禁忌を犯して、石を投げられる。ものを教えてくれる誰かなど、この"火の神の御許"にいようものか。

 例の老いた商人は、夏が一巡する合間に、たかだか六度の朝しか来ない。つど見計らって、ふさわしい知恵を授けられたか?まさか。

 残るは"育て手"その人なれども、機を見て商人と大差なかった。蹄鉄(テイテツ)の扱いにせよ、幾十の夏と馬番に任せきりだ。

 すこぶる多くを知る少年だ。甚だ知り過ぎてしまうほどだ。今日をひとり生き、生き延びるのにとどまらない。老いし者たちは、その(すべ)を教えてこなかったというのに。旅出になにが必要かなど、なおさらどうして理解している。


 しかし老婆にとって。超常的な力に触れる"神子の育て手"にとって、少年の知恵の源泉とは、神秘であって、不思議ではなかった。ちょうどこんな言い伝えも、"火の神の村"にはあることだ。


 ◆


 子どもに夢見を訊ねる勿れ。

 子どもは多くの夢を見る。

 多くの多くの夢を見る。

 夢とは(せかい)、めぐるうち、とくべつな出会いがあるだろう。 

 子どもとよく似た精霊の夢。みたまをうつした精霊の夢。彼方の星とつながった、精霊はきまぐれ、子どもと遊ぶ。

 遊びながらに知恵を授ける。

 遊びながらに技を授ける。

 大人よりもの知った子どもに、どこで覚えたか訊ねてならぬ。訊ねて、訊ねるだけなら良いが、夢で誰かれに聞いたのだともし、子どもが大人に答えてしまえば。

 精霊の夢を、子どもは見なくなる。彼方の星とのつながりは失せ、精霊の夢を、子どもは見なくなる。

 子どもに夢見を訊ねる勿れ。大人の知らずを知っていたとて、恐れて忌み嫌うこと勿れ。

 さらば精霊は子に授けよう。生き抜く術も、進む術も。みなしごは自ず、強く育とう。


 ◆


 "育て手"は掟を知り、言い伝えを知る。後へと伝える役目を担い、守るべきものとして信じ、貫きとおす。

 老婆はつまり弁えている、少年に知恵の出所を訊ねてはならない、たとえ疑問に思ったとて。

 ずっと孤独の少年は、知恵だけでなく、技にも優れた。村の誰より、強かった。はて、彼の(つるぎ)さばきのどこまでが、父親に由来するものだろう?

 さすれば喜ばしいかなと、夏を重ねて老婆に思わす。小さな体躯をもってして、屈強な戦士長を圧倒せしめた――鷲の目にはかくうつった――のも、なんら不思議でない。神秘の恵みが、少年にはある。

「……精霊の声が聞こえるのじゃてお前さんは、この先もきっと、心配いらんな」

「うん?」

「いんや!老いの戯言(たわごと)じゃ」

 ふぅ、と老婆は息をつく――ゼン・イージスは強い。儀をもって、"火を見るよりも明らか"だ。夏相応に幼い顔つきも、縮んだ老いと変わらぬ背くらいも、広がる先行きのしるしに過ぎない。だからこそなお、旅荷のほかに、思いを届けたく訪れた。

「なぁ、ゼン」

「うん、なぁに」

「お前さんは知っとるよな。神殿聖国は、御許からずいぶんずいぶん遠い地じゃ。(せかい)のうらっかわにある、騎士たちの国……お前さんがたどり着くまでに、夏がいくつも過ぎるじゃろうて、そん頃あたしゃ、もう大老じゃ。お前さんが、神殿聖国へ行って、もしそのつもりがあって帰ってきたとして、そんときゃ生きていられるかどうか、わからんもんじゃ」

「おばば……」

「だからな、だからな、ゼン。もう戻ってこんでええ。こんな土地、もう戻ってこんでええんじゃゼン。もとよりな、お前さんはそのつもりかもわからんがな、これだけは、これだけはこの老いが、言っておかねばならんじゃと思って、言わせてもらうぞよ。お前さんはもう、行って、帰ってこんでええんじゃ。こんな、お前さんを苦しめるだけの、村に、御許に、戻ってこんでええ。そんでな、神殿聖国に辿り着いたらな、お前さんの親父は当然、もういるじゃろうて、そこでな、お前さんは、"騎士"になんな」

「騎士――」

「わしらは掟で、"神子の守手"ちゅう名で呼ぶが、外じゃ守手は"騎士"と呼ばれるんじゃ。お前さんは、騎士になるんじゃ。騎士っちゅうもんは、尋常に、なりたきゃなれるもんじゃあないと、わしゃあ聞いたことがあるが、強くて、知恵のあるお前さんにできんことじゃあ、けしてないと、この老いぼれは思っとる。お前さんは、正真正銘、御許の誰よりも強い。本当に強い。村の大人の、だあれもかなわん、本物の戦士じゃ。それでいて、御許を出ることを、毛ほども恐れん。これ以上ない守手の成り手じゃ。まるでサンの生き写しじゃ。だからな、お前さんならなれるに違いないんじゃ。だからな、ゼン、騎士になんな。神殿聖国で、本物の騎士に。そんで、この土地には、もう、戻ってこんでええからな……お前の親父、サンとふたりで、幸せに暮らせよ」

「うん……わかったよ、おばば」

「それとね、もうひとつだ。あの子をね、フランのことをね、お前さんには頼まにゃならんのじゃ、聞いてくれるか」

 老婆は全身を震えさせている。とめどなく涙ながらに、語りかける。

 フラン。

 と、はじめて聞いても、誰のことだかゼンにはわかった――うん、と頷く。

「フランはな、()()()の孫娘だ。血のつながりがないとはいえ、()()()の大事な孫なんだ。あの子はね、代をとばして生まれた神子だよ。とびぬけた素質があったから、大事に大事に育てて、育てられてきた。だかんね、とても世間知らずだよ。

 ゼン、お前さんの知るような、飢えや、寒さや、獣の恐ろしさや、大人のふるう乱暴や、"恐ろしい"を何ひとつ知りやせん。まして火の神様に守られていない、御許の外の厳しさなんぞ当然知らん。お前さんからしたらな、お前さんと比べてなんて良い暮らしをしてきたんじゃろうと、もしやうらやむかもしらんがな……」

「思わないよ、大丈夫」

「おお、おお、そうか、そうか……あのな、いい暮らしをしておった、フランは。お前さんと違って何不自由なく生きてきた子じゃ、フランは。でもね、心に悪しきところがね、これっぽちもないんじゃ。無垢なもんじゃよ。誰も踏むんことのない、真っ白でさらさらの雪みたいに、雲のない夜の、明るい明るいお月さんみたいに、明るくて、そういう、そういういい子なんじゃ」

「うん」

「だからだかんね、どうか、どうか気を悪くせず、守ってやってくれんか、手伝ってやってはくれんか、道中を、神殿聖国までの道を。お前さんからすればな、強くて、知恵のあるお前さんからすりゃな、そりゃ村から出られりゃな、あとはもう独りでどうにもできようて。お前さんをひどい目にあわせたのはな、わしゃも、村の連中も、フランも、たいして変わらんじゃろうから、たとえフランを道すがらどこかに置き去りにしようと、たとえ守り手だろうと、誰も文句は言えんじゃろうて、火の神様だろうと、言えんじゃろうて……」

「置き去りになんてひどいこと、しないよ」

「そうか、そうかええ……頼むな、頼むな、ゼン。フランをどうか、神殿聖国まで、無事に……怪我のひとつもさせるなとは言わん、巡礼には、困難がつきものじゃ、そんなこと、あの子だって覚悟しちょる。まして、遠く遠くへの旅路じゃて、たとえお前さんでも、頭を悩ますような、大きな試練がやってくるかもしれん。それでも、それでもな、どうか、どうかフランの、あの子がなんとかな、せめて命を保ってな、聖国までたどりつけるようにな、それを手伝って、手伝ってやってはくれんかの……」

「おばば、おばば、大丈夫だ。そんなに泣かなくても、大丈夫だよ。わかってる」

 神子。ひとすじの、赤髪がしるしの女の子――ゼンが知る、フランの全ては見た目だけ。"神子の守手"なる肩書きを、得てみたからには、やってのけるつもりばかり。"神子"がいかなる人物なのかを、まったく気にしていなかった。虚ろたちのよう、睨みや怒号や石をくれるなら、目的の為といえ、道中いささか耐え難かろうが、おばばの言葉を聞くかぎり、なさそうな話だ。安心できる。

 感謝なら、むしろ浮かんでいた。望みに望んだ外への資格、"守手"はきっと、"神子"をなくしては存在しなかったのだ。名前をようやく知れた彼女が、御許にいてくれたことに、礼こそ伝えなければならない。

 だから。

 手助けするなど訳もない。置き去りになど、もってのほかだ。しかも頼みこむのが、おばばである。

 居場所のないこの御許にて、心を殺して抑えても、捨てずに今日まですんだのは、鷲の目が守ってくれたからだった。その目が涙にすがるではないか「神子のフランを守ってくれ」どうしてこれが裏切れる。

 ゼンは躊躇いなく、心の底から応えられた。震える願いに、目を見て返せた。

「おばば、大丈夫だ、大丈夫。約束するよ。フランは神殿聖国まで、僕が必ず送り届ける。だから、安心して」

「ありがとう、ありがとう、ゼン。ありがとうな……」

 ありがとう、ありがとう。ネルラはまたしばらくの間、ゼンにしがみついて泣きやまなかった。

「銀椀に雪を盛り、 明月に鷺を(かく)す」――『宝鏡三昧』洞山良价

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