1.夜明け待つ暁の君へ
この日、黎明の星空のもと、"偉大なる霊峰"から一陣の風が、"火の神の村"へと降り立った。
ふんだんに冷気を帯びた風は、霊峰をくだり、謂れのある火の神の祠へ至ると、社の木造りを軋ませる。祠を守るコニの木の林を吹き抜けるのに、霜の咲く朽ち葉を翻した。まもなく風格ある村長の屋敷を掠め、隣の空き地に敷く灰まじりの土を浮かしたならば、"神子"の育て屋へと届くだろう。
勢い止むこと、風は知らない。現戦士長の家の脇路地を、広場中央の大井戸を、朝一番に訪れたばかりの商人の荷馬車を、村人の家々の軒下を撫でて、外れの家畜厩舎まで翔け抜ける。打たれた木窓が数々わめいた。押し入る凍えに家畜が嘶く。
風は外れを更に行った。開けた土地にやがて、小屋を見つける。ポツンとひとつきり。道具小屋か、農夫の雨除け所か、今や誰もがかつての役目を忘れたその粗末な形は、腐りかけの薄い木壁でできていた。
神秘の威容を湛えて風は、仕上げに一息、かの孤独な小屋の戸を激しく叩く。容赦なく、しかし、分け隔てない。
目覚めのときだった。
音だ――呼び起こされる小さな住人。木板の間隙を縫って冷気が忍び込み、小屋中に満ちるのを、彼は全身で感じ取る。ひとつ身震い。夢と現の境界を探る。常ながら、定かさは得られない。
身を包むのは、ほとんど襤褸だ。つぎはぎした獣の皮にうずくまる彼は、十かそこらの少年に見える。痩せぎすで、肌の血色があまり良くない。憂いを帯びた顔立ちの、頬には泥がこべりつく。重ねた夏にそぐわず厚く強張った手と指先は、夜の間に赤くかじかんだ。只人の子どもらしい耳には、冬の間に垢切れをこさえている。
敷き詰めた干し草に、座して休息をとっていた彼は、指先で木の棒をつかまえた。己の背もさながらな棒だ。立ち上がっている。襤褸が落ちる衣擦れの音を背後、微睡は既に遠く、足音を殺して一歩、二歩。干し草が途切れれば、冷ややかな土をはだしで踏みしめて、不機嫌に唸る戸を、そぉっと押し開けた。
外界を慎重にうかがってみる。あたりには、夜明けを兆す朝焼けの、薄紫色の空間に、ひりつく寒さが満ちるだけで、誰かの姿は認められない。
訪問者の名は、風だった。やはりとわかって、少年は胸をなでおろす。
顔を上げるとちょうど雲が晴れたのか、山並みの際が白んで、にわかに輝きを放ちはじめる。眩さについ目を細め、それでもなお眩いので、手で顔に影をつくった。
つけば寒さに白い息、けれども。
まだ本調子でないはずの朝の陽射しに、昨日にはない心強いぬくもりが宿っている。どうしてかこれが懐かしい。少年は、たちまち記憶を手繰り寄せた。前にも同じことがあった。
その夜明けにはひとつ、とくべつ凍えた風が吹く。冬の間に"御許"を統べた凍てつく空気を、隅から隅までかき集め、ぎゅっとひとかたまりにしたような風だ。戸を吹き飛ばさんばかりの力強さで来訪を知らせ、大地の彼方へ去ってゆく。追おうとおもてに繰り出れば、ついぞ姿は拝めずしかし、光が、冬中とは打って変わって味方してくれる。そんな朝が、確かにあった。まさに、今日の日のように。
風の意味を、陽の輝きを、少年は知っていた。季節が一巡したのだ。嬉しくなって、振り向いた。
「エマ、春が来るよ」
唯一たる同居者の、鹿毛の牝馬に告げたのだ。厳しい冬が、とうとう明けた。彼等だけが知る、夜明けだった。