フィーのささやかな学園生活(長編連載も完結しました)
フィーはお姫様である。正確にはこの国の王太子の長女である。国王である祖父も健在、次期国王である父も、第二王位継承者である父の妹も、第三のフィーの兄も、第四のフィーのもう一人の兄もいるのだから、五番目なんてそうそうお役は回ってこない。さらには平穏安定した情勢、他国に嫁ぐ必要もなく、ならばと国内に目を向けるが、国内貴族関係も安定し、余程の変人でも無い限りは誰を選ぼうが構わない状態。
「フィー、お話をしたいという方を選んでいいのですよ」
王太子妃である母に、高位貴族を集めた茶会で言われたのは七つの時。分かりました、とその時は何度か会ったことのある同い年の、母方の親戚筋に当たる少年と少し長く話をした。
そしてその時、フィーは自分の影響力を知ったのだ。
その少年の親は、すでに他の家の娘と少年を婚約させるべく、幾度か会わせていた。少年も少女も穏やかに友情を築いていたと言うのに、突然会うことも、手紙一つ届けることも叶わなくなったという。
お茶会から一月後、庭で少年が少し寂しそうに話したことにより、けして頭が悪いわけでは無いフィーは悟ったのだ。その後はすぐに少年の両親に手紙を出し、個人的な茶会を開いて少年と少女の仲を取り持ち、公の場でその少年に近づくことを控えた。
フィーはただ、年の近い友達が欲しかった。しかし己の行動一つで他者の運命が定まる。フィーは恐ろしくなってしまった。
さて、結局フィーは婚約者を決めることなく、美しく育った。聡明に、穏やかに、したたかに。全てを打ち明けられる婚約者はいないが、いろんな話ができる友人はできた。友人が欲しかった、とこぼしたのを覚えていてくれたのか、母方の親戚筋の少年は、己の婚約者となった少女を紹介してくれた。フィーと同い年の彼女は穏やかでまるでひだまりのような少女で、隣にいるだけで落ち着く。フィーは勝手に彼女のことを親友だと思っている。向こうがどう思っているのかわからないので表向き穏やかな交流だが。
フィーも今年で十六歳。この国では平民も貴族も十四から二十になるまでの間に必ず学園と呼ばれる学び処に通うことを義務付けられている。それはもちろんフィーにも当てはまり、これから二年間、彼女は魔術と学問を学ぶべく学園に入る。祖母である王妃が、せっかくの学園なのだから素敵な人を見つけてはいかが、なんていうが、それにはフィーの身分では変な人が寄り、賢明な人は付かず離れずだろう。ならば、とフィーは己の身分を隠すことを提案した。
そして条件としてフィーの護衛に母方の親戚筋の少年ことブラッド、そして彼の婚約者であるパメラを常にそばに置くこととし、ブラッドの家名を借り、魔術で容姿を変え、フィーは晴れて「フィー・コルケット」として学園への入学を許された。
「パメラ!」
明るい中庭にいつでもお茶会ができるようにセットされたテーブル。先にそこに座りメイドにお菓子を持ち込ませていたパメラは顔を上げ、手を振りながら歩んでくる婚約者と友人の顔を見つけ、顔を綻ばせた。
「御機嫌よう。フィー、髪が少しほつれてますわ」
パメラの細く柔らかな指がフィーの髪をそっと撫でる。その優しい感覚にフィーは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そう? さっき戦闘魔術の授業でブラッドに吹っ飛ばされたからね」
「俺はフィーに頭から突き落とされたんだけどな。パメラ、今日のお菓子はなんだ?」
「きっとお腹を空かせるだろうと、ドライフルーツとナッツのパウンドケーキを用意しましたの。さ、お座りになって」
女二人に男一人、それこそ最初は奇異な目で見られたが、ブラッドと同じコルケット姓とあまり令嬢らしくない振る舞いに、ブラッドが家から何かしでかさないように見張りとしてつけられ、ブラッドの婚約者のパメラも巻き込まれたのだろうと周りは納得し、三ヶ月も経てば当たり前の風景になる。
元はシルバーブロンドに王族の印とも言われる揺らめく淡いライラックの瞳を持つフィーだが、今は魔術により、ブラッドと同じセピア色の髪にスカイブルーの瞳だ。誰も彼女を王族の姫君とは思うまい。
「あーあ。ブラッドにいじめられて私はすっごく落ち込んでいる。パメラが私にあーんしてくれたら、私すっごく元気になる気がするな」
「フィー? まだ吹き飛ばされ足りないのか?」
「やーだやだ、男の嫉妬は醜い醜い。こんな可愛いパメラにそんな醜いもの近づけないでちょうだい。しっしっ」
「フィー練習場に戻るか? 受けて立つぞ」
「お二方共、お静かに。紅茶が冷めてしまうわ」
「「はい、パメラ嬢の仰せのままに」」
呆れたように笑うパメラに自然と笑みが溢れる。こんなふうに王女でも何でもなく、気楽にいられる雰囲気をフィーは気に入っていた。
学園では魔術の基礎や言語、数学など様々な基礎の他に、己が学びたいと思う学問を選択できる。フィーもまた古代魔術と魔術が魔法と呼ばれていた時代の研究をしている。王女としてのフィーの話し相手でもあった学園の研究者の一人から図書館の奥にある貴重書庫の閲覧許可書を貰い、時折こんこんと本に没頭する。気軽に遊べる友達なんていなかったフィーは昔から読書が好きだ。本を読むために幼い頃のうちに他国の言語や古代語もある程度覚えた。
古びた香りに保管魔術が幾重にも重なる重要図書の一つを閲覧室で丁寧にめくり、気になる記述をメモに残していく。時々別の本と見比べて、時代による推移を考えたりして。
……フィー。
少しだけ鋭い声がフィーの脳内に響く。パメラの声だ。魔術式を組み込んだイヤリングからの通信だろう。はっと顔を上げると、向かいに座る男がじいっとこちらを見ている。しかしその視線はフィーを見ている、と言うよりはフィーが読んでいる本を見ているようだった。離れた席にいるパメラが本の隙間から警戒するようにこちらを窺い、フィーの身分を知る学園のメイドもさりげなく注視してるようだ。
「……何か?」
「ああ、すまない……興味深い本だったもので……」
よくよく見れば同じ古代魔術の授業を取っている男だ。たしか、マクミラン辺境伯の御子息のはず。彼もまた熱心な生徒で、大の魔術馬鹿と言われていた覚えがある。なるほど、と思わずフィーは笑い、パメラに大丈夫、と視線を送る。
「いいよ、こっち側にきたら? マクミラン様も確か古代魔術の研究してたよね」
「……いいのか? すまん」
思ったよりもあっさり彼は席を移動した。不自然にならない程度に隙間を開けて隣に座り、本をマジマジと眺める。
「……これ、本物は確か王宮の宝物庫に一冊のみで、複写が五冊しかない本だよな」
「おや、見たことあるの?」
「博物館で複写を眺めただけだ。……古代語か? いや、見慣れない単語があるな」
「そうなんだ、これ多分この時代のこの地方特有の言語が混じっているんだ。例えばこの一単語だけで"春のそよ風に混じる霧雨"を意味している」
「……つまり独特な魔術式の短縮単語か!」
「そう! しかもここの記述見て。これ直訳だとおそらく『風を編む細やかな友人』になるんだけど、恐らく妖精を指していて……」
「これは古代語の奇跡だな。奇跡とはすなわち魔法……協力、とあるから……つまり魔法と魔術がまだ混じり合っていた時代の可能性か?」
「そう、そう!」
しぃ、と司書から注意が入る。すみません、と謝りながらフィーと青年は顔を見合わせる。
「レオナード・マクミランだ。同じ古代魔術の授業を取っていたと思う。レオナードでいい」
「フィー・コルケット。話が合いそうで何よりだよ。ブラッドもいるし私もフィーでいい。ねえ専門は?」
「現代における魔法の再現」
「大きく出たなぁ。私は純粋に魔法が存在していた時代について研究してる」
小さな声で話が盛り上がる。結局ブラッドが来るまで小さな声で話し続け、次の授業で今度はレオナードが本を持ってくるとの約束を交わし、フィーは大満足だ。
「楽しそうでしたわね」
パメラの言葉にもフィーは笑顔だ。
「似たような研究傾向なんだけど、着眼点が互いに違うから面白い! 次の授業の後にまた話をする約束をしたんだ」
「…………完全に研究目的だな」
「私は学びたくて学園に来てるからね!」
大満足、とふくふくと笑うフィーを見ながら、パメラはどうなるかしら、とブラッドとそっと視線を合わせるのだった。
レオナード・マクミランは辺境伯の一人息子だ。国の設立時からある由緒正しき家系であり、険しい山と荒々しい海の両方を持つその領地には特有の魔術や言語がある。だからこそフィーは城や学園だけでは得られない知識を求め、レオナードと共に過ごすようになった。離れた位置にメイドに扮した護衛を置いたり、パメラが付き添ったりとけして二人きりになることは無いが、それでも言葉を交わしていくうちにじわじわと胸に温かさが満ちる。
「レオナード様は何ていうか、見かけによらず、だね」
「どういう意味だ」
中庭の東屋に本と論文を広げ、古代魔術の再現をしながらのんびりとお茶を飲む。そんな時間を過ごしながらフィーは隣で手慰みに古代魔術式を書き写してるレオナードを見る。
「レオナード様、見た目はど真面目で勉強以外に興味はない、近寄るなって感じじゃん」
「馬鹿にしてるのか?」
「でも、割とお茶目というか、こっそり手を抜くのが上手いというか」
「褒めてないよな」
「褒めてる褒めてる。もう少しだけ愛想良くすれば友達増えそうなのに」
「気の許せる友は少数でいい。そういうお前こそ、友達と言うならあそこの二人ぐらいじゃないか」
少し離れた場所で本を読むブラッドと彼に寄りかかりながらレース編みをしているパメラが見える。時々何かを囁き合って笑う様子に、フィーの護衛と言うことを忘れているんじゃないかと思ってしまう。
「私は親友だって思ってるけど、向こうはどうかな。詳しくは言えないけど私訳ありだし」
「詳しくは聞かないが、悪くは思ってないだろう。俺がフィーと会話をするようになった時、思いっきり探られたぞ。あれは警告もあるな」
「…………なんかごめん……」
「それに、俺だってお前とは付き合いやすいと思ってる」
ぱちり、とフィーが瞬きをする。そして思わず笑みを浮かべた。
「レオナード様の貴重な好意だ。魔術式で保存しなきゃね」
「お前やっぱり馬鹿にしてるだろう」
「してないしてない」
好意、と言われて。心臓がはねた。
ああ、これは何という感情なんだろう、なんて。そんな乙女らしいことなど言わない。フィーは王国きっての才女で、親友と親戚は相思相愛で、両親も祖父母も恋愛結婚で。
どうしようか、と。口の中だけで呟き、フィーはクッキーと一緒にそれを飲み込んだ。
初めて気になる人が出来た。彼は辺境伯の一人息子で、身分としては釣り合っていて、年も同い年。趣味も話も合う。図書館に彼は入り浸っているらしく、フィーもかなりの頻度で使うのでなにかと顔を合わせる。校内ですれ違えば挨拶をしたり、小話をするぐらいの仲になった。時々お茶会と称して互いの研究を話す討論会もする。男と女としては甘さのない時間が、それでもフィーはこの感情に名前を付けるならば、と思い当たってしまう。
もっとも、最初こそ許可書がないと読めない重要文献を読む為に許可書を持っているフィーに近付いたのだろうが、それを隠すことなく知識への貪欲さを見せる姿は好ましい。何より話が合う。古代の魔術が魔法と呼ばれていた頃を中心に研究しているフィーと、現代における魔法の再現を目指すレオナード。互いの研究と知識を交換する時間を、フィーはとても楽しんでいる。
「ねえ、フィー。レオナード・マクミラン様に嫁ぎたいのですか?」
パメラの言葉にフィーはゆっくりと瞬きをする。一度周りを見て、誰もいないことを確認すると指輪に付加している防音と目隠しの魔術を展開する。そして少し困ったように笑った。
「……確かに、わたくしはレオナード様に恋をしている」
それはフィーではなく、この国の王女としての言葉だった。
「けれども、わたくしが一言でも彼を好ましいと伝えたら、きっとあっという間に彼はわたくしの婚約者になる。そうなれば王族を迎える為に、研究することはままならないでしょう。……彼は将来的に辺境伯を継ぐことが決まっている。なので学園にいる間に、好きなだけ学問に励み、確かな功績を残したいとわたくしに言ったの」
「……殿下」
パメラが心配げにフィーの本当の名前を呼ぶ。けれどもフィーは輝かんばかりの笑みを見せた。それは尊き貴人だと、思わず傅きたくなるような笑みだ。
「パメラ、わたくしはね。こんなふうに彼とお話しできるだけで嬉しくなって、目が合うだけで照れ臭くて、すれ違うだけで舞い上がるような気持ちは初めてで、本当に嬉しく思ってるんだ」
わたくしは幸せだ、と笑いながら指輪の魔術を解く。さて、と立ち上がった様子に先程までの尊さは見えない。
「パメラ、図書館に本を返しに行きたいんだ。一緒にどう?」
「……ええ、ご一緒しますわ。フィー」
「あ、レオナード様、御機嫌よう」
図書館に入るなりレオナードが顔を上げてフィーを見て笑う。フィーもパッと明るい笑みを浮かべた。
「フィーか。パメラ嬢も、御機嫌よう。ちょうどよかった。この間フィーが話していた当時の精霊信仰と民衆寓話の関係性について書かれた本はどれだったかもう一度教えて欲しい」
「ああ、アレね。いい本だよね。パメラごめん、ちょっと奥に行ってくるね」
「私はここでこちらを読んでますから、お気になさらず」
微笑むパメラに見送られ、フィーは嬉しそうにレオナードと書庫の奥へ向かう。フィーと話すレオナードの目は優しく、パメラはなんとも言えないもどかしさを感じながらも手に取った物語を読み始めた。
「そう言えばレオナード様。この間古い御伽話を集めた古文の文献に面白い記載があったよ」
「どんなのだ?」
「民話を集めたものなんだけど、精霊の祝福って言葉が繰り返されて、その祝福の内容が現代魔術と一部似通ってて」
魔術と魔法の違いについて、誰もが幼い頃、母や乳母から御伽話として聞かされる。魔術とは誰もが持つ魔力と世界に満ちている魔力を結びつける為の工程を経て、計算式のように呼び起こすもの。そして魔法は工程も何も、己の持つ魔力すら関係のない、世界からの奇跡という名の祝福。かつては存在していた「魔法使い」と呼ばれる世界との結びつきの強い人のみが起こせるものなのだ。
「またなんというか、御伽話らしいと言うか、言い伝えらしいというか……そういえば、王族にも代々伝わる魔法があるそうだ」
突然降ってきた話題にフィーは少しばかり目を丸くする。秘密の噂話とは、すなわち誰もが知るもの。フィーは少しだけわくわくした気持ちで促す。
「へえ、王族に? どんなの?」
「いや、さすがに内容は。ただ初代の王妃は妖精の落とし子と言われてるだろう? 王妃に贈られた妖精の祝福が、代々王族を守る魔法だとかなんとか」
「素敵な話だね。あー、気になる」
どこかに記述がないかな、なんて笑って。ふとフィーは口を開く。
「確かルーファス王太子殿下の第一王女殿下って私達と同い年だよね? レオナード様、一応身分的にはいけるんだし、お友達になったら? 珍しい資料手に入るかもよ」
「お前、研究の為に友人と王族をくっ付けようとするか普通……」
不敬だ不敬、なんて言うレオナードに笑ってしまう。
「でもさ、本当に身分的にはいけるじゃん。レオナード様婚約者もいないし、候補に入ってるんじゃない?」
「ああ、どうだろうな……まあ来ても断るだろうな。研究よりも惹かれる理由でもない限り、お姫様を迎えるのはなあ」
「お姫様より研究取る方もなかなかに不敬じゃない?」
「ここだけの話だここだけの話。それよりお前はどうなんだ。コルケットの隠された御令嬢?」
「え、なにそれどこから出たの」
「一度も社交界に出たことがなく、学園にしか現れない。コルケット殿との仲は良好、身体が弱い様子もない。コルケット殿の婚約者とも親密。フィー、お前男説も出てるぞ。コルケット殿の双子の弟」
「何もかもがついていけないんだけど……私どう見ても女じゃない」
「戦闘魔法でコルケット殿とまともにやり合ってるからなあ」
「ええ……そんな理由で……だったらカークランド近衛団長ご令嬢なんか、もう男の中の男になってしまうよ」
全く知らなかった。フィーは思いっきり呆れてしまう。確かに妙な噂を避ける為に社交界で踊るのは兄と父や既婚の公爵達ばかり。近くでフィーを見る機会なんてあまり無いのだろう。いや、でもだからといってここまでバレないのか。まあ元の色がだいぶ特殊だけども。
「ちょっと待って。まさかレオナード様まで私のこと男だと思ってないよね?」
「可能性はなきにしもあらず、ってあたりかな」
「ちょっと!」
どう見ても女でしょう、と思わず腰が浮くが、ぽん、と頭にレオナードの手が置かれる。
「冗談だ。どう見たってフィーは女の子だよ」
思わず息が詰まる。不意打ちだ。ずるい。顔に熱が集まる。
「こんなんで顔を赤くするんだから、そりゃ女の子だろう」
「か、からかわないで、もう」
椅子を引いてレオナードの手から逃れる。頬に手を当て、必死に熱を逃すのを、レオナードが楽しそうに見ていた。
さて、そんな淡い恋を育て、一年が過ぎた。二年になったその年、一人の少女が入学してきた。もともと貴族でもなく平民で、しかしまるで魔法のように魔術を意のままに扱うと伯爵家の養女になった少女。
名を、フィオナ・ローズ。セピア色の髪にスカイブルーの瞳の可愛らしい少女だ。
「ブラッド様!」
華やかに笑いながらフィオナがブラッドに駆け寄る。その様子を見てパメラの顔が僅かに曇る。
「ブラッド様、今日は魔術を使った試合があるんでしょう? 私、応援に行きますね!」
「婚約者も応援に来てくれるのですが、ローズ嬢の応援も頂けるとは、光栄ですね」
救いはブラッドが明らかに迷惑、と笑顔に貼り付けて対応していることだろう。パメラはきっと一時の憧れよ、と首を振って見逃しているが、それにしてもあまりにも無い。淑女としてない。婚約者とすごしているところに突撃するのは、淑女以前にない。
「御機嫌ようローズ嬢。すまないブラッド、さっき先生が呼んでたよ」
二人の間に割って入るようにフィーが話しかけると、ほっとしたようにわかった、とブラッドがその場を後にする。フィー、と心配げにパメラがフィーを見ていた。
「ちょっと、ブラッド様は今私とお話ししていたでしょう! 話に割って入るのは失礼じゃないの!?」
「申し訳ありません。何やら急ぎの用事のようだったので」
フィオナがフィーを睨むが、フィーは飄々と微笑み返してみせる。
「それに、失礼と言うのならば婚約者がいらっしゃる男性に向けて特別親しくしようと言うのは失礼ではないのでしょうか」
「フィー、私は気にしてないわ」
控えめにパメラがフィーに声を掛けるが、それにしてもここ最近、あまりにも頻度が多すぎるのだ。明らかにブラッドに固執している様が窺える。そして異様にフィーを敵対視してるのだ。
「だったら、貴女はどうなんですか! 貴女だってブラッド様にずっとくっついて、失礼じゃないの!?」
「私とブラッドは親戚で、ブラッドは私のお目付役……というか保護者だから、これに関しては双方の親、あとパメラの許可も得てますね」
「フィーは私の大切なお友達ですもの。ブラッド様含めて仲良くしてくださると嬉しいわ」
おっとりとパメラが微笑む。その様子に周りは、やはりコルケットの血筋の隠し子が、と噂が聞こえだす。一言たりとも間違っていない。祖父母の兄妹まで遡るが、確かに親戚だ。
「フィー、もう行きましょう。ローズ様も、今は少し混乱なさってるようですし」
パメラがフィーの手を引くので、仕方なし、とフィーはカーテシーをしてその場を去ろうとして。
「本当はフィー・コルケットじゃないくせに」
フィオナの呟きに、一瞬だけ肩が跳ねた。
一度表立ってフィーが注意したことにより、フィオナは落ち着いたかのように思えたが、しかしそれはほんの少しだったらしい。フィーがいないのを見計らってフィオナはめげずにブラッドに近付き、果てはパメラにまでお友達になりましょう! と声をかけた。
「パメラと友達になればブラッドと近付いても良いって思ってるの?」
「フィー、眉の間のシワが凄い」
レオナードが苦笑しながらクッキーの皿をフィーに寄せた。パメラとブラッドは少し離れたところで久々に二人きりのお茶会を楽しんでいる。こちらはこちらで論文と参考書を広げながらのお茶会だ。
「レオナード様はああ言う元気な子が好み?」
「いや……見かけは確かに可愛らしいとか庇護欲は唆るのかもしれないが、俺には荷が重い」
「ふうん。そういやレオナード様の好みとか聞いたことないな」
「魔法を使える人」
「王族でも迎え入れれば?」
さくりとクッキーを口に含んでほろりと崩れていく感触を味わう。美味しい、と素直に言葉が溢れ、今日のお茶請けを持ってきたレオナードが少し自慢げに目を細めた。
「そういえばレオナード様。今度社交の授業があるんだけど、パートナー決まってる? 誘う予定の人いる?」
「それ、お前から言い出すのか?」
「だってパメラとブラッドは絶対だから私一人あぶれるの確定だし、年の近い人と踊ったことないし誘ったことも誘われたこともないし……」
はあ、と息を吐くと何故か意外そうにレオナードが目を丸くする。
「……年の近い人以外とは踊ったことあるのか?」
そういえば。「フィー・コルケット」は一度も社交界に出たことがないのだ。これは完全なうっかりだ。しまった、と思いつつもそれを表情に出さずに紅茶を一口。
「父と踊ったり、あと一応レッスンは受けてるから、先生とも踊ったことあるよ」
「ああ、そういう」
「でもブラッドとは踊ったことないし、本当に歳が近い人とは無いかなあ」
上手いこと誤魔化されたのか、誤魔化されてくれたのか。まあいいか、と思いながらカップをソーサーに戻すと、その手をレオナードが取った。
「それでは、フィー・コルケット嬢。俺に貴女をエスコートする権利を下さいませんか」
取られたフィーの指の爪にほんの少し、軽くレオナードの唇が触れる。ぶわり、と一気に真っ赤になり、蒸発してしまいそうだ。
「ちょ……っ、ちょっと!」
「ほら、たまには淑女らしく返事」
「しゅ、淑女らしくって、なにそれ、急に貴族みたいに!」
「貴族だしな」
ああ、顔が熱い。火照る顔色が戻る気配は見せないけれども、フィーは心から笑みを浮かべる。
「お受け致しますわ。どうぞ、一夜の夢へ、私を導いて下さいませ」
そう囁き返せば、レオナードが驚いたように目を丸くし、そして小さくはにかんだ。
「やればできるじゃないか」
「一応、私もお嬢様だからね」
そんなことを言いながら、どちらともなく笑い合う。まだフィーの手はレオナードに取られたまま。もう少し、もう少し。彼が離すまで、もう少しだけ。フィーはそう願いながら笑っていた。
もう既に社交界に出ている人も多い中、社交の授業はパーティー形式で行われる。一年の間に学んだ仕草、ダンス、話題選びのセンス、挨拶の仕方。先生も交え、学園内にある立派な会場で行われる様子は、本物のパーティーと同じようだ。
深い紺色にレースとクリスタルをちりばめたシンプルなAラインのドレスを纏い、タキシードのレオナードに手を引かれながらフィーは淑女らしく振る舞う。
「御機嫌ようブラッド様、パメラ様。まあ、パメラ様、今日は素敵なアクアマリンの宝石を付けていらっしゃるのね。もしかして、ブラッド様から?」
「御機嫌ようフィー様。ええ、コルケット領で採れたものですの。カットする前のものから、ブラッド様が選んでくださったのよ」
うふふ、と笑い合う様子に、レオナードの笑顔が引きつる。
「……本物のフィーか?」
「フィーの淑女の演技は凄いからな……」
小声でレオナードとブラッドが会話していると、不意に人々のざわめきが大きくなる。声につられるように視線を動かせば、愛らしい桃色のふんわりとしたドレスを着たフィオナがこちらに向かっているところだった。
「御機嫌ようブラッド様、パメラ様!」
「……御機嫌よう。ローズ嬢、パートナーが見当たらないようだが……」
「ローズ家の執事にお願いしたのですが、今少し席を外してますの。それより、ブラッド様もパメラ様も、ぜひ私のことを名前で呼んでくださいって言ったじゃないですか! 私、実は子供の頃はフィーって呼ばれてたんですよ」
凄い喧嘩売られてるなあ、と思いながらもフィーは微笑む。
「まあ、私と同じですわね」
「フィーが二人じゃ混乱してしまうな」
ブラッドが相槌を打つ。遠回しの否定だが、しかしその日のフィオナはいつも以上だった。
「……なら、偽物のフィーさんは退場して貰えばいいんです!」
「は?」
ブラッドが思いっきり素で声を上げる。フィーもパメラも訳が分からず、それでもなにかを感じたのか、レオナードがフィーを背後に庇った。ざわり、と視線が集まるのを肌で感じる。
「ブラッド様。フィー・コルケットはコルケット公爵の隠し子、腹違いの妹なんでしょう」
「は?」
「え、なにそれ」
フィーまで思わず素で声を上げてしまう。そうなのか? とレオナードが一瞬フィーを振り返るが、明らかに困惑する様子に違うんだなあ、とフィオナに向き直った。
「お義父様……ローズ伯爵が言ってました。私の目の色も、髪の色も。コルケット公爵と全く同じだと。私こそが、本物のコルケットの隠し子で、伯爵は私を保護したんだと! 母の顔は覚えていませんが、コルケットのメイドだったそうですし、」
「口を慎め」
キン、と鋭い音がひとつ。ブラッドが腰につけた剣を鳴らす。それは威嚇と敵意を示す行動。貴族ならば事の重大さに震えるほどの、怒りだ。しかしフィオナはその意味を知らないのだろう。さらに声を大きくする。
「いいえ! ブラッドお兄様。私こそが、貴方の妹なんです! 家族なんていないと思ってましたが、やっと、やっとちゃんと私は家族に……っ」
「……ローズ伯爵からコルケット公爵への侮辱と見做した。至急家と城に馬を」
「お兄様……!」
「黙れ。……先生、彼女を兵に引き渡す許可を」
どうして、どうして信じてくれないんですか、とフィオナが叫ぶ。周りは困惑するしかない。
はあ、と。フィーは溜息をついた。
「……もういい。ここは"わたくし"が収めるよ。元の原因はわたくしなんだから」
その囁きは、近くに居た数人にしか届かない。けれどもフィオナには確かに届き、彼女はどんな言い訳をするつもりだと睨みつける。フィーの一番近くに居たレオナードにももちろん届き、彼は戸惑いの瞳を彼女に向けた。
「静粛に」
小さく開いたフィーの口から大きくはなくとも朗々たる声が響き渡る。不思議とその言葉には尊さがあり、傅かざるを得ない。誰もが反射的に膝を折った。フィオナですら操られるかのように跪く。跪かざるを得ない。
「フィオナ・ローズ。そちらの発言は、学園内でことを収めるには些かやんちゃが過ぎましたね。……ああ、静粛に、とわたくしが申したでしょう? 皆様、まだお静かになさって下さいませ」
反論をしようとして、けれどもフィオナの口からは吐息しかこぼれない。音が出ない。誰一人の声もなく、跪いたまま動くこともできず、フィーの独壇場だ。
「この度はわたくしが、静かに学園生活を送りたいと我儘を言ったのが原因ですわね。コルケット公爵にはわたくしからお話ししましょう」
そこで言葉を切ると、フィーはふう、と甘く溜息をつく。その仕草ひとつで憂いと儚さが混じり合い、敬い傅き、畏れが混じり合った感情が込み上げてくる。その溜息の原因を取り除きたいと、お側に在りたいと、助けになりたいと。それはフィオナにすら込み上げて、困惑と戸惑いに苦しさすら覚える。
「まさか、適当に用意した役割を本物だと思い込み、なりかわろうとする方がいらっしゃるなんて思いもしませんでした」
こつ、こつ、こつ。ささやかにヒールを鳴らし、フィオナの前にフィーが立つ。
「ええ、わたくしはフィー・コルケットではありません。そもそも、フィー・コルケットと言う名の娘は存在しません。コルケット公爵はとても愛妻家ですわ。夫人が身重な時期はほとんど領地に篭りきりで夫人のそばに付きっきりだったと聞きます。そんな公爵に隠し子なんて、あり得ないとわたくしが断言致しましょう」
どういうこと、とフィオナの唇がはくりと動く。それを見てフィーは微笑んだ。
かちり、かちりと。魔術が展開される。美しい魔術式がフィーの指輪から浮かび上がり、染められていたフィーの瞳と髪が本来の色を取り戻す。その尊き色に、その瞳が示す色に。社交界に出てる者ならば、彼女を知らぬはずがない。出ていなくても、分からないはずがない。平民であったフィオナでさえ、建国祭で見たことがある。遠目でもその色彩を確かに拝見したことがある。ふわりとシルバーブロンドが広がり、甘く淡いライラックの瞳が憂いを帯びて微かに揺れる。
「オーフィリア殿下」
フィーは……オーフィリアはそっと笑みを浮かべる。それだけで周りは傅いてしまう。殿下、姫君、王女様。さまざまな声が響く。漣のように広がる声が鎮まるのを待ち、オーフィリアは口を開いた。
「フィオナ・ローズ」
可哀想なほど彼女の肩が震えている。
「どうか、正直にお答え下さいませ。貴女に先程の話を吹き込んだのは、ローズ伯爵ですか?」
「……はい……伯爵と、その長男です…………」
跪き、顔を上げられない。そんな彼女の前でそっと膝を折り、オーフィリアは微笑んだ。
「わかりました。大丈夫。貴女はきっと彼らにより洗脳されたのです。利用されてしまっただけです。家族を欲する気持ちを利用するだなんて、ひどい話ですわ」
優しく語りかけ、オーフィリアはそっとフィオナの頭を撫でる。
「もう大丈夫。貴女のことはわたくしが庇護致します。貴女は騙されただけですもの」
はらりとフィオナの瞳から涙が一粒溢れた。先程の勢いは全く見当たらず、唇を震わせてひたすらに最敬礼をする。
「……先生方。陛下にオーフィリアの名で急ぎ使いを。皆様、授業を台無しにしてしまい申し訳ありません。ブラッド、パメラ。わたくしはフィオナと共に城へ戻ります。ブラッドはわたくしに、パメラはフィオナに付いて差し上げて。ああ、そこの教師。馬車を二つ用意して下さいませ」
「かしこまりました殿下」
「仰せのままに」
一度オーフィリアに頭を下げるとパメラはさあ、もう大丈夫よ、とフィオナを連れ出す。
ぱんっとオーフィリアが手を一度叩けば、一瞬で静寂が飛び、ざわりと吐息や声が溢れ出す。戸惑いの視線をものともせず、するりとオーフィリアは振り返った。
「……レオナード様。せっかく誘ってくれたのに、途中で放り出しちゃってごめんね」
そっと歩み寄りながらフィーがレオナードに囁く。レオナードはまだ傅いたままだ。
「……オーフィリア殿下と気付かず、数々の失礼お詫び申し上げます」
「いいよ、今だけは気楽に、今まで通りのフィーでいい」
フィーの口調で告げて、ようやくレオナードが顔を上げた。
「……フィー」
「ふふ、フィーってお爺様が最初に呼び出してね、お母様にもお父様にも、叔母様にも伝染ったし。パメラやブラッドも公じゃないところではフィーって呼んでるし」
「……親戚って、確かにコルケットは王太子妃の御実家だが…………」
「まあブラッドとは又従兄弟だしね」
なにを、言おう。たぶんこれが最後なんだろう。悩んで、悩んで。フィーはさっと指輪の魔術から防音を小さく展開し、レオナードの耳に唇を寄せた。
「魔法を見た感想はどう?」
「…………!?」
魔法、と呆然と呟くレオナードに自然と笑いが込み上げる。
「王族の直系はね、言葉に妖精の祝福を受けてるんだ。相手を敬わせ、従いたくなる。その尊さに頭を垂れざるを得ない。強制力は弱いけれども、意識すればとても危険な魔法。妖精にとっては愛し子が無理に手籠にされないように少しだけ、という程度だったんだけど、原始の祝福の魔法は強過ぎたみたいでね。意識すれば勝手に発動する、奇跡だよ」
あれが、と呆然とするレオナードにフィーは笑い掛ける。
「たくさん話せて、本当に楽しかった。貴方ならきっと魔術の源、魔法の真髄に到達できると思うよ」
ぱちん、と魔術が解ける。凛と背筋を伸ばし、確かな威厳を醸し立ち上がる姿は、オーフィリアだった。
「お待たせしました。ブラッド、馬車は?」
「用意できてます。パメラ達は先に向かいました」
「ありがとう。それでは皆様、お騒がせいたしました。また夜会でご挨拶できるのを楽しみにしてます。御機嫌よう」
微笑んで会場全体を見渡す。もうレオナードと目を合わせることは許されない。柔らかな微笑みに、会場の人々は全てそっと膝を折った。
「フィー殿下、これでよかったのか?」
「論文は充分に納めてるし、足りない分は教師を城に招けば卒業はさせてもらえるだろうし、充分楽しめたよ」
馬車の中でブラッドが心配げにオーフィリアを窺うが、オーフィリアは静かに首を振って笑う。
「あー、本当に楽しかった。わたくしは本当に満足しているよ」
「……なら、いい。フィオナ嬢はどうする?」
「ローズ伯から籍を外して、侯爵以上の家に一時的に預けようかなって。お爺様にもそうお話しするつもり」
「ならコルケット家は当事者だから外して貰って、パメラの家はどうだ?」
「あー、スウィフトなら王都から領地は離れてるし、落ち着けるかな。わかった、わたくしから提案してみます」
今後の話をしていくうちに城に着く。馬車から一歩踏み出すのは、この国の王女、オーフィリアだ。
「オーフィリア、ただいま戻りました。陛下にお時間を頂けるか使いを」
微笑みながら微かな魔法を纏い、王族の娘として堂々と。穏やかな初恋に頬を染めた娘の姿は、どこにもなかった。
その後、フィオナはローズ伯からの籍を抜かれて分家に嫁いだパメラの姉の家に身を寄せることになった。しばらくはそこでパメラの姪の相手をしながら授業を受けるらしい。その後の道行はまだ決まってないものの、貴族の娘という仮面を外せ、穏やかに過ごしているそうだ。
ローズ伯爵は近年借金が嵩み、コルケットの娘を保護したことによる謝礼を狙っての犯行だったそうだ。フィオナの両親はどちらも幼い頃に亡くなって、フィオナは叔母の家に預けられていたが、その叔母の夫の姉が元々コルケットでメイドをしていた、という情報を掴んでいたらしい。それは確かに本当の話だったのだが、そのメイドは結婚を機に職を辞し、コルケット領で穏やかに暮らしている。ちなみにそれはコルケット公爵夫人が身籠るよりも数年前の話で、明らかに無関係だった。コルケット公爵の怒りは凄まじく、ローズ家の二人は爵位を剥奪され、罪人として牢獄へ連れて行かれた。
そしてオーフィリアはというと。提出した論文と城内で受けたテストにより、特別枠としての学園卒の権利を得た。一足早く学園を卒業してしまえば、今度こそ大人と認められる。
「パメラが学園に戻ってしまったら、わたくしの話し相手がいなくなるね」
「あら、たくさん手紙を書くわ。おやすみの日にはお茶会をしましょう。フィーはそれじゃあ不満?」
「まさか、嬉しいよ」
「フィー、俺の存在忘れてないか?」
「おやブラッド、まだいたの?」
ころころと笑うオーフィリアを、そっと二人は窺うが、美しい仕草で紅茶を飲む姿に異変はない。
「ああ、そう言えば。今度夜会を開くのよ。三ヶ月後の話なんだけど。他国の王族筋も招く予定だよ」
「……オーフィリア殿下主催?」
「と言うよりお父様主催。まあわたくしの婚約者探し、第一弾だね」
「そ、う……」
パメラがそっとオーフィリアの手を掴み、包み込む。オーフィリアはにこりと笑った。
「もちろん忙しければ出なくて問題はないけど、今度の休みにデザイナーを呼んで一緒にドレスを作ろう、パメラ」
「……はい、是非ご一緒させて頂きますわ」
パメラもブラッドも分かっている。オーフィリアはこの国の王族であり、この世代唯一の姫君だ。国内の情勢が安定しているとは言え、彼女はきっと自分が嫁ぐことにより国に益が出る結婚を望むだろう。
「パーティー、楽しみだね」
そう笑う彼女の笑みには、確かに嘘はないのだ。
シルバーブロンドの髪には白い花と淡い紫のリボンが編み込まれ、落ち着いたオパールグリーンのドレスを着たオーフィリアはさながら妖精姫だ。
「俺のお姫様は今日もとても可愛らしい」
「アーノルドお兄様も妖精のように可愛らしいよ」
「それは褒めているのかい?」
「もちろん、わたくしの愛おしいお兄様」
七つ年の離れた一番目の兄とファーストダンスを踊る。彼の妻は数ヶ月前に妊娠が分かった為、暫く兄の相手をオーフィリアが務めているのだ。全く同じ色彩を持つ彼は淡いグレーのタキシードに妻の瞳の色であるコバルトグリーンの宝石をあしらい、髪は淡い紫のリボンでまとめ、二人揃って踊ればそれこそ妖精達が舞うようだ。
「さて、次のダンスはいつもならユリシーズだが」
「ユリシーズお兄様にはもうすでにお断りしてる。わたくしももう大人。任せてよ。とっかかりにブラッドにセカンドダンスをお願いして、そのあと適当に紹介して貰うつもり」
「ユリシーズが泣いてるぞ」
「自分の婚約者ともう一度踊ると喜んでた。ユリシーズお兄様、愛が重すぎてお義姉様に逃げられそう」
「否定はできない、……っと、そろそろ口調」
「うふふ、心得ていますわ」
五つ年上のもう一人の兄の話をしながらくるりとターンをして、そっと頭を下げる。音楽の余韻が溶けていくのをみて、それじゃあまた後で、と兄に微笑む。
さて、とブラッドを探すべく視線を彷徨わせ。
ふと、時が止まったような感覚に陥った。
カツン、カツン、カツン。その音はまっすぐオーフィリアに近づく。オーフィリアがセカンドダンスを誰とするのか好奇の目を向けていた貴族達は、オーフィリアがただ一点に目を向けてるのにすぐに気付いた。
「素敵な夜ですね、オーフィリア殿下」
少しだけ離れた、後一歩前に出て手を伸ばせば届く位置で彼は立ち止まる。必死に王女の仮面を貼り付け、オーフィリアも微笑む。どうして、どうして彼が? ブラッドはどこ。
「私はマクミラン辺境伯の長男、レオナードと申します」
「……存じ上げてます。お久しぶりですね」
どうにか声は震えずに済んだ。一歩、レオナードがオーフィリアに近づく。
「オーフィリア殿下」
そしてその場に跪き、手を差し伸べた。
「俺に貴女をエスコートする権利を下さいませんか」
さああ、と。空気がまるであの学園に戻っていくようだ。知らず知らずに笑みが浮かんでしまう。
「お受け致しますわ。どうぞ、一夜の夢へ、わたくしを導いて下さいませ」
そっと、彼の手に指先を重ねた。
穏やかなワルツが流れ出す。沢山の注目が集まってるのに気付きながら、オーフィリアはステップを踏む。
「……いきなりセカンドダンスを申し込むのは、マナー違反じゃない?」
「コルケット殿に頼む予定だったんだろ。許可は得てる」
少し砕けた話し方をすれば、案外すんなりとレオナードは答えた。
「驚いた。わたくし、てっきり貴方は参加しないと思ってたよ」
「俺はその口調がお前の素で、一人称がわたくしなのに一番驚いてる」
「私に直すの、苦労したんだから。指輪にわたくしって言いそうになったら言葉が詰まる魔術をかけたりして」
「貴族でもわたくしなら違和感ないだろう」
「どんな綻びからバレるか分からないからね。現に、全く分からなかったじゃない?」
「……ああ、オーフィリア殿下とフィーを結びつけたことは無い」
「わたくし、見た目は王族、というより妖精の血がこれでもかと出てるからね。それをごまかせれば案外どうにでもなるよ」
「俺は妖精の実在性が割と本当の話なことに驚いている」
「いるよ。数代前の国王の妹君が確か妖精とお会いできる方だったわ。……まあ魔法を失った人間が見ることは多分叶わないし、わたくしも見たことないし、だから研究内容に選んでいたんだけど」
そんな話をしているうちに、曲が終わりに近づいていく。ふう、と息を吐いてオーフィリアは微笑んだ。
「貴方とお話しできてよかった。……いい思い出になっ」
「フィー」
遮るようにレオナードがオーフィリアを呼ぶ。人の話を遮るなんて、らしくない、とオーフィリアが思わず見上げると同時に、レオナードのステップが止まる。そして彼はオーフィリアの手を取ったまま跪いた。視線は、彼に吸い込まれたままだ。
ざわり、と空気が騒ぐ。ありとあらゆる視線を浴びても、二人が意識しているのは互いだけだ。
「……フィー。これからもずっと、研究や魔法の話をしたり、気兼ねなく話していたい」
「レオナード様、何を」
「一夜の夢ではなく、ずっとフィーと呼ぶ権利が欲しい」
繋いだ指先に力が篭る。頬に熱がたまる。二人だけの世界に取り残されたようで、もう周りの視線もなにもわからない。
「あの時間を、永遠にしたい」
「レオナード様」
音が消える。世界に祝福が満ちるような、心に込み上げてくる感情に翻弄される。
「……王族を迎え入れるのは面倒だったんじゃ?」
「特別な理由がなきゃ、だ」
「研究、満足にできるか分からないよ」
「これから先いくらでも時間を作ろうと思えば作れる」
「わたくし、貴方に好かれるような覚えはないよ」
「話が合って、趣味も合う。俺がまともに話が続くのはフィーぐらいだ」
「だって、わたくし」
「フィー」
柔らかく、愛おしく、静かにレオナードは何度もフィーを呼ぶ。いつも通りの呼びかけが、それに篭る想いは常と変わらず。
「好きだ、フィー」
たった、一言だ。その一言で、充分だ。私が欲しかった一言なのだ。
「わたくしも」
一言、答えて。そうして立ち上がって抱きしめてくれるその腕の中で、フィーはそっと目を閉じた。