幼女とカレーライス
「それで、この子は誰なんですか?」
何とかジャングルジムから出て一息ついた大駒に、伊子が尋ねた。
現在少女は大駒ではなく伊子の膝の上に座って、大駒を警戒するようににらんでいる。
「知らねえ。ホームレスだってよ」
「ホームレスさん……え、この子がですかっ!?」
伊子は信じられないと少女を見下ろす。
だが確かに少女は見るからに汚らしく、随分と長い間風呂にも入っていないような様子だった。匂いを嗅いでみると、確かにクサイ。
「えっと、お名前は?」
「それも知らねぇ」
「じゃあ今までなんて呼んでたんですか?」
「ん? ……おい、とか?」
「倦怠期の夫婦ですか。ちゃんと名前で呼んであげてください」
「つっても、名前知らねえし」
「えっと、あなたのお名前はなんて言うんですか?」
伊子は自分にぴたりと張り付く少女に尋ねた。だが少女は「ぐえっ」としか答えない。
おそらくそもそも口数の少ない性分なのだろう。無理矢理尋ねるのも億劫だな、と思っていた時、伊子は少女の白いニット帽に目を付け、それをゆっくり脱がそうとした。少女はそれを嫌がったが、伊子は少しだけ、と言ってそれを手に取った。
「あ、やっぱりありましたよ。先輩。この子の名前は……〝ノラ〟?」
伊子の想像通りニット帽の内側のタグに、マジックで名前が書いてある。
「……ノラ? ぶははっ、野良ってか。ぴったしだなおもしれぇ!」
「先輩」
空気を読めず不躾に笑う大駒に、伊子が珍しく注意を促した。顔は怒っていないが、しかし彼女が無表情ということ自体が、シビアな状況であることを示している。大駒は伊子の眼差しにやってしまったと気づき、小さく謝った。
「先輩は素晴らしい人ですけど、そういう所は直してほしいです」
「う、うるせぇな。お前に言われる筋合いはねえよ」
「先輩」
じーっと、見つめられる。咎めの瞳だ。
大駒は伊子の鋭い視線に負けじとにらみ返していたが、しかしそれは顧問の猛付にも言われた事で、大駒は自分をいさめるように視線を落とした。
「とにかくこのノラちゃん、どうしてホームレスなんてやってるんでしょうか。こんな小さな子、普通は親がいるはずですけど……」
「それが周りのホームレスに聞いても駄目だったんだ。あいつら一緒の場所に住んでるけど、全員互いに干渉しないみたいでよ。少なくとも一月ほど前からここに住み着いてるのは確かみたいなんだけど、どうしてなのかとかはわかんねえみたいだった」
「そうなんですか。そういえば先輩は、どうしてここに来たんです?」
「え? 俺は、その……」
と、言いかけて止める。
後輩の女子に、自分の弱い部分をさらけ出すのは嫌だったからだ。大駒にはプライドがある。むしろプライドは高い方だ。
「こ、今度な、俺が主役の演劇をするんだ」
「え、そうなんですかっ?」
伊子は一転嬉しそうに顔をほころばせる。
「あ、ああそうそう。それは俺が小さな子供と一緒に冒険するっつう内容なんだけど、その練習に丁度いいなと思ったんだよ。そんで今日もこうして会いに来て芝居のために吸収できるもんを吸収してやろうと思ってな」
「なんとっ! 先輩も、とうとう主役を任されるようになったんですねっ!」
大駒は盛大に嘘をついた。
自分が主役の演劇なんて、そんな話これっぽっちも聞いた事がない。しかし大駒の背丈と同じくらい大きなプライドが、そんな嘘を吐かせる。自分を矯正するために少女に近づいたなんて、恥ずかしくて言えやしない。
「ただまあ、ほら、こいつこうしてホームレスしてるだろ? 俺の練習に付き合ってもらってるお礼に、うちの文化祭に連れてってやろうと思ったんだ。あそこなら食いもんもたくさんあるし」
「なるほどっ。それは良いアイディアですねっ。私、協力します!」
完全に舞い上がってしまった伊子に、大駒は今更それらが嘘だとは言い出せない。これは絶対に自分を矯正して主役に抜擢してもらわなければ、と額に汗を浮かべる。
「よし、じゃあノラちゃん、行きましょうっ! 文化祭、楽しいですよっ!」
伊子はノラを抱いたまま立ち上がった。
しかし当のノラは何事かと、唖然として目をぱちくりさせているだけだった。
○ ○ ○
3人は先ほど通った道を通り、再度九鳴高校へと戻ってきていた。裏門から入り、賑やかなグラウンドを横切っていく。
「ふふっ。なんだかこうして歩いていると、家族みたいですねっ」
大駒、ノラ、伊子の順で並び歩く姿に、伊子はそう言って笑った。
「やめろよ気持ち悪い」
しかし大駒は歯に布着せぬ言葉でそれを否定した。
なんとも空気の読めない男である。
真ん中でチョボチョボと歩いているノラは、初めて見るであろう文化祭の様子に圧倒され、口を開けてキョロキョロと辺りを見回していた。
ぐぎゅるるるる――新種の動物の鳴き声か、と思う程にノラのお腹が悲鳴を上げた。ホームレス生活をしてまともな食事をしていないであろう彼女からすれば、この屋台の漂う臭いはもはや悪魔的だろう。食指が反応するのも当然である。
「どれか食べたいのあるか?」
「……」
「あ、じゃあどうでしょうかっ。私のクラスの大正喫茶に来て、そこで食事するというのは? ぜひ先輩にも来て欲しかったですし! 美味しいんですよ、うちのカレーライス!」
言われるがままに大駒は彼女に手を引かれ、校舎の4階、1年生の教室へと向かった。
だがあまりに巨大な男子生徒と、その手を引く時代劇から抜け出してきたような着物姿の美女。そしてそれらにぴたりと引っ付いて離れない幼女。その光景は一気に周囲の視線を集める。
「ここですここっ。ぜひお入りくださいっ」
大正喫茶。その言葉の意味するところが大駒にはよくわかっていなかったが、それを目の当たりにしてようやく理解する。
そこは大正時代をモチーフにした喫茶店で、店員が皆、伊子と同じ大正時代の女学生のような着物を着用している。料理も当時人気だったりした物を置いてあり、内装も当時の雰囲気を彷彿とさせる作りになっていた。
しかし人気である。確かに雰囲気も良いし、値段もお手頃だ。着物というのは露出は少ないが、だがこれはこれでそそるものがある。
でもそれ以上に人気なのは、伊子だろう。噂の美少女のコスプレ姿を見ようと、大勢の男子が押し寄せている。
「先輩っ! こっちですこっち!」
「え、でも皆並んでるぞ……」
「いいんですっ。私の顔利きですっ」
腕を引っ張られ、強引に店内へと連れ込まれる。
教室に入ってきた大駒を、誰もが唖然と見上げた。入り口付近の席に座っていた女性など、小さく悲鳴をあげたほどだ。
それを聞こえつつも無視し、大駒は教室真ん中の席へと座った。大駒の正面にノラが座る。彼女は未だに周囲をキョロキョロしている。
そのまま数分待っていると、大駒の目の前に暖かく湯気を放つカレーライスが運ばれてくる。
「お待たせしましたっ。どうぞ思う存分食べてくださいねっ。私のおごりですからっ」
ぐぎゅるるるる――また腹の虫だ。ノラは口からナイヤガラの滝のように涎を出している。しかし他人に出された食事を食べて良いのか判断がつかず、カレーライスと大駒を交互に見つめる。
「食えよ」
そう言ってあげると、ノラは椅子の上に立ち、前のめりになるようにしてカレーライスをかき込み始める。相当熱いだろうに、それでも構わず少女は腹を満たそうとする。
大駒もそれを見て、負けじとカレーライスを口の中へとかきこんだ。
「ぐふふ。俺様に勝とうなど百年早いわ」
「ん!」
挑発する大駒に、ノラはむっとした表情を見せた。
そして意地になったように、カレーライスを互いに早食いし始める。
「落ち着いてノラちゃん! 喉詰まっちゃうよっ?」
掃除機かと思う程に、あっという間にカレーライスは底を尽きる。
食べ終わった大駒とノラは、まるでライバルのように睨み合った。互いに口の周りを茶色く汚しながら。
「南都。もう一杯ずつ持ってきてくれ!」
「いいですけど……先輩」
「なんだよ?」
「先輩、そろそろ自分のクラスに戻った方がいいんじゃないでしょうか?」
「……あ」
すでに休憩時間の30分は大幅に過ぎている。
失念していた。と言わんばかりに、大駒は阿呆な声を漏らしたのだった。