悩める怪物
「皆お疲れ。今日は本当に良かった」
暗い空。鏡のように全てを映し出す窓ガラス。そして大きめの部室。
九鳴高校演劇部は、そこで打ち上げを行っていた。
二本の長机に並べられたのは様々なスナック菓子。ドリンクはもちろんジュースだ。
何故ならその打ち上げは演劇部顧問である教師・猛付による教員主導のものであり、今現在も、そこに彼女はいたからだ。学生の身で酒を飲んだり、淫らな行為をすることを彼女は看過するつもりはない。
あくまで健全な高校生による、健全な打ち上げを、九鳴高校演劇部は行っていた。
約五十名近くいる部員が、皆それぞれ輪になって談笑している。
その中に、いや、その外に、大駒はいた。
その二メートル近くある巨躯を小さく丸め、教室の端っこで所在なさ気に一人でちびちびとジュースを飲んでいた。彼が紙コップを持つと、まるで試飲コーナーにある親指サイズのコップのように見えてくる。
「おいブランカ! 教室に巨大な岩が置いてあると思ったらお前か!」
そんな彼に話し掛けたのは、またもや先輩の主役だ。彼はにこやかに大駒に近寄り、彼の肩を何度も叩いた。飲んでいるのはジュースのはずなのに、いつも以上に上機嫌だ。「はっはっ! いやあ今日も良かったな! お前がいれば百人力だ! どんな稚拙な物語も、お前が出るだけで一瞬でリアリティと迫力ある手に汗握る物語に様変わりする!」
「おい、それは僕の脚本が稚拙だってことか? 主役」
遠巻きに、演劇部の脚本を担当している男子生徒が口を挿んだ。
それを聞いて周囲は大きな笑い声を上げた。
「いやいやいや。違う違う。君の脚本はいつもアカデミー賞ものさ。感謝してるよ」
「というか主役さん、さっきの話の続きしてくださいよ。私聞きたいですっ」
弾んだ声で一人の女生徒が言い、主役の腕を引っ張った。
「ああそうだった。どうだブランカ、お前も来いよ!」
「え、う、うっす!」
大駒は言われて立ち上がろうとしたが、しかしその瞬間部室全体が静まりかえった。
誰もが大駒を恐れるように見つめている。
大駒はその視線に気付き、起こそうとした身体を再度座らせた。
「やっぱりやめとくっす。俺、一人が好きなんで」
「なんだなんだ寂しい奴だな! いいから来――」
「部長! 早くこっちこっち!」
主役は困ったように顔を動かしたが、しかし強制的に引っ張られるように輪の中心へと戻っていった。そして先ほどと同じように、周囲に女子をはべらせながら、楽しそうに談笑している。
大駒はそれを見つめている事しかできなかった。
「おい黄磊。どうしたこんなところで一人で」
女性の割に快活な声で、次に大駒に声を掛けてきたのは、顧問の猛付だ。彼女は一人輪に入らずに寂しげに過ごす彼を見かねて、声を掛けたのだ。
「先生……」
「寂しいな奴だなァ。キャストの一人がこんな隅っこでどうする」
「って言っても、俺、悪役のちょい役ですし」
「関係あるか。お前、舞台終わりの挨拶にも出てこなかったな」
「俺が出るとスペース取りますし」
「馬鹿もん。あれは最後まで見てくださったお客さんに対する礼儀だ。お前が嫌だろうがなんだろうが関係ないんだ。今度からは絶対にやるな。私は許さんぞ」
「……はい」
低い声でそう返事をし、大駒は下を向いた。
「良かったぞ、お前の演技は。真に迫ってた」
「こんな身体ですから、迫力は出ますよね……こんな役しかできないですけど」
「でもお前は何かを悩んでいるな? 確かに迫力はあったが、しかしお前の演技には迷いがあった。どうした? 何かあったのか?」
核心を突かれたように、大駒は沈黙を作った。
しかし決意したようにゆっくりと口を開き、
「先生。俺、こんな身体の自分にできることがないかって考えて、そんでこの高校の演劇部の公演を見て感動して、俺にも何かできるんじゃないかって思ってここに入部しました」
「そうだったな。お前は少し遠い田舎から出てきてたんだったな。なんだ、演劇部は不満か?」
ぶるぶる、と風が起こりそうな程に大駒は首を振った。
「違うんす。演劇部は思ってた通り素晴らしいところでした。皆一生懸命だし、公演が終わって、観客から拍手をもらえた時は、すんげえ嬉しかった……でも」
「でも?」
「俺にできることって、怪物役しかないんすよね。舞台の真ん中に立って、スポットライト当たって、皆から注目浴びる事は、絶対にできないんすよね……」
大駒の視線の先には、やはり主役がいた。
皆に囲まれ、皆に親しまれ、皆に愛される。
そんなスターには、なれないのだ。
こんな巨体の化け物には……。
「お前、女の子にモテたいだけだろ」
「っ」
びくり、と大駒の身体があからさまに反応する。
そんな彼を、猛付は半眼で見下ろしていた。
「な、何のことっすか」
「お前主役じゃなくて、周りの女子ばっか見てたじゃないか」
「そ、そんなことないっすよ! 俺は主役先輩に憧れてて……」
顔を上げ、必死に抗議しようとした大駒だったが、しかし猛付の冷めた視線に、汗を滲ませる。慌てて大駒はもう抗議した。
「ななな、なんすか! 俺、そんなふしだらな事考えてねえっすよ!」
「ふうん」
「ち、違うって言ってるじゃないですか!」
顔を真っ赤にして抗議する大駒。その彼が手に持った、まだ中身の入っている二リットルのペットボトルが、ギチギチと音を立てて握り潰されていく。
「お、落ち着け黄磊! わかった! 冗談だ!」
「先生酷いっす! 俺は真剣に相談してたのに、そんな言われ方するなんて――」
ブシュッ――と音が鳴り、大駒の握り締めていた二リットルのペットボトルが、破裂した。大駒の凄まじいまでの握力が、ペットボトルを潰したのだ。普通の人にはでき得ない仕業だ。
中身のオレンジジュースが飛び散り、それは正面にいた二十七歳独身、彼氏絶賛募集中の猛付に浴びせられる。彼女の白いブラウスはオレンジ色に染まり、髪もべとべとに濡れた。じんわりと彼女のブラジャーが透けて見える。大駒はそれを見てまるでイノシシのように鼻息を荒くして興奮した。
「おい、黄磊」
「フゥ……フゥ……! ぬ、な、なんすか?」
「まあ落ち着け、座れ」
猛付は胸元を押さえながら冷静にそう言って、二つの意味で興奮する大駒を床へと座らせた。そして持ってきたタオルで頭を拭き、再度真面目な様子で大駒へと向き直った。
「それだよ」
「え?」
「憶えてるか? お前が一年の時、都会を勘違いして何故かマッシュルームカットでうちに入部してきた時の事だ」
「そ、それはやめてください。黒歴史なんです」
「私は強烈に憶えているよ。凄い逸材が入ってきたと思ったものだ。お前を見た途端、やりたい演目が次から次へと浮かんできた。舞台の上で暴れ回るお前の姿が脳裏に浮かんだ……でも、お前は悪い意味でも目立ちすぎた。すぐに当時の三年のやつらに目を付けられたな。もっと言えば、イジメられたな」
「はい……」
何の話をしようとしているのか、それがわかり大駒は頭をさげた。
思い出したくない出来事なのだ。
丁度一年前の、悪夢だ。
「そしてお前は怒った。感情に正直な奴だからな、怒りをそのまま行動で表現した。その結果、お前はその三年を全員病院送りにし、大事な舞台を台無しにし、挙げ句の果てに大道具を全部駄目にした。そして停学を食らったな?」
「はい……」
「私はお前を評価している。確かに役柄は限られるかもしれないが、でもその恵まれた身体で、他の人間にはできない表現ができる。誰もがお前の演技に恐怖し、縮みあがる。でもな、自分を律することができない人間には、それが限界だ」
「……限界?」
「そうだ。お前は持ち前の迫力で観客を脅かすことはできるが、それしかできない。少なくとも今はな。何故ならお前は自分を律することができていないからだ。今のもそう。お前は興奮して、自分の力を抑えられなかった。それは一年前の事件も同じ。そんな等身大の自分しか出せない人間が、他の役の演技なんてできると思うか? お前にお姫様を守る王子役が務まると思うか?」
猛付は、あえてそんな厳しい言葉を大駒に送る。
それは教師として、大人として、演劇部の顧問として、そして、彼に期待する一人の観客として。
「で、できるっす!」
大駒はよく考えずに、そう言った。
猛付の話は難しいが、しかし自分が駄目だと言われているのはわかった。だから自分はそんな人間ではないと、否定したかったのだ。
だが猛付は険しい顔を作り、「無理だ」と告げた。
大駒はその言葉に、唇を噛みしめる。
「演劇ってのは、嘘だ。観客に嘘の世界を見せる仕事だ。そのために演者は観客を騙すだけの技術を必要とする。でも観客を騙す前に、自分を騙さなきゃいけない」
「自分を、騙す……」
「例え自分という人間がどんな人間であろうと、与えられた役を心の底から、精神の中枢からなりきらなきゃいけない。自分は王子なんだ、って自分自身を騙さなきゃいけない。それが今のお前にはできない。お前には決定的にそこが足りない。もし王子の役をやりたいって言うんだったら、王子らしさを身につけろ。些細なことじゃあ怒らない。興奮して物を壊さない。常に爽やかスマイルで、どんな女性をも虜にしてしまうような、そんな優雅さを身につけてみろ。それは嘘でいいんだ。頭の中で自分を滑稽だと思っててもいい。大事なのは自分を騙しきる忍耐力だ」
猛付の眼差しは真剣だ。彼女は本当に大駒の相談を真摯に受け止めてくれている。
良い教師だ。鏡のような。
だが大駒は納得がいっていなかった。そんな簡単に自分を見切ったかのように言われるのは、釈然としなかった。
だが反論しようとする自分を抑える。確かに興奮して我を忘れてしまうのは、悪い癖だ。大駒自身も、それを直すべきだと理解している。
大駒は再度、主役へと目をやった。
名前から既にスターを定められているような、そんな華やかな男。彼は爽やかな笑顔で周囲を魅了している。そして彼は自分のようなはみ出し物にまで、気を使って声を掛けてくれる。それこそ、主人公みたいに。
「まあ悩め悩め少年。私は大歓迎だよ」
バシバシ、とジュースを掛けられた恨みのように強く肩を叩き、猛付はその場から去って行った。
「……自分を騙しきる忍耐力、か」
大駒はよくわからないながらもその言葉を繰り返すように呟き、申し訳程度に入ったジュースを飲み干した。