空虚な朝
いってきます――昨日まで言っていたその言葉を、今日は言わなかった。
誰もいないから、言う必要がないのだ。
大駒はそのままアパートを出て、学校へと向かった。
どんな顔をして行けばいいのだろう。部室棟を壊し、皆を襲って怖がらせた自分が、のうのうと当たり前のように登校していいのだろうか。
それを昨日からずっと悩んでいた。
だが大駒に出せる結論は、あれは自分ではなかったと言い張って、素知らぬ顔をすることだけだった。変身するところを見られてはいない――はずだから。
いいや、それを真実にするのだ。
あんな化け物、自分ではない。それを真実にするために、努力しなければいけない。奈良の言っていた通りもう二度と怒らず、興奮せず、暴れ出すことのないように。
大駒は意を決して登校することを決めた。
「あ、先輩!」
大駒が校門に差し掛かった所で、そう声を掛けられる。
「え……」
それは南都伊子だった。
頭に包帯を巻いた状態で、しかし彼女はピンピンした様子でこちらに手を振っていた。
どうやら大駒を待っていたようだ。
「お、お前……どうして……?」
大駒は驚愕に顔を染める。
だって彼女は、昨日あの山南という男に殺されたはずなのだから。
「私もよく憶えていないんです。なんだか先輩が変な人に切られて、私が警察を呼びに行こうと思ったら頭に何か当たって……気がついたら病院のベットの上でした」
ということは、あの山南が投げた刀は、刃ではなく柄の方が伊子に当たったのだろう。
元々あの男は伊子を気絶させただけなのだ。
「じゃあ大丈夫なんだな? その、死んだり、しないんだな?」
「はい……どうしたんです先輩? そんな驚いて?」
「いや、無事だったんならいい。何にもねぇ」
ほっとしたのも束の間、大駒はそれだけ言って伊子の隣を過ぎ去っていく。
伊子はわけがわからないように首を傾げて、後ろをついてくる。
「先輩、昨日、何があったんですか? 昨日のあれって、私の記憶違いですかね? 変なお侍さんに先輩の首が切られたのって……あの後何があったんですか? 部室棟が倒壊したって聞いて、私何が起こったのか全く――」
「うるせェ!」
捲し立てる伊子に、大駒はそう声を荒げて止まった。
「そんなの俺は知らねぇ。俺が首を切られた? 妄想だろ。俺は昨日お前と喋ってすぐにサボりたくなって家に帰った。その後のことは、知らねェ」
「……そう、ですよね。あんなの私の幻覚ですよね? うふふ。やだ、私ったら頭打って混乱しているのかな?」
伊子はあからさまに気を使うように言って、それ以上何も問う事はなかった。
校舎に入ると、案の定昨日の部室棟倒壊の噂で持ちきりだった。幸い大怪我した人間などはいなかったようで、大駒はほっとする。
ただあの時、確かに白髪の筋骨隆々の黒い怪物を見た、という人間は多かった。
警察はそれをまともに受け取ってはいないようだったが、数十人レベルでの目撃者がおり、その噂はなかなかぬぐい去ることはできなさそうだった。
風化を待つしかないか、と大駒は諦める。
噂の中で唯一大駒にとって興味深かったのが、昨日の部室棟倒壊と、先日あったラーメン店を中心とした爆発事故。その際目撃された怪物をリンクさせ、同一犯ではないか、という噂が出来上がっていたことだ。
確かにそれは一番あり得る話だ。化け物が二体いるよりも、現実味がある。ということはもしかすると、昨日の部室棟倒壊を、あの岩の怪物のせいでできるかもしれない。
大駒は思いたった。困った時はそうしよう、と。
授業が終わり少し躊躇いながらも、しかし大駒はいつも通りに部室へと向かう事にした。昨日部室棟が見事なまでに破壊されたので、今日は北校舎の空き部屋を臨時部室として利用することになっている。
誰も使わない場所にあるため、近づけば人はまばらになっていく。ようやく指定された部屋にたどり着き、扉を開けた。
「うっす!」
あえて快活に挨拶してみせた大駒に、一斉に視線が注がれる。
それは、畏怖の視線だ。
女子にいたっては、その身体を寄せ合うように震え、大駒から離れるように壁際に移動した。露骨に、一切隠すことなく。
「ああ、おはよう」
誰も返さない中、主将の主役だけが挨拶を返してくれる。
だがそこにはいつものような明るさがない。
「お、おはようっす。先輩、えっと、昨日は大変みたいだったっすね!」
――と、授業中必死に考えた、素知らぬフリをしてみる。
昨日大駒は伊子と話し、その後奈良監督に呼び出されて家に帰ってしまった。大駒はそう偽ることにしたのだ。事実奈良と話をしたのだから、完全な嘘ではない。
「ああ、まあな。ところでブランカ。お前、昨日はどこに行ってた? あの時、いなかったよな?」
「え、あー俺、奈良監督に至急来てほしいって頼まれたんすよ! だから悪いなァとは思いながらも、先帰っちゃいました! すんません!」
「カバンを置いてか? 俺たちに一言も無しに?」
「そうなんす。すいません……がははっ」
大駒は力なく無理矢理笑う。
だが主役も、周りの誰もが、一切笑わない。大駒を見る視線は何も変わらない。
「そうか。それならいいんだ。よし、そろそろ先生が来る。始めようか」
主将の言葉に皆が動き出す。
大駒は一抹の不安を感じながらも、着替えて準備を始めた。
いつもより遅れて猛付が教室に入ってきて、部室内がいっそうぴりっと引き締まる。
昨日から始まった新舞台の練習が着々と進み始める。
だが昨日のような活気が無い。昨日マックス値まで上がったはずのやる気が、部室内からこれっぽっちも感じられない。
「はいはいはい! ストップ!」
あまりの気の入らなさに、猛付がそう言って場を止めた。
「お前らなんなんだそれは!? やる気無いなら帰れ!」
猛付は昨日とは一転、いらついたように声を荒げた。
「先生、お言葉ですが、昨日の今日なんでしょうがないですよ……あんな事があったんですし」
そんな猛付に反論するように、主役が前に出て言った。だがそんな彼を猛付は一瞥し、
「だから何だ? 誰も怪我しちゃいないだろ。昨日のあれだって建物の老朽による倒壊だ。ここは大丈夫。何をビビる必要がある?」
猛付がそう言うと、全員が大駒をちらりと見たのを、彼は確かに感じ取った。
やはり彼らは、言外にあの怪物は大駒ではなかったのか、と疑っているようだ。
「先生。それはあまりにも厳しいんじゃないですか? 誰だって怖いですよ。今日授業から休んでる部員がどれだけいると思ってるんですか?」
主役は部員を慮るように、前にでて猛付に反論し続けた。
その主役を猛付は睨み、
「甘ったれるな。次の舞台の発表までそんな余裕はないんだ。一日でも多く練習しなけりゃ、間に合わないぞ」
「かもしれませんが……」
「主役。お前は何か勘違いしているんじゃないか? お前は確かに才能ある人間かもしれない。皆をまとめる部長かもしれない。だがな、所詮一部員だ。お前が私に意見する権利はない」
「そんな……」
険悪になっていくムード。
鈍感な大駒さえそれに気づき、彼はなんとか彼らを止めようと、前に出た。
ここで良い振る舞いをしておいて、少しでも好感度を取り戻そう。
「ほ、ほら、先輩落ち着いてください! 先生も! 皆困ってるっすよ? もっと明るくやりましょうよ、ね?」
そう言って大駒が二人の肩を触ろうとした瞬間、主役、そして猛付までもが、反射的に大駒の腕から逃れるように身を翻した。
それは本能的なものだったのだろう。だが確かに、恐れるように、逃げるように、二人は大駒から離れた。その額には汗が滲んでいる。
二人は目を剥いて大駒を見上げたあと、すぐに視線を戻し、
「いいから早くやれ。ぼけっとしてる奴から役を取り上げて他の頑張ってる奴に渡すぞ」
「わかりました。皆、もう少し元気だしてやろう! 俺たちの演劇を楽しみにしてくれている人たちだっているんだ!」
主役が声を張り上げる。猛付は腕を組んで窓際のベンチに座り込んだ。
二人とももう二度と大駒を見ない。見てはくれない。
「化け物」
その時、小さな声で誰かが言った。
本当に小さくて誰かはわからない。でも確かに、今大駒に向かって、誰かが言った。
化け物――と。
だが大駒はそれを怒る気にはなれなかった。
何故ならそれは、何一つとして間違っていない、真実なのだから。




