動きだす運命
「フゥ……フゥ……」
長い石造りの塀にもたれながら、苦しそうに前進してる男がいた。
二メートル近い背に、大きな体格。髪は黒く、上半身が裸で、目は虚ろだった。
大駒は自分の身体を見下ろした。
さっきまでのはち切れんばかりに肥大した筋肉は萎み、肌の色も元の人間らしい身体に戻っていた。髪も黒に戻り、顔もきちんとした人間に戻っている。
大駒もどうやって戻ったかはわからない。
だが消え入るような意識の中で親しい先輩である主役の声を聞き、演劇部の仲間の恐れる視線を見て、我に返った。
自分の中に確かに存在するもう一人の自分と葛藤しながら走り回っていたら、いつのまにか興奮する自分が落ち着きを取り戻して消え、徐々に意識がはっきりしてきた。
身体は異常に疲れ、今にも眠ってしまいそうな程疲労していたが、大駒はそれでもまだ逃げるように家へと向かって歩いていた。
ようやく大駒の家のおんぼろアパートが見えてきて、大駒は這い上るように階段を上がった。そして一番手前の自分の家の扉を開ける。
「ノラッ!」
中には、ノラが待っていた。
宝華に貰った玩具で遊んでいたようだ。いきなり開いた扉を振り返り、驚いた顔をしている。しかしそれが大駒だとわかると、玩具を投げ捨てて大駒の元へと駆け寄った。
「よか、った……」
大駒はほっとして、その場で倒れ込んだ。
全身の疲労が限界に達していた。
今寝たら一週間は眠ったまま起きない程の自信があった。
「だいく?」
「お、おお、ただいま、ノラ。変な奴とか、その、来なかったか?」
「いこ」
ノラは伊子の名を呟いた。
それを聞いた瞬間、大駒の脳裏に伊子の最後の姿が浮かび上がる。
それと同時に吐き気が襲ってくる。
「う……」
慌てて立ち上がり、大駒は台所のシンクへとそれをぶちまけた。
ノラが心配そうな表情で大駒を見上げている。
「だ、大丈夫だ……俺ァそんな簡単に死なねぇよ」
辛い顔で無理矢理笑顔を作り、ノラを見下ろす。
何故かこの少女の前だと弱い自分を見せてはいけない気になる。大駒なりのプライドか。
ピンポーン――と、その時、大駒の部屋を鳴らすチャイムの音が響いた。
大駒はそれに心臓を跳ねさせながら、しかし慎重に扉を開けた。
「すいません。こういうものです」
扉の前にいたのは警察だった。
それもスーツにジャケットを着た、刑事の方だ。二人いる。
「な、なんすか?」
「君、黄磊大駒くん、だよね?」
「……はい」
「その子、連れてったでしょ?」
「え?」
刑事が指さしたのは、ノラだった。
自分を捕まえにきたか何かだと思っていた大駒は、拍子抜けしたような声を出す。
「だからさ、そのホームレスだった女の子、勝手に連れてったでしょ?」
「え、ああ……まあ」
「そりゃ駄目だよ君。確かにあんなとこでホームレスしてる子が可哀相で家に匿ってあげたい気持ちはわかるけどね。一応これ、誘拐になるんだ」
「ゆ、誘拐じゃ――」
と、刑事に反発しようとして、それを止める。
何故なら、大駒の中の眠ったはずの荒れ狂う感情が、一気に沸き立ったからだ。まるで嘔吐物のように胸の辺りに存在するそれは、少し感情を荒げれば、また顔を出そうとする。
それを避けたかった。
「一応そうなっちゃうって話だから。ね」
「……誰が、通報したんすか?」
「大家さん。こういうとこは許可取らないと二人以上で住めないからね。そういう契約したでしょ?」
そう言われて、契約した時を思い出す。
だが世間を良く知らない大駒は、母の付き添う形でそこにいただけで、契約内容を細かくは知らない。
「とにかく、その子はこっちで預かるから。君の優しさを組んで、このことはこれ以上事を大きくしないよ。だから大人しくその子を渡してくれるかな?」
「わ、渡したらどこ行くんすか?」
「その子かい? まずはこっちで家族がいないかどうか調査をしてみて、その後家族が出てこないなら施設に入る。もし望むのなら、そこで里親制度を利用して、正式にその子を養子にすればいい……もちろん、社会に出て養う能力があると証明してからだが」
「……」
大駒は自分の足にしがみつくノラを見下ろした。
ノラは意味を理解しているのか、その瞳を哀しく潤ませている。
しかし、今の自分にこの子を養っていくだけの力はない。しかも大駒は、近い将来殺される。今回は上手く刺客を倒せたが、相手は計り知れない程に大きい組織である。大駒が死ぬまで刺客は来るだろう。
そしてその時、伊子のようにノラが巻き込まれない可能性はゼロに等しい。
というよりも、暴走した大駒自身が、彼女を殺してしまう可能性の方が高い。
ノラは、こんな小さな少女には、もっともっと平和な世界で生きていてもらいたい。
自分とは違うのだから。
「わかったっす……ノラ」
大駒はそう言ってノラを抱き上げる。
ノラは嫌がるように抵抗するが、大駒の力の前にはそれは無に等しい。
「ごめんな。でもきっと、そっちの方が幸せだから。きっと美味いもんもいっぱい食えるから」
「や!」
「ラーメン食い放題だぞ? 焼肉とか、寿司とか、美味いもん一杯食べれるんだぞ?」
「やっ!」
「わ、我が儘言うな……玩具もいっぱい買ってもらえるし……ぐすっ……お菓子どかも一杯がってもらえるんだぞ!?」
「やぁッ!!」
大駒は溢れ出る涙を何とか堪えようと鼻をすすった。
それを見てノラも拒むように泣き叫んだ。
「感動的なとこ、すまんね。そろそろ引き渡してくれるかい?」
割って入るように、刑事の男が言う。
彼にとってはさっさと終わらせたい仕事なのだろう。早く帰りたいと顔に書いてある。
「別に今生の別れってわけじゃないんだから、また会えるさ」
大駒は決意したように再度鼻をすすり、持ち上げたノラを刑事に向けてつきだした。
「ありが――」
しかしそれを受け取ろうとした二人の刑事が、大駒の視界をスライドするように左に飛んだ。横から何かをぶつけられたように。
「え……え?」
突然の出来事に何事かと思っていると、次に扉の向こうに現われたのは、岩だった。
いや違う。
それは全身をゴツゴツさせた岩で身をくるんだ、《怪物》だ。
「お前ッ!」
大駒は反射的にノラを抱き寄せ、その身を引いた。
先日大駒らを襲った岩の怪物は、ゆっくりと大駒の方を向き、家の中に入ってくる。
「まだ生きてたのか……ここに、何の用だ? 宝華はいねぇぞ!」
大駒の問いに対し、岩の怪物は、その指をゆっくりと持ち上げ、大駒――ではなく、大駒の抱きしめるノラへと向けた。
「その子を、譲ってくれないか?」
そしてなんと、こもったような声を発した。
「しゃ、喋った……? やっぱりお前も人間なんだな……」
「その子供を、《ワルキューレ》を譲って欲しい」
「お、お前には絶対渡さん! やるってんなら、俺が相手になんぞ!」
威嚇する大駒。
現状そんな体力が残っていないことは自覚していたが、それでもノラを守るために、大駒は強気に言い放った。
だが岩の男は言った。
「やめよう。同じ《悪しき者》同士、争い合うのはやめよう」
「……あ?」
「私は君の味方だ。私と君が争い合う理由なんて無いんだ……そうだろ? 黄磊くん」
「え……? 俺の名前……どうして……」
大駒に警戒とはまた別の緊張が走った。
何故ならその声に、どこか聞き覚えがあったからだ。
目の前の怪物の全身の岩が、肌に吸い込まれるように消えていく。
そしてそこに現われたのは、大駒も良く知る人物だった。
「奈良、監督……?」




